第七話「雨が降って(少年と水の魔法使い)」
空中に広がる光の粒が大きく波うつ。
俺の視界に写るこれはただの人工物だ。
俺はアヤカにはこれを何て言っていただろうか、確か魔法の副作用だっただろうか。
そんなものだとしたら良かったのに、なんて思ってしまうのも少しは感情が人によってきた印だろうな。この俺が人に、なんてそれこそ笑い種だ。
俺は昔から何も変わっちゃいない。
何も進歩していない。
天高く伸びる木達は違う魔法使いに任せて、俺は森から市街地に出た。ここならプラントと出会っても、誰かが見つけて俺は逃げ切れる。それに殺人鬼、類を見つけやすい。
あいつなら、周囲の物を破壊して回るだろう。もっとも類が破壊出来る状況なのかは分からないが、大いに有り得る事だ。
俺にはシロや同郷の他のやつら、主に類の居場所は分からない。分かるとしたらプラントや普通の人だけだ。今は入り組んでいてどちらにせよ視えずらいがな。
一旦瞼に落ちる雨の雫を手で払った。服が雨のせいで肌に張り付く。体が冷えてきた。ぶるっと一瞬体を震えさせる。
近くの家の屋根に飛び乗る。そこに少しだけ体を休ませることにした。
心も視界も落ち着かない。さきほどの光景が瞼を閉じても開けても映る。
あの老婆の命が亡くなる瞬間を目の当たりにした光景が、離れてない。まだ目の前に広がっているみたいだ。
シロの手から老婆の手がするりと抜けていった瞬間、老婆の体から大量の光の粒が離れていった。
あれがこの世界で言う魂なら、きっとこの世は魂だらけで、その中のたった一人を見つけるのは苦労するだろう。
だが、見つけたとしたら今度は、彼女の配偶者と一緒にこの世に漂い続けてほしいものだ。
目の前のこの光の粒はその一つなら、それならいいのに。
呼吸を整え、雨粒にさらされた光の粒の一つに手を伸ばす。
俺にはこの丸っこい粒が何かは分からない。いや、何かは分かっているが、どうでもいい。どうも感じてもいない。あの老婆がそうであればいいというだけだ。
人に固執し過ぎたか。
俺は、視界の光の粒を消し去った。しつこい現実を今は視なくて済むようにした。
なにもかもなくなって、雨粒だけが手のひらに落ちてくる。ーー視界を戻したらそうなると思っていた。
しかし俺の予想に反して、手の平の上に小さな綿毛が浮かんでいた。綿は白く毛玉みたいに柔らかい。掌の上を舞って、触覚をくすぐってくる。
こいつも固執しているのかもしれない。
「お前は此処から離れなかったんだな」
本体でないこいつに話しかけても何も反応がないのは当たり前だが、話しかけずにはいられなかった。こいつは俺に縋りついて来た。でも、今度はどうすることもできない。
「ごめんってさ」あの老婆の言葉を反芻する。「あの時言ったんだ」
いつも老婆は言ってた。俺は、あの言葉が一番嫌いだった。老婆は、要は何も謝る必要なんてなかった。人なんだから、人として生きただけだ。
何か言ってほしい。俺はこのまま握りつぶすだろうし、助けを請うたかもしれないこいつの行動を無きものにする。
今回ばかりは悪役なんだ。無関心でいなければならないのだ。でなければ、要の苦労は水の泡になる。
ごめんって、なんども要は言っただろ。何故こいつはそれなのに、まだ何かを請うんだ。
歯を食いしばる。
俺は無理なんだ。そっちにいけない。
――いた。
少女の声がした。
すると目の前の白い綿は空中に浮かんだ水に取り込まれ、水ごとはじけ飛んだ。その水は雨粒ごと俺の顔面や腕に降りかかる。さっき払ったばかりなのに、また濡れた。頬からぼとぼとと水玉が伝う。
俺は少女のような声を知っていた。声の主が嫌いだった。それはそれは嫌いだった。声だけでも、嫌悪するほど、会いたくも見たくもなかった。
屋根の下の少女をちらりと見下す。
黒く長い髪に、さらりとした白い肌。そして何より瞳はガラスのような青色で透き通っていた。異国情緒のある筋の良い鼻は、彼女を魅力的に見せる。
少女はいつもこういった場面で外には出なかった。にもかかわらず、今日はピンク色の高級そうなカッパを着せてもらい、プラント狩りに出ている。今の名は何だったか。確か
ーー黒木 翠
小さな体躯に気品ある振る舞いで俺に鋭い眼差しを向ける。
「翔、そこで何をしてるのですか」
彼女の周囲には用意したらしい、空中に浮かぶ水の玉があった。ぷかぷかと漂っている。それが二個も、三個も。大粒の雨粒を取り込み次第に大きくなってきている。
深くかぶったカッパの下の表情は険しく、俺を蔑んでさえいた。
彼女の問いに答えるのはひどく面倒だった。
言ったって、翠には関係ない。今の彼女はただの人だ。昔も今も、変わらない。
俺はそんな中途半端なこいつが嫌いだった。魔法使いではないのに、こういうことをして邪魔をするこいつを心底憎んでさえいた。
答えない俺を見て、翠は俯いた。
「私は、魔法使いの手伝いをしています。人が足りないそうなので、黒木、黒木香菜さんに頼まれました。あなたはそうではないのですね」
ふと、口を聞かなければならないことを思い出し、「そう言えば」と切り出さざる得なかった。
「類を見なかったか」
「類」翠は思案する。
その顔もどこか大人びている。
何を思ったのかすぐに目深にかぶっていたフードを取った。ピンクの色っぽいつやのある唇はそうして小さく開いた。
「その前に、ここの敵を一掃させてもらいます」
気づけば周囲には白い綿毛が舞っていた。白いぼんぼりがたゆたう。雨粒を器用に避けていた。白い綿は俺の周りを中心にして、その白を輝かせる。まるで季節外れの雪のようだ。
この白い綿毛の中に本体は見えない。
光の粒を視界に浮かばせるが、光があり過ぎて見えない。雨粒と綿毛と光の粒が交差して、もみくちゃになる。
視界の情報が多すぎる。
俺はまたすぐに視界の情報を消し去った。すると、世界は一瞬止まった。と、言うのも俺の周りに落ちていたあの大量の雨粒が動きを止めていたのだ。透明な輪郭だけくっきりさせ、雨粒は空中に時間を停止させたかのように止まっている。
「そこから一寸たりとも動かないでください」
しっかりとした口調で告げ、翠はゆっくりと手を動かした。上に、何かを持ち上げるように。
空中に止まった雨粒も翠の手と同時に上に上がる。俺の頭上に雨粒はゆっくりと集まる。
翠の胸元にあるペンダントが純粋な青色に輝く。あれが魔法石だ。
アヤカぐらいに輝くのを見ると、翠のこの魔法はとても大きなものだと分かる。
いや、それぐらい大きな魔法しか彼女は使えないのかもしれい。アヤカは、馬鹿だが魔法の調節はお手の物だ。
頭上に周囲の雨粒が丸い水の塊になっていく。その水の塊もぶよぶよと今にも破裂しそうなほど終始動いている。
「触ると、死にますから」
まさか、と俺はふと思い嘲笑した。そんなことあるはずがない。
周囲の雨粒が集まったところで、頭上の水の塊ははじけた。俺の居場所は避け、水しぶきを散らす。水は滝のように降る。
俺は頭上から大きな水が檻が展開されていて動けない。
その様は水槽を眺めているようだった。触りもしなければ動きもしない。
水は舞っていた綿毛を飲み込み、溶かした。全て綿毛から、一瞬にして綿毛はその成りを水と化し分裂する。はっと気づいた時には、滝は終わり、周囲の綿毛は全て雨粒と化し、地面に降っていった。
再び雨は降り続く。
ほんのりと俺の背中をさする綿毛が居るような気がした。なんのきなしに振り向くと、確かにその姿があった。
その綿毛すらも天から降って来た雨粒に当たり、水と変化し姿を溶かす。
だが、また前を向いてみれば綿毛が舞っている。白い綿毛が際限なく浮かび上がっていた。
こいつもさっきの木共と同じ魔法型だろう。この光の粒の量もそれを物語っている。魔法としては自身の姿を分身させる創造だ。
「核をやりそこねました」
むすっと翠は頬を膨らます。
普段ならこんな相手数秒で終わるだろう。よっぽど機嫌が悪いのか表情が動く。目が苛立たし気に鋭くなっている。
彼女は自身が立っている地面に核がないか探す。
本体を潰さない限り、この綿毛は収まらない。雪のように降り注ぎ、人に感染し、乗っ取ることもありえる。
そういうことをするプラントを何回も見て来た。町全体がそれで壊滅した場所まで見た。ゾンビのようにのたうち回る街は悍ましく魔法使いが駆けつけた時にはプラントは自身が乗っ取っていた人すらも食べようとしていた。人の体を使い、人を食らう。それは死者の冒涜に他ならない。
俺は死者を冒涜するような輩が苦手なんだ。俺の存在を否定されているみたいに思えるから。
今なら、見えるかもしれない。周囲のプラントを一掃された今なら。
瞬きしうっすらと瞼を開ける。
「翠、上だ」
俺は目の前に光の粒が渦を巻き天高く昇っていく光景を捉える。光の丸と光丸がらせん状に上に向かって伸びる。龍が天高く咆哮し、体を太陽に向かい伸びているようでもあった。また現世からの紐が垂らされているようでもあった。
「上?」翠がすぐさま上を向く。
龍が太陽に吠えようとも、あいにくの天気だ。雲に覆われ、太陽は見えず、現世からの糸は振りほどかれる。
光の糸を辿ると、先に一粒の綿毛がお気楽に漂っているのが見えた。
タンポポとして地上にのさばっているのだとばかり思っていたが、本体は地に足を浸けて根を張るあのタンポポや綿毛ではなく種自体だった。
上から見下げて、綿の傘で飛んでいる。
「どいていてください」翠のペンダントが青色に強く輝いた。
「言われなくても」
俺はその場から、翠の隣まで跳び移る。横目で翠の姿を見る。彼女の腕は前へ突き出された。
突き出された前に出来たのは細長い水の槍。一本の糸のようだった。次の瞬間にはその糸は、宙に浮かぶ種に向かい真っ直ぐに飛ぶ。
――突き刺さった。
翠は目を細め、小さく「避けなかった?」と不思議そうに呟く。
「あの種は、きっと誰かに殺されたかったんだろう」
俺はさりげなく感じたままに告げた。
きっと遠い昔死に損ねたのだ。死にたがりで、だが死にたくなくて、俺に助けを請いていけないと分かると惨めに自身の死を受けいれた。どっちがどっちなんだか分からない。まるでーー
「そんな周到な意思を持ち合わせてないのがプラントでしょう」
翠が注意した。
人目をはばかったのだろう。
「ああ。きっとお前の魔法が速くて避けられなかったんだ」
「そうですよね」
気持ち悪い空気が漂う。
俺はあんまりこいつと喋りたくないばかりか、こいつはあまり関わってこない。喋りもしない。
しかし今は緊急事態だ。
先ほどの会話を繰り返そうと口を開けた時、翠がくるりとその場で一回転し俺と向き合って、
「類ですよね」と少し笑った。
何が嬉しいのか分からない。
「頼られて嬉しいです。残念ながら見てないです。おそらく人がいない場所に行ったのかもしれません」
翠は再びピンク色のカッパのフードを被りなおした。フードの下から覗く口元はやはり笑っているようだった。
ぽとりぽとりとカッパに当たり弾ける水雫。
俺の頭上には変わらず濡らす雨粒たち。
「少しだけお時間をください」
翠はそんな雨粒を気にせず、手を手元に出す。今度は右の掌を上にする。右掌の上に雨が降り注ぐ。白い掌の上に十ほどの雨粒が降り注ぐと、翠は手のひらの上の雨粒を浮かせる。
弱く雨粒は青白く輝く。輝きに目を吸い込まれそうだ。
「北西方向にプラントがいます」
それでは情報不足だ。類、あの殺人鬼の情報なら死人や血の跡の方向が望ましい。
これ以上ここに留まる時間も惜しい。それなら足で見つける方がいい。
足を違う方向に向ける。
「待ってください。まだ見えます」
翠の制止で動きが止まる。
「街の北西方向に藤村さんの姿があります」
アヤカ? 今日は学校もないはずだ。何故こんな時にこの街に居る。
今殺人鬼は確かに会える状況だ。アヤカもそれを狙って? そんな馬鹿な。
俺は、俺の意志は、アヤカとあんなのと会わせたくない。つまらない罪悪感を抱かせるなんてさせたくない。
あいつは、
なんで、
こんな時に、
最悪のタイミングだ。
「嘘だ」
翠が嘘をつくはずなんてない。知ってるんだ。
「雨粒の記憶は、正直です。天から落ちて、地に着くまでの全てを見ています。私にはそれが見えます。八年前見つかった時から変わらずに。そういう力を授けてもらったので。力を授けてもらった人にそういったことを教えてもらったので嘘なんてつきません」
くるりと俺から二三歩離れて、翠は支部の方へ歩き出した。俺の近くに居るのが怖いのは当時から知っている。怖いが、近づきたがっているのも当時と変わらない。
小さな少女のままこいつも生きてきた。
俺よりもいくぶんか人間らしく、人間よりかは大きな負荷を背負いながら、あの日から生きて来た。
翠の魔法石にひびが入る。同時に色が青からその辺に転がっている石ころの重たい灰色に変色してくる。限界が来たのだろう。
「私は集中がきれて来たので一旦戻ります。じゃないと、これ以上魔法を使えば私の周囲のもの全てを水に変えてしまいそうなので」
どんどん翠は遠ざかっていく。彼女の足元を見ればアスファルトが一部水たまりを作っていた。それも翠が足を置いた場所に偶然にも重なる。
こころなしか翠の体が震えていた。声はいつも通り透き通る声で気づかなかった。
「良い知らせを待っていますね」
翠がペンダントをちぎり、握り絞めた。顔を上げる。その頬の水たまりは、涙かはたまたこの雨か。




