第六話「悲しんで(老婆の悔恨)」
それはつい最近だ。
つい、八年前のこと。
ある魔法使いが駄菓子屋の戸を引いた。
彼は最近入った魔法使いの一人で、私が見た中でとっても努力家な男の子だった。よく双子のお姉さんと一緒に魔法を習いに来ていた。その真剣な様にとっておきの魔法を教えると、めきめき上達して、今では私以上の使い手になった。そんな子が久しぶりに駄菓子屋に訪れた。
血まみれになって。
「婆さ、ん」
駄菓子屋の戸を、血を塗りながら引いてた。
男の子の髪は黒色。この子のお姉さんとよく似た風貌の子ども。よく知っている。この子はいつか大きなものを背負うだろうなと思っていた子だったから。それがその時だとは思わなかった。
だるそうに体を起こし、不規則な呼吸を繰り返す。見れば、この子の血はこの子自身の物ではなく返り血らしく、この子自身の傷は見当たらなかった。ほっと一息ついたが、呼吸が不規則であったのですぐに胸に黒い霧がかかる。肺器官を痛めているらしかった。
「どうしたん? 何があったん?」
駆け寄ると、この子の背後からまだ誰か近づいて来るのが見えた。
ぴりぴりと感じる魔法の大きな力。戦場と似た匂いを纏っているものが近づいて来る。感じると、昔と同じ警戒をし、血まみれの男の子を手で支えた。
手から伝う血はやっぱり返り血のようですぐに手につくが流れはしなかった。さらっと手につきすぐに乾いた。鼻に着く死臭は久しぶりに嗅ぐものだった。まるで鉄の塊を抱いているようだった。
「陰田くん」
背後からやって来た人が息を荒げて、唐突に私の前に現れる。
それは本当に突然だった。ただ知覚が遅れたとは思えない。
この感覚は知っている。あの時白と出会った。その時出会ったのは外から見えていないおぼろげな場所だった。あの場所はひどくおぼろげな場所にあった。出る時にその人を一瞬だけ知覚を遅らせる。
今回もそうだった。
唐突にそのおぼろげな影がはっきりとした輪郭に姿を変えた。
その姿は一人の女の子。昔はやせ細った小さな女の子。でも今では立派な女性だった。この子も知っている。何回も彼女を巻き込んだ出来事を仲裁したことがある。
その子は私にとってはまだ女の子だった。だから今でもその子が華奢な体付きに見えた。その時は支えている血まみれの男の子と比較してしまいもっと華奢で力なさげな風貌に見えていたと思う。
「陰田くんを……」彼女は頭を振る。「石田さん、私達を助けて下さい」
見れば、彼女の背には、影が薄いが誰かが背負われていた。輪郭もおぼろげで、水のように姿に色がない。ぶよぶよとした水でできているようで、体自体がないに等しい存在だった。それが誰なのか私には理解できなかった。しかし、その子より彼女の後ろに居るある女の子の姿で、私の頭は真っ白になった。
その女の子は黒い髪の、白いワンピースの女の子は私のことをちらっと見て、少しだけ微笑んだ。肌はあの時と同じように白く、しかし髪は純粋な黒色、ぱっちりとした目は、目覚めた時弟を惚れさせたぐらい魅力的で変わらない大きな目をしていた。微笑みはあの時よりも上手く、むしろ妖艶なほどだった。
「白」
彼女は、あの時からなんら成長していない姿でそこに立っていた。
□■□
一ー体何が起こったのだろうか。
頭が回らない光景に、目の前がチカチカと点滅するのを感じた。
もう老い先短い命で、既に死ぬ覚悟をしてしまっていただけに、白との邂逅はそれほどまでに意外だった。もう会えないとさえ思っていた。
白を探していないわけではなかった。政府に捉えられたのは街の住人に聞けば明らかであったが、彼女の隠し場所が政府に掛け合っても、知りえなかった。それはもう彼女は意図的に隠れているとしか言えないぐらいに。彼女は私にも世間にも秘匿された場所に居たのだろう。
ところが八年前、ある出来事から彼女は唐突に見つかり、魔法使いの二人陰田と黒木が見つけた。
白の自称『兄弟』とともに、彼女は私の目の前に姿を現したのだ。
「変わってないねんな」
私の瞳に涙が浮かんだ。その数十年前と変わらぬ姿に一種の嫌悪と、憧憬を描いた。私はもう、こんなにしわくちゃなのに、彼女は初めて会った時からそれこそ、寸分たがわぬ容姿をしていた。
「あなたもね。要」
私の何が変わらないのか分からなかった。あれから老いた見た目も、気持ちも。全て投げやりになっていた。どれもこれも私には責任が重すぎて、それで全てに無関心でいた。この手記さえあれば私は別にいい。これさえあれば、私は生きていると言う感覚を得られていた。
感覚を得られていたはずなのに……私はまだ後悔しているの。
白に再会して私は忘れていたはずの悔やみが痛みが、孤独が噴き出してしまった。
もうそれから目を逸らせないほどに。
白達が見つかって、一旦私は黒木家のハチさんに掛け合った。いろいろごたごたがあったが、全て黒木家は処理してくれた。その手際は何というか、こんな出来事があることを分かっていたかのようだった。前もって準備していたものを、ようやく回収できたような、そんな君が悪い感じがした。
白達が見つかった場所は立ち入りを禁止し、私はついぞ見ることがかなわなかったが聞かずとも、そこが血の海になっていることぐらい、発見者の陰田くんや黒木ちゃんを見ればわかった。それは想像を絶する場所だったのだろう。あれほど魔法を使い慣れた陰田くんが、あばらを折る重傷を負ったのだから。
そして、処理の最後になると、白のことが話題に上がった。黒木家は、自称白の兄弟としている彼らも血の海と化している現場と共に政府に受け渡すつもりだった。
私は選択を迫られた。
私の手元には手記がある。だがこの手記を渡せば大変なことになる。そのぐらい頭で理解できていた。これは彼の意志であり、私のつっかえだ。そうあの日少女が言ったように、少女たちが私に託した言わば『慈悲』だ。
それなのに、その時の私は白を助けることに感情の重きを置いていた。彼女に会えた。彼女は私のたった一人の、それこそアキラのように、私を一人にさせない人だった。私の袂につなぎとめておきたい人。他の誰よりも大切な友人だった。
だから、迷った。
この手記を交換条件に彼女を救えないかと。私の傍に置けないかと。
もう彼女の存在は知られてしまった。もう後戻りできない。彼女を傍におけるには彼女以上の対価が必要だった。
これしかなかった。これしかないのだ。
「ハチさん、ちょっとお話があります」
末に私は黒木ハチに相談を持ち掛けた。
「ここに手記があります。これの中身はきっと上には知れ渡っているでしょう。これをここに置いておきます」
私は一息した。話している時とこれまで感じたことのないような痛みが心臓を圧迫した。
これをしては大変なことになる。それは分かっている。でも、もう自分の余生も少ないのだ。もういいではないか。少しばかりわがままをいってもいいのではないか。私はもう『慈悲』もいらない。ただ親友さえ隣にいてくれればいい。
「お願いです」ノートと交換して「白と彼女の兄弟を私にください」
ハチさんは私の言うことをよく聞いて頷いてくれた。そして、上手く取り計らってくれた。彼女ら兄弟はいないものとして、上には隠匿された。
これが良い結果か分からない。少なくとも、感情で動いてしまったことを後悔している。でも、あの時白を、あなた達姉弟を助けたことを後悔はしてない。もう、終わりとなるこの話も、この人生も、後悔だらけだ。私はきっといけない選択をしてしまった。思い返しても、思い返してもそればかりだ。感情で後悔していなくとも、それでも理性で後悔をする。
いけないことだった。してはいけないことだった。
私はいろんな命を殺してきた。全て、殺してきた。戦争もそうだ。あんなハリボテの戦争はもうこりごりだ。それなら、白達とハリボテの家族を演じていた方が幾万倍も楽だ。
白に約束した。街に重要な用がある以外は数年近寄ってはだめだと。それなのに、たびたび彼女は帰って来て、私を喜ばせてくれた。彼女は私のことをよく分かっていた。私はもう一人は嫌なんだって、理解していた。『優しさ』が彼女の内に含まれた機能であろうと嬉しかった。
「名前付けたんだ」
いつか白からそんなことを聞いた。
駄菓子屋のレジを二人でしていた時だった。それもつい最近のことに思える。本当の所、これが最近なのか昔なのか、もうおぼろげだ。
白は楽しそうに言葉を紡ぐ。音楽を奏でるがごとく私を楽しませるように笑顔を見せてくれる。この笑顔を見た時が最高に幸せだった。白は朗らかに彼女の弟達の名前を次々と告げた。
「ほら、呼びにくいじゃない?」
名前がないと呼びにくいでしょ? と美しく笑った。
へぇと私は楽しく聞いた。
彼らの中身を知らせないようにするため、政府とは縁を切った。一方で私は政府ではない縁を続けた。彼との約束の方だ。私は彼との約束を、『慈悲』を忘れたわけじゃなった。だから、できれば私が居なくなるまでの間自分に課した彼との約束を全うしようとしていた。
私が居なくなった後は……それも後悔の一部かもしれない。
「ごめんなさい」
気が付けば、そんな言葉が口癖になっていた。
私は投げっぱなしにして、この世を去ることになるだろう。全てを最後に親友を守るために、使ってしまった。これまでのハリボテを、嘘っぱちな世界を築いていたものを八年前に、捨ててしまった。
「どうしたの?」レジ番をしてくれている白が私の顔を覗き込んだ。
そこで、駄菓子屋の扉が引かれた。建てつけが悪く、人が通れる隙間を作るまでに少しだけ時間がかかる。そしてようやく中に入ったその白の弟は不愛想に「ただいま」と言って私をちらりと見た。
白と同じ香りがする、同じ雰囲気の男の子。きっと私が戦争に行ったあの年代ぐらいの容姿の子。この子も、白と同じく八年前発見された時と変わらない容姿をしていた。小さな表情を作るのが苦手な男の子。
白は「おかえりー」っと久々に帰って来た男の子に返した。
その子はうんと頷くも、私のほうをじっと見つめていた。
おそらく気づいていたのだろう。もう私がそう長く時間がない事を。
私は親友の白にだけはそれを教えたくなかった。一人になる悲しさは人一倍理解していたから、知られたくなかった。私に巣くう病魔を『直すよ』の一言で治してしまいそうなそんな女の子を跳ね除けるには、もう気力がなかった。
そんなことを知らず穏やかに過ごしたい。
白に見られない角度で口の前にしわが刻まれた指を添えた。
「秘密にしてな。翔」と意味を込めて。
□■□
姉弟の名前はきっちり憶えている。
姉は白。
その下は類。
次に翔。
そして、梅。
とっても安易な名前で憶えやすかった。その簡易な名は、白らしくあったし、名前がなかった彼らにとって、彼らのその一語一語は彼ららしい字だった。未だに白の本当の名前を教えてくれないのは傷だが、私にとって彼女は『白』であり、そのほかの何物でもない。なら、もう白でいいかなと諦めている。
大丈夫?
白がおぼろげな意識の私の顔を覗き込んだ気がした。
もう息も絶え絶えだ。もうすぐだ。もうすぐアキラに会える。もうすぐ天国に居る弟に会える。それまであと数分だけ、私は口を動かした。
「ごめん」
類とは指切りをしていた。
私が居る間は、人を殺してはならないこと、と。だから、きっと猫や犬で我慢していたはずだ。誰も殺さぬようにしていたはずだ。私が居たから出来たけれど、私が去ってしまってはその約束も無為だろう。彼を止めるものは何もなくなり、きっとこれから殺しに行くだろう。私はその本心は知らないから、彼のことは約束でしか縛りきれなかった。
「ごめん」
翔とは、いろんな話をした。
彼はとっても昔から生きているのかいろんな話を知っていた。それこそ私が生まれた頃とか、戦争が終わった後とか。その話は、辛い話もあったが、私が聞くと慣れない言葉を駆使して楽し気に喋ってくれた。
そんな良い子なのに、私はあの時隠し事を共有してしまった。いけないことだ。優しい彼は悔やむだろう。これから起こることを食い止めようとするのは、彼しかいない。いつも苦悩を背負ってしまう。これまでがそうであったように、これからも。その重荷を加算してしまった。
「ごめん」
梅とは、さよならを出来ない。
この子は、根は他人なんてどうでも良い子なのだろう。私はそれなのに、いくつか他人に対して、興味をもたせるようなことをしてしまった節がある。それが今後いけない方向に運ばなければいいのだけれど。いや、手記を渡している時点で、悪い方向にしか進まないのだろうが。
「ごめん」
冷たくなっていく体が、怖い。すぐ傍にアキラの声が聞こえない。アキラは聞こえたって言うけれど嘘かも知れない。本当なら、もっとそばに……違う。私を怒っているからかもしれない。
ーーそうか。そうやんな。当たり前やんな。
「ごめん……な、さい」
白の顔がもう見えない。手の感覚もない。体が重い。
ーーもう息を止めてもいいやんなあ。
「ごめんなあ。私の病気風邪やなかったんや」
ーーあれ? 何謝ろうとしたんやった、け………
白い空間に私は座っていた。
目の前には若い青年がガラスの板越しに居る。ガラスの板には声が聞こえやすいようにぽつぽつと穴が空いていた。それ以外は総じて白い。壁も床も、青年の服も、私が座っている椅子も。色があるのは私の服だけだ。いつもの淡い青のワンピースを着ているだけにこの空間から浮いている気がしてならない。
こんな場所、もしかしたら夢かもしれない、と思えるぐらい無機質で人工物が敷き詰められた空間だった。
そんな無機質な空間の中、一筋の緊張の糸が張りつめられていた。そうした中でじっと青年を見つめるにも、気が疲れてきた。
その時、緊張の糸が切れる音がポケットの中の物から鳴った。電話機がぷるるるる……とくたびれたような音を響かせる。
目の前の青年は「どうぞ」と手を振る。「では」と乱暴に電話に出た。すると、聞き慣れた声が私の鼓膜を揺らした。その声はか細く、弱弱しかった。今までそんな彼女の声を聞いたことがなかったから、どぎまぎする。
『香奈?』
やっぱり声が震えていた。しかも悲壮感が滲み出ている。
「そうよ。黒木香奈だけど、どうしたの? シロ?」
携帯の向こう側でシロは一呼吸入れて、自身を落ち着けているのが分かる。浅い息を吸って吐いて、それを繰り返して、彼女は自身のあり方を定める。ここに私はしっかりいるのだ。だから安心してと、告げたくなったが今は目の前に青年が居るのでからかわれるのを危惧して止めて置いた。
そうしてゆっくりと電話の向こうの彼女は息を吸って、言葉と共に吐き出した。
『石田要が息を引き取ったわ』
その言葉に私は耳を疑った。
そんな、この前、風邪だと言っていたのに、そんなすぐ様態が急変するなんて思わなかった。人の死が、こんなに身近で起こるなんてもうないと思っていた。
八年前、七年前のようなめまぐるしく回る死を見た。あれほどの衝撃が私に襲いかかってきた。
八年前は陰田君と一緒にあの子たちを見つけた。七年前は、親友を失った。あの苦しみはまだ忘れてない。
また、か。
また私は彼らの寝床に駆け付けられなかった。
『ねぇ。多分分かると思うけれど。プラントが動くわ』
シロはそれでも冷静に今の状況を伝えようとしていた。
しっかりと彼女が電話を持っているのを想像する。彼女がここまでする義理はもうない。それなのに最後におばあちゃんの威信にかけて、そうしているのだろう。
『それに、さっきから類の姿が見えないの。多分、どこかに行っちゃったんだろうけれど。翔がすぐに家を飛び出していって、今探してる。このままじゃ、また隣町みたいに人が死ぬと思う』
ごくりと私は唾を飲み、目の前の青年をちらりと見る。
「どう? 僕の予想は当たったでしょ?」青年が軽々しく言葉を紡いだ。
そんな青年の答えに返すことはしない。私が見たのはありきたりなボーイミーツガールだけでいい。血が飛び散る悲惨な出来事はこれっきりにしてほしい。
「分かった。シロ、あなたはこれからどうするの?」
『……どうもしないわ。ヒトにもう未練はないもの』
それからシロから一方的に電話は切られた。
彼女の最後の言葉はどこまでも冷たく、どこまでも哀しげだった。




