第七話「雨が降って(傘をたたむ。)」
相も変わらず雨は降り続いていて、俺の体を凍えさせる。
施設の入り口を経て、中に入る。周りには過去と寸分違わない村の姿が映し出されている。しかし、そこにあるものは変わっていなくても、人は違う。人が居ない。静けさが満ちている。
ぶるっと体を震わせる。空気が冷たかった。
当時、俺が歩く隣の家にはまだ若い夫婦と、此処で生まれたばかりの赤子が居た。その隣の家は、遠くの国から来たと言っていた年端も行かない兄弟が、そのまた隣の家は少女が出て行ってしまった少年を待っていた。帰ることはないと知りながら、家でただひたすらに少年の分のご飯を毎晩作っていた。
まだ鮮明に記憶が蘇る。まだ八年前のことだからかもしれない。
俺が此処で過ごした月日はそんなにないにもかかわらず、此処での記憶は温かさにでいっぱいだった。この施設の意味を考えれば、村は偽りの平和だったのだろう。だとしても、連れて来られた彼らにとっては村は大切な場所だった。楽しい事も、外よりはあったに違いない。
よくある日常、それをある日唐突に壊された。
水たまりを踏み、靴の中に洪水が起こる。気持ち悪さを感じつつ、あの頃とはもう既に決定的に何かが違った今に戻って来る。土は水を吸わず、土の表面を流れている。放置された廃屋にはもう苔が生えていた。
今、この村は廃棄されていた。社会的にも捨てられ、この村は地図にも載っていない。そもそも知られていない場所だったのだが、ここで生きた者達を思うとやるせない。誕生した子供も、外から連れて来られた命も無に帰った。今は何もない、廃墟だけだ。
しんとした村の建物のほとんどは白い。それに人工物な雰囲気を漂わせているので一層冷たさは増してみえた。ところどころに滲んだ血の色はあの日の雨の色を思い出す。
俺は生きている。死ぬことも出来ずに。いや、死ねば良かったのに。
先に目をやると、忌々しい大きな施設が目に入った。あの施設があの時血に染まってしまえば良かったのに、未だ白い。そうあり続けているのを見ると、頭の中から炎に焼かれるような痛みが伝わってくる。自然と歯を強く噛み、睨みつけてしまっている。
なんとか訳の分からない感情を押さえつけて、施設から下へ視線を向ける。
赤色が浮いていた。
アヤカだ。
白い建物の中でひときわ赤い傘が浮いて見える。
俺は焦ってすぐに近づく。
傘の中にあの殺人鬼がちらりと見えた。
あいもかわらずあいつは無表情だった。無表情のまま仕方なくここを血に染め上げたあいつが等身大のままアヤカに向き合っている。
あの日亡くなった命は何人だっただろうか。四百人、五百人、六百人、もっと多い。ここで出会って、夫婦になって、子供を生んだものもいたのだ。そんな人数では足りない。
ここであいつは、殺した。かけがえのない物を奪った。仕方ない事だったかもしれない。あいつにとっても苦しい事だったかもしれない。それなら一層止めなければならない。
近づく足が速くなる。
その直後ちらりと傘が持ち上げられた。アヤカとあいつが見える。
途端に、足を止めてしまった。
あいつ、殺人鬼の目からはいつもならあり得ないはずの涙を流していたのが見えた。ほとんど表情も変わらず、何考えているか分からない殺人鬼がアヤカと出会ったことで感情を表していた。
ありえないはずだ。感情なんて、あいつには表す器官なんてなくて、白も俺もお手上げ状態だった。それなのに、アヤカはやってのけた。
これまで俺が不安に思っていたことを全て潰されたように感じた。心臓を引き裂かれるような強烈な痛みが走った。体が脱力してしまって、動かない。空っぽの俺のなんとか詰め込んだ理由が、全て無意味になってしまっていた。
なかなか受け入れられず、自分の中でまだ何かないか探す。俺が此処に居て、アヤカに知られるのを避ける理由があるはずだった。俺のやってきたことはまだ無駄ではない。無駄ではないのなら具体的な何かがほしかった。
同じ部活仲間だからか。
あいつは守たいぐらい良いやつだからか。
あいつには救ってくれた恩があるからか。
どれも当てはまらない。
記憶を探る。これまで見てきた人の死を、流し見る。救えなかった人、傍観して見殺しにした人、今救っている気になっている人、いろんなもの達が浮かぶ。
そうして瞬時に見つけた。果てに、出会った黒いあいつの存在を。
そうだ、まだだ。まだ、アヤカは知らなかったはずだ。
まだアヤカは知らない。八年前この白い街を見つけたことによって今日のこの日を迎えたことを。
そうだ。まだ知らないのだ。
まだこの世界に、殺人鬼以上の黒いあいつがいることを。
世界は知らないのだ。
知らないからそうして幸せで入れるのだ。
俺には感じ取れない物をあいつに上げることができるんだ。
だったら知らないことを、知らせずにいるために俺が隠さなければならない。
ぎりぎりと俺は気づかないうちに歯ぎしりしていた。何かがかけ違っていて、何が俺に焦りや悲しみを表しているのか、何でこんなことをしているか分からないが、そうしていると心の安寧が訪れた。
目の前の彼女と彼を見ていると、そうしたくなった。
――あいつらは知らない。だからお気楽で入れるんだ。
黒いもやがかかる八年前のあの日が再生される。
俺がまだ『翔』じゃなかったあの日、俺は死体の傍で目覚めた。
痛みと、恐怖で支配された場面だった。俺は恐れを感じようと体を震えさせた。震えることで寒気が吹きすさぶ気がした。死を傍に感じることで、そうなるような気がした。
傍には俺を刺した殺人鬼とまだ幼いアヤカがいた。
赤い水たまりに二人寄り添って気持ちよさそうにすやすやと寝ていた。
穏やかな二人の顔は現状全てが夢だとでも言うように、現実を否定していた。
全て嘘なんだ、と。
そんな訳ない。
俺が苦痛を感じているのを要は悟ってか、あの日保護された後アヤカを訪れた。
アヤカが目が覚めた時、要は諭すように言っていた。
「死んで別れる方が云十倍も辛いんやで、だから」
だから、
「今の気持ちを大切にしいや」
要はアヤカの柔らかい茶色い髪を撫でていた。
俺はそれを傍で見ていた。
柔らかい畳の上、俺は誰にも見られることなく要とアヤカを眺めていた。
要が床に就くまで。あの日まで。どの日まで?
いつも一人見守っている。
誰にも必要とされていないにも関わらず、俺は一人奮闘している。
血の海の中、シロが俺から離れて、血の海の中、ネズミを探していた。心配そうにネズミを呼びかける。
血だらけなのを見ていると、シロの再生も追いついていない。
それぐらい傷つけられたんだ。この殺人鬼に。
穏やかな日常を全て壊された。何もない。ぽっかりと空いた胸に、誰も俺の名前を呼んでくれない現実を受け止めた。何もないから一層受け入れてしまった。
皮肉なことに誰も、俺のことを必要としていないのだ。
それは俺が、人ではないからか。それともこんな姿をしているからか。
声が治らない。咳をし、吐血する。
赤い血の中に俺の血が混じってどれが俺の血か分からなくなっていた。
痛みなんて忘れたい。鈍い痛みだけ残った体が難儀でならなかった。
願っていると目の前に、一人の影が遮った。中肉中背の男。影を背負って、俺を見ている。腹を腕で押さえ、痛そうに顔を顰めていた。
お前も俺に関わると死ぬぞ。俺と関わってきたやつはみんな死んだ。俺を必要とした奴は全員死んだ。俺を置いて、逝った。みんな、空っぽな俺を埋めてくれないんだ。
誰も俺を呼んでくれないんだ。
今、重い体を引きづリ歩く。雨を背負って、赤い傘の元へゆく。
ああ、殺人鬼は感情を上手く表せたんだ。絢香がいたから。
俺は誰もいない。行動理由も判然としない。
俺は何のために此処に居るんだろうか。
俺は歩く。
赤い傘の彼女に「こいつは俺の兄なんだ」とうそぶき、彼女が俺に笑いかけるのを想像しながら。俺はそれに失望するのを想像しながら。彼女の元へ歩み出す。
どうか、八年前に彼女がこの施設を見つけてしまって、変わってしまった未来に気付きませんように。
彼女の笑顔と類の笑顔が俺の焦燥感やもやもやの正体と知りながら、俺は彼らの笑顔を壊すことはしない。俺のためには動かない。
本当はどっちなのだろうか。
守りたいのか、生きたいのか、俺自身として動きたいのか。
本当は、ないのかもしれない。
雨が小降りになってきた。
少女の傘がたたまれる。




