第五話後編「猫を探して(少女と少年と殺人鬼)」
猫は首から上がなかった。すぱっと綺麗に切れている。そこから滴る血はどろどろとしていて、男の手を汚していた。栗色の猫の毛皮は血がべっとりとへばりついている。
ふさふさとした毛並みはもうそこにはない。
だらんとした尻尾。力なく垂れた四肢。本来あるべき首はその人、その男性、その殺人鬼、つまりは彼の足元にあった。猫の顔は驚いているのか、目が見開かれている。それを見ていると、この猫は自身の死を受け入れる前に、一瞬にして亡くなったことが理解できた。
痛みを感じずに行けたんだ、良かったって、そんなことで安心している。本来なら、その死体に怯えるだろうに。
錆びた鉄の匂いと、甘ったるい懐かしい香り。あたしの求めていた何か。愛おしく輝く血と、彼。再会した彼。どこで出会ったのか、彼と何をしたのか分からないのに、彼を求めていた。
翔と違って、可愛らしいファンシーさと血の香り。真新しい匂いの血と、彼にこびりつている殺人者の香り。壊したがっている彼は、あたしと同じ新鮮な武器の色をしている。
路地裏の薄電灯がちかちかとついたり、消えたりを繰り返す。彼の顔は良く見えない。暗がりで、影になっている。黒い服は影を助長させているし、あまりにも懐かしくて、パズルがカチッとはまったような匂いだったから、匂いの方に意識がいってしまって目が彼の顔に焦点を合わせられない。
「アヤカ、もういい」翔が後ろから、手を引く。
あたしはそれを振り払い、彼へと歩みを進めた。
「アヤカ……」
「翔、この人だよ」
彼の左手には猫の死骸。もう片方の手には包丁のようなぎらぎら光る刃物が握られていた。むき出しの刃物だ。だから左手は刃物を持ったところの手が刃物で切れ、血が滴っていた。包丁型のガラスを握りしめているようだ。
彼はあたしの姿を確認すると、猫の死骸から手を放し、放した手の甲で頬を撫でた。頬にひと線の赤い血痕が引かれる。
「正気じゃない」翔が呟く。
それからあたしの手を今度は先ほどよりも力を込めて握る。ぐっと力を込め、その場に留まろうにも、翔はあたしを引っ張る力の方が強く引きずられていく。
「逃げるぞ」
「待って」
手を払おうとして反射的に体を強化させてしまう。すると翔の腕から嫌な音が響いた。それは翔の腕が間違いなく折れた音。何回も聞いた人の腕の骨格が折れた音。嫌な響き。
それでも腕は振りほどけなかった。そのまま翔の手には力が込められ続けている。痛くてたまらないって、くしゃっと顔を歪めているのに、握った手の力を緩めない。翔の手は冷汗が滲んでいた。その感触があたしに有無を言わせない。この腕を振りほどいたらもっと、翔が傷つく。
と、気づいた時には、殺人鬼の彼から離れた路地裏の先に出ていた。
彼の姿はずっと後ろ。ついてきている気配がする。匂いも香って来るから間違いない。
翔は必死だった。あそこから必死に離れよう離れようとしていた。
でも、そこにはどこか違和感があった。あたしと彼を引き離そうとしているように感じた。その裏にあたしと彼がまるで、ずっと前に会ったようなことを知っていたような気配を漂わせている。翔はあそこからあたしを離そうとしていた。
……ただの勘での判断だけどね。
後ろから彼が追ってい来るさなか、やはり腕が痛むのか、突然翔は立ち止まった。折れた腕がするっとあたしの手から離れていき、だらんと力なく垂れ下がる。痛くて、力が入らなくなってきたのかもしれない。
普通は折れた時にその場で痛くて蹲っているはずだ。ここまで力が込められていたこと自体が不思議なほど。
翔は今でもそこに倒れることはせずに、その場に立ち続けている。息が荒い。息を整えようとして、固く目をつむる。そうすることで痛みが終わるのを待っていた。顔を伏せ、手の汗を汗を折れていないもう片ほうの手で拭う。肩に掛けたショルダーバックが重そうに揺れる。
そんな姿を見ても、あたしはさっきの光景が脳裏に焼き付いて離れなかった。あの彼の姿を忘れたくない。そう思って、何度も映像を繰り返していた。そうすると、目の前の翔への違和感がどんどん怒りに代わっていく。
ーーどうして、彼に会わせてくれなかったのだろうか。
ーーどうして、目の前にいるのが翔なのか。
ーーどうして、あそこであたしの手を引いたのか。
「翔」と名前を呼び、近づいてみた。
翔は肩で息をしながら、そっと顔を上げてあたしを真っ直ぐ見つめた。あたしは翔のその胸倉を両手でそっと握り、持ち上げる。翔は、そこまでされても、抵抗もしなかった。ゆっくりした緩慢な動きで、隣の壁に翔の背を当てる。
「ねぇ、何で止めたの?」
あたしの頭は正常じゃない。そんなこと分かってる。それでも、この感情は、正常だ。真実だ。ここにある、本物の気持ちだ。ーーだから、あたしの目から零れ落ちるこの涙も、きっと本当なんだ。
「あたし、あの人を知ってる。空っぽのあたしの記憶が叫んでる。あの人だって。あの『彼』だって。あたし、知ってるんだよ。絶対に」
あたしの詰問に苦しそうに顔を歪めることも、あたしの締め上げた手に自身の手を添えることも彼はしない。じっとあたしを見てるだけ。何かを悟っているみたいに。その表情に腹が立つ。
「……ねぇ、教えてよ。この涙の訳を」
次々と流れる涙の玉に妙な懐かしい甘さと、しょっぱさが香る。唇を濡らすその涙の玉は止まることを知らない。そうやって、あたしの体に過去を思い出させていく。
記憶に穴が空いてる。
記憶が虫に食べられているみたいにぽっかりと穴が空いている。
「アヤカ、お前は思い出したのか」
翔の瞳は金色に濁った。輝きを増していく。その光はこの暗い路地裏で、淡く周囲を照らしているようだった。妖し者みたいな匂い、つまりは甘く腐った匂いが翔から色濃く香ってくる。
「思い出してない」
「なら」翔の返事は早い。「教えられない」
「教えて、本当は隠してるんでしょ。それなら、何で隠すの?」
先ほどまでしっかりと掴まれていた手がひりひりと痛みだした。
「何で庇うの?」
あたしの力は知っているはずなのに、翔は庇った。そんな庇い、いらないのに。
「それは……お前が…」言葉が途切れてしまった。
翔の口から静かに血が流れる。そろりと翔が目だけを下に向ける。翔の腹のあたりの服がぐっしょりと濡れていた。腹から突き出た刃の切っ先が、翔の金色の瞳に写る。反射してきらりと光るその刃は、通常あり得ないような場所から生えていた。
次の瞬間、翔はごぷっとその口から血を吐き出した。
あたしに血が数滴かかる。
あたしは首を押さえつけていた手をとっさに放してしまった。翔が蹲ることも出来ずに、背後の壁から突き出て腹を貫いている、まっさらな刃を折れていない手の方で掴んだ。その刃は日本刀のようにまっすぐで、折れそうにない。
「いっ……てぇ」唸るがごとく翔は呟く。
路地裏の奥からは、あの猫を殺していた彼がひっそりと近づいて来る。それはあたしにとって嬉しい事なのに、目の前の翔を見ていると、焦りの方が大きくなっていく。
ーー血の量、流石に致死量を超えているかも。これじゃあ、死ぬかもしれない。
翔の瞳が神々しく金色に光る。猫のように暗闇にぼんやりと浮かんでいるように。それは迫りくる殺人鬼と同じだった。
殺人鬼も、瞳を金色にさせている。そして、近づいて来る。
とめどなく翔の腹から血が滴り落ちていく。彼の足元は真っ赤になっていて、地面が見えなくなっている。衣服は赤で染まり、痛さが生々しく伝わってくる。
「アヤ……カ」それでも、翔はあたしに手を伸ばす。
彼の真剣な眼差しは「逃げろ」と伝えていた。
あたしは、その手を握った。血で真っ赤になった手を。放しはしない。そして、こくんと頷く。
すると腹を貫いていた刃が割れ、光の粒になって崩壊していった。端から、ぽろぽろと塵となって崩れていく姿は、この刃が魔法で作られたものだと分かる。
それではこの刃を作ったのは、一体誰なんだろうか。少なくとも、翔が自身を刺すような刃を作るようなことはしない。
後ろにどぎつい刺激臭が香って来る。
振り向くと、彼、殺人鬼が迫って来ていた。
血まみれの手には、刃物。彼の顔には血しぶき。
「あいつは今正気じゃない」
翔の手があたしの手を強く握る。強く引っ張られた。
その代わりに翔が、殺人鬼の前に出る。あたしは、翔の突然の場所交換によって、壁に背をぶつけた。翔の場所が、あたしの場所に、翔の場所があたしの場所に代わる。あたしが居た場所にいれば、殺人鬼と出会っていただろう。
「お前も今、動揺している。こんなつもりじゃなかったんだ」
あたしはどうすればいいか、頭の中がこんがらがっている。魔法石の回数も、周りの状況も目の前にあるだけ。それを見ているだけになっていた。
翔は、そんなあたしに気を使って、血を滴らせながら殺人鬼と対面した。殺人鬼の持つ刃物が翔に振りかざされる。すぐそこに刃物がーー
あたしは思わず目をつぶってしまった。
うっすらと瞼を開けると、あたしの頬に生暖かい物が触れた。
ぽたりと一滴ついたかと思うと、頬に伝う。それは明らかに、翔の血で、目の前で刃物を手で握り止めてい手から滴る血だった。
まだ新しい鮮血に、ぬくもりのある痛みの血。
あたしは驚いて座り込んでしまっていた。
翔が、目の前で刃物を止めている。しかも、出血多量で。このままでは死んでしまう。この出血量は、死に直結する。いけない。いけない。
『嫌ってない』
翔の言葉。あの時あたしを認めてくれた、数少ないあたしの理解者。恩人。そんな翔が死んでしまう。
「嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ」
傷ついてほしくない。痛みを感じてほしくない。あたしの周りで、そんな人が出てきてほしくない。
翔と殺人鬼との体格の差は大きく、翔が大きな熊に対決する子犬に見える。あたしも、それに応戦しようと、魔法石に意識を集中する。しかし、魔法石は反応がなく、魔法がうんともすんとも言わない。発動しているはずなのに。おそらくだけど、今朝から何回も魔法を使ってしまっていたから回数の上限がきてしまったんだろう。
「落ち着け」
翔が抑えている刃物は震えている。そうしている間にも出血し続けている。鉄の匂いに慣れてきてしまっている。
「落ち着け、アヤカ」
翔の凛とした声に、震え声が混じっていて、痛みの感情が抜けていない。
あたしの「しょう」と言う声も涙声になっている。
「今目の前に居る奴は、正気を失っている。アヤカと同じだ。驚いて本来の力を出せていない」
「ごめん。翔」
「謝るのは後だ。魔法、使えるか」
「使えない。魔法石切れだよ」
自分の無力さにあきれる。今までどんなことが起きても、乗り切れると思ってた。そうして感情のままに行動した結果がこれ。本当に、どうしようもない。
足が竦んで立てない。これじゃあ、足手まといだ。
地面に滴る血が水たまりのように広がっている。その血にほのかに甘い匂いが香っている。まるで魔法石のような匂いだ。見れば、翔が肩から掛けていたショルダーバックが水たまりの中に沈んでいた。紐が切れている。ぐっしょりと血がショルダーバックに染みている。その中から、むぅちゃんから預かった瓶がちらっと見えた。瓶の蓋が外れている。中身から、どくどくと液体の魔法石が零れていた。それが血と混じりあって、鮮明な赤へと輝いている。
「手を握れ」
だらんと垂れた、翔の片方の腕がこちらを向く。
「大丈夫。ここら一帯の血はもう魔法石になっている」
「よく分からないよ」不安で堪らなくて、震え声になる。「魔法石は、ないよ?」
「大丈夫。ここら一帯を意識して、あの魔法を使え」
「あの魔法?」
「プラントの動きを壊すやつだ」
「でも、あれは翔にとって……」
「いいから」
大丈夫と翔は何度も念を押してきた。大丈夫、その一言で、安心できる気がした。足に力が戻ってくる。
魔法石の香りは一面に香っている。甘ったるい匂い。強い魔法石の香りだ。
「握れ」
あたしは手を取った。
そして魔法石の香りがするここら一帯に意識を傾ける。光を広げる想像をする。この魔法を考え得る最大限の範囲に広げる。息を吸った。手に力を入れる。握った手が折れそうなほどに。
魔法の力を意識して、作用させた。すると辺り一面が光る。その光の空間は、爆弾が爆発したように一気に広がっていった。あたしの赤い紅色の光に包まれる。
再び静かに顔を上げると、翔の手が両腕とも力なく垂れた。その次に、水面に物が落ちる音がする。それが刃物のカランっとガラスが割れたような音がしたものだった。見ると、殺人鬼が持っていた刃物が落ちて、塵となっているところだった。
殺人鬼も、翔もただ茫然としていた。佇んでいるだけだ。
この隙を逃さない。
なんとか足を立たせて、立ち上がる。握っていた翔の手を肩に回す。もう片方の手で腰に手をやる。
さっきの感じだと、ここら一帯の血で魔法が使える。それなら、ここから逃げられる。逃げる先は、上。ビルの屋上へ。
もう一回周囲に意識を傾け、自身の足に光を宿らせる想像をする。頭の中のイメージが定まると、足に力がこもる。すぐさま、足を蹴り上げ、翔と共に屋上まで跳ぶ。着地は、翔を庇い、あたしの足だけで。大きな音をたて着地した後、翔を傍に置く。
貫かれた腹の血が止まらない。シャツがもう既に血の色でしかない。鉄の生臭い匂いと、饐えた匂いと、甘い匂いと……いろいろな匂いの中でも際立って鉄の匂いがする。
何度か名前を呼ぶも、反応がない。
息はしている。目は開いている。灰色の目がうっすらと金色になっている。すーすーと静かな息が逆にこの状況だと怖い。もうちょっと、過呼吸とかなってもいい気がする。慣れているのかな。
「アヤカ?」虚ろな目をして、翔がうわごとのように口を開けた。
「聞こえる? 翔」
「お前、言った。何で庇うの……?」
あたしが翔に言った言葉だろうか。何で翔はあたしを庇ったのか、何で教えないのか。それがどうしたのか。わかんない。今のままでは死んでしまいそうな翔が、怖くて仕方ない。
「俺は、お前のこと……」
「ねぇ、本当に聞こえてる?」不安になって聞くのに、一向に「大丈夫」の一言が返って来ない。
少しだけ翔は声に出し笑った。自嘲気味に。呆れているようだった。
「俺は、お前のことずっと前から良いやつだって思ってるから」
良い奴……
「翔は……優しいね」
あたしもちょっと笑ってしまった。そんな理由で助けたりするかなとも思ってみた。あたしなら、しない。ただ近くの人が傷つくのが嫌なだけ。その傷だって、苦しんだり、痛んだりしている気持ちは分からない。そんなあたしのどこがいいんだか。
「アヤ、これ」
聞こえているのか、分からないけど翔は拳を突き出してきた。あたしは拳の下に手を入れる。すると翔は、拳をぱっと開く。中から何かが出て来た。
水晶のような透明な石ころだ。手触りはざらざらで、砂が固まったちっぽけな石だった。ころころと転がして見ると、ほんのり甘酸っぱい香りが引き立つ。
「俺は大丈夫。だから、人を呼んできてくれないか」
傷が深すぎてこのままじゃ歩けない、と翔は苦し気な顔で訴えてくる。
あたしは二つ返事で請け負った。力強く石を握ると、屋上から一番近い病院に急いだ。
そこから人を呼んで帰って来た時には、翔の姿も、あの殺人鬼の姿もなかった。あたし達が居たその場所には、大量の血の水たまりの跡と、力なくくたびれたショルダーバックだけが置いてあった。
ショルダーバックの中には瓶が一本。血のような液状の魔法石がむぅちゃんからもらった時と変わらず瓶に入っていた。月に浸すと、赤く透き通る美しい色で輝いた。
血の跡をなぞる。しかし、もう乾いてて、さらりと撫でられて、手には何もつかなかった。




