第六話「悲しんで(老婆の回顧)」
雨が降り続けている。
湿りきった空気は不味く、雨は空間を腐らせる。植物が覆い茂る道を歩くと、草の生臭い香りがした。雨の粒が跳ね上がり、ズボンを濡らしていく。泥がこびりついた靴に雨粒がつく。
後に染みになったってさして気にはならない。そんなことを気にする性格ではない。
鳥たちは木の陰で休まり、静かな雨音だけがうららかな五月の朝を彩っている。ぽつぽつと傘に雨粒が当たり、全ての音をかき消していく。
木の根を踏み越えて、やっと駄菓子屋に辿り着いた。傘を畳み、身に降りかかった雨を払い落とし、傘を数度開けたり閉めたりを繰り返した。水の粒が傘の表面からはじかれる。
駄菓子屋は外から見れば、寂れていた。数千年たった廃屋染みた暗さがあり、誰も此処に居ないように感じられる。置いてある駄菓子は埃をかぶっているし、中身の種類は俺がこの場から発った数年前と変わらない。既視感を覚える。
だが変わった物もある。帰ってきてすぐに時間もかけず、容易にその変化を理解したものだ。レジにいつもいるあの老婆の姿がやつれていることを。それを見て、ああ、もうそんな時期かなんて考えていた。
その時、老婆はしーと口に人差し指を添えられて、俺を注意した。その秘密をシロへと告げないように口止めしたのだ。
閉めきった駄菓子屋の戸を鍵で開けて中に入る。
ここ数日帰っていないが、どうにも雰囲気が違う。そもそもこの店を休まず開けるのに執着していた老婆のことだ。店が開いていないこと自体がおかしい。
駄菓子屋の奥にある部屋へと歩みを進める。奥の部屋は二部屋。上に何部屋か用意してある。俺はそこを使わせてもらっている。隣の部屋にあの殺人鬼がいると考えるといつも気が気でないがな。
駄菓子を売っている店と繋がっている部屋に、ここ数日寝込んでいた老婆がいるはずだ。そこへ赴くと、案の定シロが老婆を介抱していた。
顔中皺だらけにした老婆はそれでも魅力的で、若い頃は美しかったのが分かる。床に伏し彼女は何度も何かを呟いていた。その横でシロが老婆のしわしわの手を力強く握っていた。それは彼女も覚悟をしている証だった。
彼女と老婆の間は決して俺には立ち入れないつながりがあった。とても深くて、羨ましくなるものだ。
その時が来るまで老婆を眺めようと、シロと老婆に悟られぬよう光の当たらない部屋の端に座った。
最後の時ぐらい俺だって一緒に居たい。老婆にはどれだけ世話になったか分からない。その恩義と、気持ちを落ち着かせる、言わば気持ちの問題だ。
すると、老婆は俺の気配に気づいたのか「おかえり」と唐突にはっきりと、それまでもごもごさせていただけだった口を動かした。
「おかえり、翔」
その言葉は温かい。柔らかい声で発せられるその響きは、言葉や名前が苦手な俺でさえその言葉には愛おしさを感じてしまうほどだった。この人は未だに俺をここにつなぎとめておくつもりなのかもしれない。
そんなこと、寿命が短い人間が永遠に俺をとどめておくことなど不可能だ。だが、俺はそうしてほしかったから。
彼女がこれまで出会って来たどの人間よりも温かく見守る人だったから。そのつながりも無理には強要しない人だったから。いつもそうだ。何かを残すより、自然と残してゆく人だった。だから残されたものがいつも愛おしくなり、繋がってしまう。
俺と同じだ。シロもそんな彼女が愛おしくて見捨てずに此処に居るのだろう。
彼女は再び呟く。ごにょごにょと何を言っているのか分からない。しかし、傍らに居るシロは真摯にその呟きをしっかりと受け止めていた。目をつむり、その時を待ち、過去の記憶を遡っていた。
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ああ、あなた。
ああ、シロ。私は幸せだったのかなあ。
あなたと出会ったのはとても偶然だった。とっても昔のことやったなあ。まだ幼い心を持った少女だった私は、あなたを見つけた時、運命を感じたものや。
私が運命を感じたのはたった二度だけ。シロと、戦時の中で出会ったあの人との出会いだけだったーー
□■□
お祭りが終わった後の神社で、弟と遊んだ。浴衣姿で、下駄を鳴らしつつあの石畳の上で鬼ごっこや落とし穴ごっこなんてしたりもした。
落とし穴ごっこ。これまた懐かしい単語だ。当時の神社群は今と変わらず古びていて、やぐらで、床を踏み外したりした。それを利用して、度胸試しのつもりで社の中で鬼ごっこと並行して落とし穴にひっかかったら負けという子供の遊びをよくしたのだ。
その日は祭りの終わり時。確か春祭りの二日目、その終わりにあの神社で遊んでいた。
祭りが終わったあの社はどこか神秘的で、いつもの遊びなのに、いつもと違うみたいな特別なものを感じていた。
私が鬼で弟が逃げる番。一つ、二つ、三つと数えて、十を数えた時、弟はすぐに床を踏み外した。それもとても人が一人は居れるほどの大きな穴になって床を踏み外していたのだ。調べて見ればそこの木だけやけに脆くなっていて、踏み外しやすくなっていた。まるで最初からそうしていたように。
神社は祭りに使う二日だけ、突貫の補修工事されることになっていた。だから、この社の脆くなっていた部分も、祭り中は強くなっていたとしても、終わった後は脆くなっていた。祭り以外での時は此処に入るなと言われていたのは、突貫後に再び壊れるのを防ぐためだったのだろう。
そういえば、当時魔法はまだ確立されていなかったのに補修工事には珍しく魔法を使っていた。どういったわけか、魔法石で魔法が使えるなんてことはあんまりなかったし、使えたとしても魔法石なんてものを使わなくても使える人はいたし、一方で魔法石を使わなければ使えない人も多くいた。
当時は魔法石は一般流通していなかったのは事実だ。
そんな世の中で、この街は魔法石と媒介を既に確立させ、祭りとして運用していた。どこからか出て来る魔法石は、いつも研究所に回される他政府によって管轄されていた。
したがって、私と言う一般市民にはあの春祭りは魔法石が大量に出現するお祭りと言うより屋台でたっくさんご飯が食べられる地域特有のお祭りという認識しかなかった。
そんな中でのこのお遊びだ。当時の私は気楽に神社で祭りの後遊んでいたに違いない。
弟は床を踏み外した。しかしいつものようにとはいかなかった。床は弟の体重の重さに耐えきれず、周辺の床を巻き込んで弟の体ごと下に落ちたのだ。つまり、私が数え終わった瞬間、弟の姿が一瞬見え、すぐに消えた。
さながら瞬間移動のようだった。
私はすぐさま落ちてしまった弟を引き上げようと、近づいた。
「お姉ちゃん」
泣きそうな弟の声に、ほっと一息をついた。どうやら、頭を打つかして意識が飛んでいるような重体ではないようだった。
しかし、穴を覗くと、弟の姿がなかった。暗闇が落ちた箇所に広がり、弟の姿を見えなくしていたのかもしれない。その場所は、もしかしたらご先祖様が誰かを隠そうと外界から見えなくする魔法の結界をしいていたのかもしれない。
弟が落ちたことによって、その結界は薄らいでいたのだ。
弟がひょっこりと穴から顔を上げると、さきほど見えなかった弟の姿が穴の中でもしっかりと見て取れた。どうやらそこまで深く大きな穴ではなかったようで、弟はすぐに穴から這い上がって来た。そんな姿に手を貸すなんて、心配までしたことをその時は後悔した。
「なにしてるんや。相変わらずとろいなあ」
と、からかってやるが、弟はいつも通り「とろくないわ」と減らず口を叩きはせず、何か物ありげに黙って俯くのだった。
「なんなん?」気味の悪い弟に私はそっと引いた。
「この下って、誰か入ったことあった?」
「そう言えば……」
思い返してみたが、大人も入ったことがなかった。あるとすれば、祭りで籠る生贄役の子だけだ。その当時の子は、怯えて夜になるとここからこっそりと抜け出して、酒を盛っていたから、ここがこんなに脆い事や、さらに床下に潜り込んだことなんて絶対ないはずだった。
「ない」私は頭をふった。
「それなら、多分僕らが初めてやな」
弟の声色がいつもより高かった。興奮しているのか、息遣いが速く、目を輝かせていた。
「あんなぁーー」
次の言葉を私は息を飲んで待った。
「下に女の子が眠っててん」
□■□
ぼろきれのような木に重心を必要以上にかけず、とりあえずは床下を踏み外した箇所から覗いてみた。それでも軋んで今にも体ごと下に落ちてしまいそうだが、木にしっかりとつかまり、頭を下へやる。
埃が舞い散る中、神社の床の木が私の乗っているところから平行に奥まで続いている。そのどれも下から見れば床の木自体はよれよれであったが、そこは魔法でしっかりと下から補強され、支えられていた。
床下まで伸びる支柱の木は太い。こげ茶色の濃い色が床のよれよれでなんとか支えられていた木よりもしっかりしている。そこにちょろちょろとした細い蔦が巻き付いている。うねっている蔦は生命の躍動感があり、暗い中青々と鮮やかに輝いているように見えた。あるいは暗いから、より一層蔦が光っているように見えたのかもしれない。
その時、床下を何度も見回したが、何もなかった。埃や鼠の姿は目に写るが、何もない闇が続くだけだ。ましてや少女が眠っているなんて荒唐無稽な光景はない。
頭を上げて、
「いーひんやん」
弟に逆にからかわれた気分になり、声が低くなった。鋭く睨みつけると、弟は焦って「そんなはずない」と言い張った。
「どんな子なん?」
「これがなかなかかわいいんや。黒髪の長い髪で、肌が白くって、すーすー寝息たてて寝てた」
「落ちた時に頭でも打った?」
「打ったけど、打ってない」
「どっちやねん」
「僕は見たんや」
そう言い張る弟には申し訳なかったけど、何もいない。
「どーせ今朝見た夢でも思い出したんやろ」はあとため息をついた。
「そんなことない」弟は言い張り、私同様に床下に顔を出し見た。「あれ?見えん」
「ほら」
言った通りになった。得意げに弟を見下ろした。でも、それを弟は歯牙にもかけない。頭を捻って「どうして?」と考え込んでしまった。
夕暮れ間近ということもあり、神社内に茜が差してくる。カラスが神社の屋根の止まっているのかやけにカラスの鳴き声が聞こえた。
もう帰らなければならない。私達二人だけの家族、誰が守ってくれるわけでもない。私達は、しっかり二人で身を守る必要がある。
「もう帰らな。叔母さん心配するで」
頭捻る弟にわたしは呼びかけるも、弟は一歩も引かなかった。
強情やなあ。
弟は一回行こうと言ったら聞かない性格なのを思い出し、面倒くさいと思ってきてしまった。それでもないものはないし、それが変わることはない。
「行くで」
弟の腕を浮かんだ途端、弟はその手を振り払った。
「なら、一回だけ。お姉ちゃんも下に入ってーな」
一回だけ、とそれから何度も言ってくる。そのたびに「えー」と、と躱すが、弟の強情さは変わらなかった。
茜色の夕日が私達を照らす。私達はその光に目を細め、血の記憶を刻み付ける。変わらない日常と、消えてしまった過去の歴史はとても刺激的ではあるが、この淡々と綴られる日常以上の刺激を私は求めてはいない。ましてや植物が誰かを殺すところを見るのなんか、私の無力を感じるのなんか、もうしたくない。目の前で誰かが誰かの犠牲になるのはもうコリゴリだった。
「暗くなったら、奴らが襲ってくるのが見えずらくなる。逃げれへんくなる」
「一回!」そればっかりだ。
何度か逡巡し、それでも変わらない弟の意志を尊重することにした。
分かった、と言ったら、弟は手を万歳して、喜んだ。それほど嘘つき呼ばわりされたことが嫌だったのか。
弟の強情さに私はつくづく甘かった。
ただ、条件を付けた。私と弟、一緒に入ること。一緒じゃないと、いざと言うときに逃げられない。離れ離れに逃げて、一人だけ死んでいたとなれば後味が相当悪くなる。
踏み外した木は踏み外したままの状態で、折れた先が刃物のようにとがっていた。人が一人入れるほど大きな穴になってしまったと言っても、この刃物のような尖った木が刺さらないわけがない。その木に細心の注意を払い、まずは弟が床下に入った。
「やっぱりいるやん」弟が入った途端歓喜の声を上げた。
「こっちからは見えんよ」相変わらず外からは見えない。
そして、私はゆっくりと床下に降りていった。着地した時埃が舞い上がる。
驚いたのは床下が案外広い事だった。先ほどいた床から、着地した場までは随分深く、私の頭に床が届く。弟は背伸びすれば簡単に届くだろう。
着地した場所には、外から見えなかった植物が覆い茂っていた。草が生え茂り、周囲は緑に包まれている。蔦が絡み合い、壁を作っていた。足元に茂る草はふさふさと触れ、気持ちよい。
ここに降り立つのを誰かが想定していたようだ。
外からは、こんな風に弟が立っていたように見えなかった。それに上からはコンクリートの床だけではなく、コンクリートがひび割れ埃が被った土が露出して見えたのに、着地したところはほんのりと土が気持ち程度に盛られているだけだった。上からはこんな心地良い空気と草が広がっていたようには全く……
「こっち」
弟が私の疑問を遮り、手を引いた。もう片手で指をさした。
その先の光景を私は生涯通して忘れはしなかった。
彼女はそこに眠っていた。蔦のゆりかごに抱かれ、丸まっている。見た目は当時の私と同年代、十五歳ぐらいが妥当だった。弟の言ったように黒く長い髪が垂れ、長い髪に包まれながら白い柔肌が見えた。ゆりかごの形状は丸く、下に太い根を下ろしていた。ゆりかご全体は緑色の蔦で構成されていたが、根の部分はこげ茶色で、まるで木の根っこのように力強く根ざしていた。
その蔦はほんのりと輝き、暗い床下を照らしていた。周囲の草も蔦ほどではないが、鈍く黄緑色に光っている。蔦や草がこの空間の灯りとなっているのだろう。しかし、私の立つこの場は、外からの光のせいか、草や蔦がなくむき出しの茶色い土が盛られていた。
赤い夕日が私達の頭上に降りかかる。
淡い光の中眠る彼女は、まるで眠り姫のようだった。
「あっ、要ちゃん」弟が私の名前を呼ぶ。
ここでいつもなら私は「お姉ちゃんって呼びなさい」と注意するのだが、それはせずに目の前の光景をただただ茫然と見入ってしまっていた。
目の前の眠り姫は薄っすらと瞼を開け始めたのだ。そっと黒い睫を揺らし、ゆっくりと目の前の彼女は目覚めた。
口をぽかんと開けて起き上がる彼女を見つめる。長い長い髪の毛を掻きわけて、幼い顔つきの残る少女は、私達を見下げた。
「××××?」
言語が違っていた。でもその言葉には愛おしさが含まれている。愛している誰かの名前だったのかもしれない。いや、彼女から聞いたことはなかったけれど、きっとそうなのだろう。
それから、きょろきょろと周囲を見渡し、何かを探したかと思えば、目に涙を浮かべた。ぽとっと、涙の雫がゆりかごに落ちる。それを皮切りにぽとりぽとりと雫を落としていく。
「……起きちゃったね」弟が私の腕に縋りついていた。
目の前の光景は、この空間はそれほどまでに悍ましく、神秘的でこの世の物とは思えないものだった。美しい白い肌の少女がそこで蔦のベッドに揺られて寝ている。そこから起き出して、涙した。
私は、意を決し彼女をへと声をかけることにした。
「私は、この街に住んでる、師走家の娘。要。あんたは?」
静かに彼女は顔を上げた。黒い髪の毛の間から覗かせる口が小さく動く。
「××」
その発音が余りにも『白』と似ていたため、私は『白』と彼女を呼んだ。
「シロやな」
□■□
これは走馬燈だ。
彼女と、シロと出会って、私がこの寝床に着くまでの、長くて短い数奇な運命であった人生の暗闇。
私の手を握っていてくれる彼女は、しっかりと私の呟きに耳を傾けてくれる。私の走馬燈を受け止めて、私の問いかけを答えようとしてくれている。
「私は、あなたに会って幸せやったんかな」
そんなくだらなすぎて、当たり前すぎる問いかけを彼女は考えてくれた。
ーー今はね、あれから弟も叔母も、親友も先に全員逝ってしまったけれど、それでもあなたがいてくれて良かったって思えるのよ?
ーーでも、ふと考えてしまうの。あなたに会わなかったら、私はもっと平凡に、もっと当たり前に恋が出来て、当たり前に死ねたんじゃないかって。
ーー少なくとも私の命に多くの命と、多くの枷を背負わせることはなかったんじゃないかって。私は何度も後悔してしまうの。
--あの時、あの日に、私は知ってしまったから。全ては嘘っぱちな世界だって。でも、それでも私はそこに幸せを見出そうとした。知っても、隠し通した。
「これで良かったんかな」
また思い出してしまう。




