第七.五話「始動」
いつだったか。
僕がここにいることを決めたのは。
僕が此処に居る意味なんて黒木香奈が尋ねて来る意外にない。だがいつだったか、此処が居心地が良くなって外の景色を見ようとするのをやめたんだ。
ここは少なくとも、一般大衆からすれば居心地が悪いところだろう。
白い部屋に、白い家具。向けられる視線ですら白々しく、此処にいる僕達を良いように思っていない。それなら僕を殺せばいいのに彼らはしない。
有用性にかまけて僕たちを生かし、利用している。いつの日かきっとしっぺ返しが来るにも関わらず、彼らは平和にかまけている。僕を扱えると高をくくっている。
最初の頃は高をくくる上のやつらをひっくり返そうと思ったが、どうでも良くなって知らず知らずのうちに居座っていた。
真四角の箱である部屋には隅に一つだけ小さな正方形の窓が存在するだけで外は見えない。もとより見るつもりもない。
外から鍵がかかった扉もあり、僕はそこから外へ出ることもできるが、出るのさえ億劫になっていてノブに手をかけない。
部屋には最低限度の家具しかない。ソファに、机、スタンドに、棚。何も入っていない棚。
僕にとってはこの棚こそが僕たらしめる個性だった。ここは無個性な僕にとっては、限りなく僕たらしめていた。むしろ僕だと言うことを証明していた。
言えばきっとこの施設のやつらは本だとか、色がある家具だとか用意してくれるのだろうがそれもめんどうくさい。
白いソファに腰かける。背後には白い壁。
薄っぺらい壁にノックする。
窓を見ると、今日もやはり曇りガラスで外は見えない。そんなガラスの向こうの空へ思いを馳せる。空に僕はいろんな人へと思いを乗せる。
そう言えば今日は彼女と会って何年だっけ、と数える。数十年だ、とすぐに心の中で答えがすぐに出てまだそんなに時間が経っていないなあと苦笑した。
僕の姿はまだ変化はない。
「今日だよ」
隣から悟った少女の声が聞こえて来た。
「おはよう」
挨拶すると隣からすすり泣く声。鼻水を吸い、しゃくりを上げている。
彼女がこんなにも弱弱しい声を発するのが珍しい。僕は彼女の声に少しだけ胸を高鳴らせた。ドキドキワクワクしながら壁越しに彼女の泣き声がやむのを待つ。
ぼんやりとまた見えない空を見上げて雨が降らないか待つ。あの厚さはきっと雨が降るなと根拠のない確信を持った。
あの雨空の下、雨にうたれて泣く人は数知れず。きっと植物達も雨にうたれるだろう。その瞳から雨を降らすだろう。絶好の天候だ。絶好の死に日和だ。
なあ、石田要。
壁越しの泣き声が終わると僕は間髪入れず尋ねた。
「あの子が死ぬの?」
駄菓子屋を営んでいた夫婦を思い出した。
僕にとってはあの石田要は『あの子』だった。僕にとっては時間なんてあっという間だったから、要もまだ年下だった。
あの子、石田要とは植物達や上のやつらから石田要のことを聞いて、駄菓子屋に訪れて出会ったのが始まりだった。
上、と言うのは当時のこの国の上は黒木家だ。
僕にとってはどうでもいい事だが。
当時の僕は石田要の中立的な立ち位置に興味を持った。彼女は身近な人を戦争で失くしている。それは身近な人が植物によって殺されたということだ。
だが彼女は植物に肩入れしていた。なぜ意志も未発達な植物に味方をするか。興味が湧いた。
最初に出会ったのは、そんなある日だった。
彼女、黒木香奈が黒木になる前だったか。僕がここに捕らわれる前だったか。
それにしても僕の見た目は、全くと言っていい程変わっていない。細胞の検査をしたところ十年に一歳しか年を取っていないらしい。だからか知らないが、僕の体は此処数十年ずっと青年の体をしている。
黒木家じゃない、今のこの国の中核を担う政府のやつらにとっては歳を取らない僕が物珍しいのかこうして隔離をしているのだろう。
過去に血で染めた手を仰ぎ、見る。
人の生は奪うものでしかなく、殺人鬼と呼称された僕はそんなことは当然だった。
だから死を少女の眼で見るたびに隣室の少女が死を悼むのが分からなかった。
「うん。死ぬよ」
微かな壁越しの声はまだ震えていた。
「ある商人はそれを聞いてきっと自分の無力を嘆くだろうし、ある少女はやっと再会して、ある少年は己の空っぽさを嘆くんだ」
「ああ」凄いなと胸の奥で少女の力に憧れて高鳴る心臓を抑えた。「君の力は相変わらず凄い。一体どこまで見えてるんだ」
「私にとってその言葉は皮肉でしかない。こんな力、ない方が良かった」
僕と同じく隔離されているのなら、それなりの理由があるはずだ。彼女は理由を一向に語ろうとしないが、僕は薄々気づいている。
僕自身も此処に居る理由を語ろうとしないが、彼女はその眼で見て知っている。彼女の眼は何でも見通すのだ。
壁越しでも、どこでも、未来でも、過去でも、何でも視えてしまう。
「私はただ眼の前のことを語っているだけなのに」
暫く彼女は黙った。
その間が心地よく僕は気持ちに沿い、次の未来を想像する。
白い壁の向こうにある彼女の瞳の色や姿を思い描く。少女の声だからきっと僕よりも背は低いだろう。その小さな体躯を今は冷たい床の上に泣き崩しているはずだ。白い床に少女は大粒の涙を落として、水たまりをつくっているのだ。
「君の眼は最高だ」
ふっと漏らした言葉。
いつもの彼女なら何も言わない。その沈黙を僕は好んでいた。
「もう嫌だ」
だがいつもの日常もすぐに綻んでしまう。それぐらい少女にとってはこの死は痛みを伴っていたのだろう。
僕はいつもながらに何も感じない。傍にある眼の力を燃えるたぎるような興味と楽観で満たしているだけだ。その眼とともにある今が、良かった。
良かったのになあ。
「嫌だ」
少女の呟きは繰り返される。何度だって拒否権を行使するも、少女の眼はそこまで融通の利くものではない。
僕は見てきた。
少女のような眼を持っているあの子、黒木香奈を。僕をここに放り込んだ、あの眼の力を見てきたのだ。
眼を恋しく思って彼女と会うためにここに居座るのは悪くはなかった。
「嫌だ」
時々訪ねてくるあの子と隣の少女の眼が似通った力だということも知っていた。その力の傍にいれることが何よりも至福だった。
「嫌だ」
僕は殺人鬼だ。
何人も殺してきた。赤子から大人まで。何も感じない虚無感もあったが、自身の力を誇示することがなによりも喜びでやめられなかった。
いや、やめたくなかった。
僕の持っている大きな力を破壊することに浸からせた。そうして日常を浸して、上に見放され、政府に隔離された。
目的は僕の兵器利用と、魔法の副作用の調査。
「嫌だ」
白い四角いこの施設は、そういったやつらの集まりだ。
魔法の副作用で未来が見えてしまっているもの。僕のような十分の一しか成長が見られないもの。狂ったやつらを集めて、兵器として利用できないか実験している。
ただ、ただつまらない毎日。
「助けてくれ」
その毎日も今日の隣人の言葉で壊れてしまった。
僕は、もうここにいる理由もなくなってしまった。
「君を殺していいのかい」
僕は答えた。
空っぽである僕を唯一満たしてくれる破壊欲を少女は自身で埋めようと、自ら名乗りを上げた。
名乗りを上げなかったら別に殺しはしなかったのに。
隣にこんこんとノックした。まるでどこかの家に失礼するかのように。
君を殺していいのなら僕はそうする。その眼を賭けて僕は少女をずっと前から殺したかった。
だが、殺したくもなかったのも本当だ。
魔法石もないこの場所でどう殺すのだ。君は無力じゃないか、なんて上のやつらは思っているだろう。
僕の真の力も知らずに軽装備なこの部屋から少女のもとへ行くのは簡単だ。
僕は、ここから抜け出せるのにしてこなかっただけだ。何もない日常を、休みを、甘受していただけだ。
毎朝挨拶をして外の風景を教えてくれる少女といても良かった。良かったんだ。
「殺してくれ」
今にも死にそうな虫の声で少女は僕に助けを頼んだ。
一息。
「ああ」
だがその前に、僕を訪ねてきた者がいるようだった。一つしかない僕の白い部屋の重いドアが開かれた。
そこにいるのは僕に向けておびえる眼差しを見せる魔法使いと凛々しく見せている此処の看守長だ。手には僕にかけるだろう手錠がある。
そんなものをしても意味がない。
「香奈が尋ねてきた?」
陽気に問うと、魔法使いが震え上がった。それもそうだ。ここに来るまで僕は何人も魔法使いを殺してきた。殺しがいがあるからというだけの理由で。
看守長がうなづくと、不機嫌そうに魔法使いに睨む。僕のことにおびえているのが気にいらないのだろう。
もし僕がここで抵抗するのならこの魔法使いが抑えなけらばならないから、こんな態度ではいけないといった風か。
「君、新入りだよね。大丈夫大丈夫。安心して」
僕は看守長に歩み寄る。この人だって、僕よりも年下だ。僕の全てを知っているわけじゃない。どれだけ僕が破壊に飢えているかも。今、隣人が僕のスイッチを押したことも。
「僕はなにもしないから」
僕の見た目だけは魔法使いや看守長よりも年下なだけ彼らを安心させる雰囲気を与えられる。みんな見た目にはかなわない。
□●□
面談室に入る。
そこは、湿気がこもっていた。鬱陶しいぐらいにむさくるしい湿気だ。やっとその時になって外は雨が降る時期なのだと理解した。
春夏秋冬が過ぎるのが早いなあ、と頭で描き、そこから今日は会話に入ろうかと推し量った。
相手に話しかけるには透明ガラス越しだ。このガラスは透明だが、他は白い。僕の部屋のように四角い箱に入れさせられているのと同じ感覚だ。
だがさっきとは仕様が違う。こちらは個室で一人ではなく、背後に一人、ガラス越しに一人がいることだ。
監視カメラが作動しているだけの個室とは違い、カメラが作動している中で、人がいる方が落ち着く。しかも目の前にいるのは、僕の見知った人で、とても大好きな相手だった。
特に眼が。
「やあ」
ガラス越しの黒木香奈に挨拶した。
香奈はコートを椅子に掛けて、不機嫌に僕に向き合っていた。その態度から見ても僕のことが嫌いそうだ。それなのに小さいころからよくここに来る。
香奈の眼によってここに入った僕が彼女を気に入っていることを知っているんだあいつは。そんなあいつ、香奈の傍にいるあの町の市長さんが差し向けて来るんだろう。
「香奈、もう雨の季節なんだね、で、今日は何のよう」
そのたびに僕は楽しいわけだが。
「そろそろ訪ねてきた方がいいかなって思っただけよ」
僕とは徹底的に目を合わせない。目を合わせようとしても目を逸らしされる。今はその眼に何も映っていないようだった。
僕が思うに、香奈の眼は未熟だ。僕の隣人よりずっと。おそらく『確実に起こる事柄』変えられない未来の事柄は眼に映っていないのだろう。
「そっか……でも、僕としては良かったよ。この場所で最後にこの時に君に会えて」
「最後?」
ぴりっと唐辛子をまぶしたように空気がはりつく。後ろの魔法使いが慌てている気配がある。態度には出ていないが雰囲気がにじみ出ている。
僕はそういうの敏感なんだ。よくわかる。この場での空気の流れを読む。僕が終始主導権を握れるように、言葉を紡ぐ。
「今日さ、ここを出ていこうって思ってるんだ」
「な」後ろで耐えきれなくなった魔法使いがうろたえた。
そいつに僕が魔法石を持っていないことを示すために手錠がかかった手を見せる。一層魔法使いは焦る。焦った様子を僕はほくそ笑んだ。
手を下げて、監視カメラを見た。四隅にそれぞれ取り付けられている。こんなものも無駄なものにしか見えない。もっと金の使いどころがあるはずだ、なんてわかりきったことは言わない。
カメラに向かい、目を合わせた。その向こう側にいる、これから見るであろう宿敵に笑う。
誰だっていい。僕を倒すものなら満足だ。
ここでは足りない。満たされない。
それに、そろそろだとは思っていた。仕込みも終わっている。あとは開けるだけだ。
「そういえば知ってた?」と僕。
「何?」
香奈の困った顔を見る。格別に良かった。
「今日死ぬんだよ」
次を早くと彼女は目で必死に促している。
「石田要」
そこで都合よく、香奈の携帯電話が鳴り響いた。どうぞと僕は香奈に許可した。僕のことを憎んでいるけど、許可をとってしまう。それが癖になっているから。
どこまでも簡単な生き物だ。
手のひらの上で勝手に踊り狂っている。
香奈は携帯電話を耳に当てる。
僕は予想した。今、石田要のそばにいるのはきっとシロ。それにあと三人。
あの三人が邪魔で手を出せなかった。逆にいえばその三人を仲間に引き入れれば、植物たちは勝ちだった。
植物と人間と……僕。
相対する者達がいろんなものをかき回す。そうしたら自然と砂利道を転がる石のように丸くなる。いろんなものを削って、壊して、丸くする。
円滑に済ますには、仲介者がいつの時代だって必要だった。植物の中でもそれは同じだ。
僕は、知っている。
石田要はその仲介者だった。
人間のくせして、植物に立ち入った。仲介者がいなければ植物たちはどうなる。知っての通り、慌てて人を傷つけるだろう。これまで通りだ。
僕は石田要が持っている重要な書記の中身を少しばかり暗記している。だから、ここを出たら僕は僕のしたいようにかき回すのだ。さぞ楽しいだろう。さぞみな慌てふためくだろう。
それを妄想すると口元がほころんで仕方ない。
黒木香奈の電話が終わろうかとしているとき僕は鋭い一言を投げかけた。
「そういえば元気にしてる? 香奈のところにいるあの翠って女の子」
香奈は返事をしない。衝撃が大きかったのか僕のことを見つめてだけいた。
「僕みたいに魔法の副作用で悩んでる子。この間新薬が開発されて魔法の副作用を抑える薬持って行ったって聞いたけどどうだった?」
笑いが洩れるのをこらえた。
僕は知ってる。あの薬は意味がないことを。何にも作用しないのだ。ここで開発されているのはてんで逆のものだ。
副作用を人工的に作る、卑しい研究だ。
戦争から数十年してもずっと開発している。馬鹿らしいもの。シロを書記の甘い飴をちらつかせられて僕の宿敵に逃がされたのにも関わらず、それでも兵器の開発をやめられない。
そうだ、香奈の街の近くでやっていたあの村の実験場もそうだ。
ここと同じく戦後まもなく作られた実験場。
各国から連れてきた子供を同意のもと実験した。
僕から得られるものなんて何もない。できて僕と同じ構造人間の副作用を抑えられるだけだ。
黒木翠のように意図的に作られた副作用なんて抑えられない。
それなのに、香奈は諦めきれず打診している。ここの研究員に疎まれながらも、諦めない。その根底には狂っているのと同じ理由が秘められている。
「実の子供じゃないのに、よくそんなに必死になれるよね」
僕は笑い交じりに続けた。
「君は、あの子に君の子の代わりになってほしいんだろう? かわいそうに」
ーーあの子がかわいそうに。
どこの子とも言わない。僕はそうすることで意地悪したくなった。香奈の感情が高ぶるさまを見てみたかった。そうして眼の力を見せてほしかった。
僕を捕まえた時のように、僕の敵にふさわしい相手が欲しい。破壊するにも場所がほしい。場所を整えなければならない。
ガラスが割れる音がした。香奈が魔法で作った包丁でガラスを刺して、亀裂を加えていた。蜘蛛の巣上に広がったガラスは、香奈の姿を既に映していなかった。
蜘蛛の巣に言葉を絡ませられたのか沈黙が過る。
背後の魔法使いはあっけにとられて動かない。そんなんで魔法使いをしているのが少しだけおかしくなった。
僕が本当に何もしないと思って、平和にとぼけて送り出してきた新人なのだろう。なめられたものだ。
「ごめんごめん、香奈。そんなに怒るなんて思ってなかったよ。冗談だって。ここから出ることも、あの子のことも。ちょっとからかってみたくなっただけなんだ。だって今日は、命日なんだもの」
「あなたはおかしい」
「それはお互い様だ」
あの実験場から連れてきた子を子供として受け入れるぐらい子供を渇望している彼女も僕はおかしいと思う。
「こんなところ、ハッチンに言われなきゃ来ないわ」
やはりあいつの差し金だったのか。僕から情報を絞り出すためにだけ差し向けていたのなら、やはり僕の宿敵は性格が悪い。
ガラスの向こうの香奈の影が振り返る。
「またよろしく言っといてよ、あいつに」
僕の宿敵に。
香奈が去るまで僕は待った。今から街の惨事の対処に向かう香奈にこれ以上の面倒を重ねるのは僕だって引ける。隣人の少女が言ったことも気がかりだった。
したがって、僕は大人しく香奈がこの施設から離れていくのを見送りつつ、彼女の眼の残り香を匂いだ。
あの眼をまた行使するのかもしれない。するとますます彼女の眼の力が強くなる。その先は僕の知らない域へ。次に進む。そして自身の巨大な力に絶望する。
たまらない。
その時白い部屋の中、床にガラスの破片が落ちた。
キイィィーンと反射する音。
僕は魔法使いに向き直った。僕の姿を見てどう思ったのかふんわり笑った。
平べったい僕の裸足を床に滑らせる。ひんやりとした床が感覚的に伝わってくる。湿っていたのか床に足が吸い付く。
「お待たせ」
魔法使いの反応に答えるようにして、やわらかく微笑んでみた。
ま、そのまま殺すんだけどね。
一瞬だった。僕は魔法使いの体をひねり上げた。魔法石もなしに、体の強化を図った。手錠は強化により切れてしまう。
何が起こったのかわからなかったのか、魔法使いは最後まで僕に微笑み続けた。腕、足、首、胴体が全てひねられている。そうして僕は気づいた。
「あれ? こいつどんな形してたっけ?」
大声を上げて嘲笑し、見下げた。
最初から殺すつもりだった。隣人がここを出たいと、死にたいと言っていた時から僕はここから抜け出すために奥の手を出した。
こいつらは知らないのだ。
「残念だったね。魔法石なんてなくってもさ、魔法って使えるんだよ」
血がでない地味な殺し方になった。今からバラバラに切り裂くにも看守長がくれば厄介だ。僕のこの力は、恐怖だけ仰ぐのがせいぜいで、大ぜいを相手するには向かない。持久戦に持ち込まれるのは、危険だった。このぐらいが限界だ。
ごめんよ。
きちんと壊せなくって。
「にしても、政府の裏部隊。しかも魔法使いでこの程度のやつを送り込んでくるなんて、僕って本当なめられたもんだよなあ」
肩を回し来た道を引き返す。行くのは彼女の部屋。僕の隣人のもとへだ。
どんな眼をしているか、今から楽しみだ。
□●□
ひたひたと彼女の部屋の前に来る。意外なことに、少女の部屋は手薄でドアも薄い。
僕の厳重なドアとは大違いだ。きっと僕のは特注品で爆弾が投下されても中は安全地帯のままだ。僕ってそんなに価値があるとは思えないけど、なくす兵器としては惜しまれるぐらい有能だったらしい。
そしてこちらの少女のドア。
薄い木のドア。
少女は一体何をしてこんなところに連れてこられたのだろうか。少女の眼があれば、追ってから免れることなんて簡単だ。未来も過去も全て見えているのだから。
真実だって一番近いところにあるはずだ。僕の中身だって、少女の眼によれば簡単に暴かれてしまった。
とんとん、とノックする。
ふと気づき白い服の裾で先ほど汚してしまった手をぬぐった。何もついていないが、人様に出会うときは手はきれいにしておくべきだと思ったのだ。僕の好きなものに会うときは特にそうしている。
切れた手錠がからからと玩具のように鳴った。
「来るの、分かってた」
ドアが内側から開けられる。
そこにはコロボックルのようなちょこんとした少女がいた。ここに来た年数から考えてやはり彼女も僕と同じ魔法の副作用で年齢を重ねられない体のようだった。
幼い少女。十歳前後の容姿をしている。濃い茶髪をしていて、瞳は赤い。血の滴る瞳の色。僕にとって濁った血の色は最高の色だった。良い濁り方をしている。この実験場で配布される白いワンピースは良く似合っている。
ひらりとスカートを翻し、僕を見つめた。頬は濡れた跡がある。目は赤くはれていた。
僕は少女の目線に合わせるよう、腰をかがめた。そして頬をなでる。綿を撫でているような感触だった。つるふかの頬は僕が触れるとぴくっと動いた。
「泣いてたんだね」
僕は、その感情が分からないわけでもない。殺人鬼、鬼、そんな鬼にだって人並みの感情はあるものだ。サイコパスや狂人ではない。
ただ魔法が他より使えて、破壊に気持ちが向いているだけだ。トリガーを引きやすいだけだ。何も思わないわけではない。
僕は僕の意見だけで行動する。誰にも僕を止めることなんてできやしない。あの香奈だって。
「早く殺してくれないか」
悲痛な声が漏れ出た。
「言われなくっても」
手に先ほどの香奈が作った包丁をイメージする。すとんと空間に落ちてくる包丁を、僕は少女の腹に刺した。今さら躊躇いなんてしない。
次第に赤い花が少女の白い服に咲き始める。少女の体が落ちていく。美しき花弁が手折られたように、散っていく。
そっと体を支えて、僕は少女との最後を過ごすことにした。
「痛い?」
「ああ」少女の口から血がしたたり落ちる。「地味な最後だ」
「一息にやるには惜しいからさ、腹にしたんだ」
僕は少女を抱きかかえて、ドアとは間反対にある壁に向かった。
ここを壊すのは骨が折れそうだ。
少女に刺さった包丁を、宙に浮かせて大きくする。空気や空間を動かすこの宙に浮かす魔法は消耗が激しい。あと、やったあとは自分が思っている空間認識と物理世界の空間認識が混じり気分が悪くなる。
次に宙に浮かせた大きい包丁を壁に向かって勢いよく押し出した。包丁は壁を突き抜け、がらがらと壁だったものとともに消えていく。
壁をぶち抜いたら、荒れ地が広がっていた。向こう側に鉄柵が張られている。その先には濁った湖の姿。曇り空にしけた匂い。地面を裸足で歩くと、ちくちくとした小さな雑草と石ころが足に刺さった。歩みを止めたくなるが、それでも歩き出す。
ここから先、こんなことで止まっていては僕のしたいことが出来ない。
抱えていた少女の瞳がうつろになってくる。
「……ずっと視てきたんだ」少女の口が動き始めた。「この光景を。君が私を殺す日を夢見ていた」
「それは良かった」
背後でブザー音が鳴り響く。ようやく事態を察知した実験場のやつらは魔法使いを募っているところだろう。そんな奴らも、僕は返り討ちにできる自信がある。
「散々な人生だった。私はただ視てきたものを言っただけだったんだ」
少女の声に耳を傾けた。
たなびく濃い茶色の髪が腕に当たり、こそばゆい。
「私は、視るただけだ。人の死を、どのように死ぬか。それを当人に伝えただけなのに皆に忌み嫌われた。嘘つきだと呼ばれ、私の眼が本物だと理解した民衆は今度はバケモノと呼ばれた」
次第に少女の体重が重くなってくる。手が落ちていく。力が抜けてくる。
「私は視ているだけだった」
赤い黒い瞳にいっぱいの水が浮き出てくる。あふれ出して、頬に伝う。赤い実のような大きな瞳の涙は透き通っていた。
寂しげな風が僕達を通り過ぎる。
少女の口からもう一度吐血。腹に空いた穴から出血。てんてんと実験場から目印のようにどすがきいた赤が続く。
「私は確定された未来も確定されない未来も視てたが、君の未来が一番だった。君が私を殺す未来が一番良いと感じて、そうしたんだ。だからこの施設に来た」
「どういうことだ」
「君がこれからすることは、ともすればヒーローで一方ではヒールだ。取り持つ気だろ? これから起こる戦争を、かき回す気だろ。そんなことに私は加担したかったんだ」
「そこまで知ってたんだ。なら、君の眼もそんな中に組み込むことも知ってるだろ?」
「だからこそ、私は君に託そうと思ったんだ。私の眼を。
私は憎い。私は憎くてたまらない。自分の眼も、それを虐げた人間も。早くこの世からいなくなりたいほどに」
本当に眼に嫌気がさしてしまったのだろう。それが今日という日だったのだ。僕はいつだって準備はできていた。いつだってこの白い囲いから脱出できた。訪ねてくる香奈の存在があったのもあるが、香奈を追って外に出てもよかった。
でもしなかった。
白い囲いからでて、やることは一つに絞られていたのに、それでも躊躇った。
少なくとも僕は……
「君の眼以外にも君自身を好ましく思っていた節があったんじゃないかな」
少女の瞳は瞬き一つしない。もう動かない。声も出ない。凍ったように固まっている。さわさわと髪の毛だけが風に揺られている。長い髪の毛だ。
やってくれ。
この日常を壊してくれと少女は言っているように感じた。
僕達は異端だった。どこに行ってものけ者にされてしまう。同じ時を生きることはできない。老衰で死んでしまうものに感情を移すとろくなことがない。うつろいゆく景色に感傷を覚えるほど痛みを覚えるものはない。
死なんて普通にありふれたものだ。僕はそのことに気づいていたからこそ壊せるし、そのことに希望を見出せる。
目の前の鉄線を蹴破れる。引き裂いた先に、道を作る。切り開いていける。
僕の意思は揺るがない。少女の言葉を付加するなんてことはしないがやることは変わらない。未来を教えてもらわなかったからこそ、僕は自身で切り開かなければならない。
手始めに、香奈に会いに支部を襲うおうか。
目の前にある大きな湖を眺めた。
いつからだったか。
僕が殺人鬼になったのは。
殺すことは僕の意思の証明の手段でしかなくなったのは。
人の意思がこんなにもつまらないものだったと知ったのは。
それでも壊すことに希望を見出したのは。
「そういや、名前聞くの忘れた」
少女は僕の名前を知っているが、僕は少女の名前を知らなかった。
いや、だがそこまで知りたいものでもない。名前など人を見分けるための記号に過ぎない。
「僕は密っていうんだ」
とりあえず少女が好きそうなことを言った。すると少女が柔らかくほほ笑んでいるように見えた。
僕は少女のもう聞けやしない言葉を待った。
知っている、と。




