第五話前編「猫を探して(再会)」
ネズミを片手に抱きつつ、商店街を歩いていく。猫を抱いて歩いていることが奇異なのか、周りの視線がちらちらとささってくる。隣の翔もそのちらちらの中に含まれていて、鬱陶しい。
歩くたびに翔のショルダーバックがぽんぽんと跳ねる。あたしの抱えている黒い猫は気持ちよさそうに目をとろんとさせて今にも寝そうだった。
黒猫の黄金色の瞳はいつかみた田舎の田園に実った稲穂を思い出す。
あれはいつだったっけ。確か小学校の時、任務で遠出した時だったはずだ。一面の黄金色の農作物。そこにいる農家の方たちの黒く焼けた肌。そこにいた一人の男性があたしを見るとにやりと笑った。
その農家の男性は、その時PLANT対策支部に任務を依頼した人物だった。
あの時のプラントはどんなのだったっけ。あたしはどう探したっけ。どうして今になってそれを思い出すのか分からないけど、今の何かを探す状況が、どことなくその時の任務の雰囲気に似ている気がしてならなかった。
すんっと再び鼻を鳴らすと、鼻孔にまで入ってくるのはある違和感だった。
隣の翔、抱いている猫、この二つに甘い匂いを感じる。当然のことながら、この街にいる獣交じりやゼンソクの持ち主の香りも感じている。しかし、それ以外に、まだもう一つ翔と猫に似た、それでいて異なる匂いがあった。
翔の香りは甘く、腐っている。饐えた匂いがする。きっといろいろ交り過ぎて最終的に腐った匂いになっているんだ。抱いている猫、つまり、ネズミはそれとはまた違っている。ネズミは純粋な甘い匂いがするのだ。そして翔とネズミに共通しているのは、どことなく懐かしい匂いだってこと。
思い出しそうなのに、思い出せない。頭の中で過去の映像を流そうとすると、的確な記憶が写されない。いいところで、雑音とこれまで歩んできたくだらない昔の記憶が過る。過った後であたしの昔の記憶が告げる。
ーーお前が思い出そうとしている出来事は『夢』だって。
嘘だ。実際にこの匂いはあたしの知っている匂いで、その匂いを持っている人が隣にいる。隣に居る翔は現にこうして存在している。だから、これは夢じゃない。確かに実態がある。そこにある。だから、これは夢じゃない。
何か大事にしていたことをあたしは忘れている。大事だって分かっているのに、思い出せない。あたし自身がそれを拒んでいる。知ることが怖いから拒んでいるんだと理解している。拒んでいるけど、あたしの反対の感情が、それを知りたい欲求と温かい気持ちが、忘れられないものを引き出そうと努めさせる。
「猫、見つからないな」
隣でぼやいた翔があたしの歩調に合わせる。人ごみから離れた、知らない裏路地にあたしの歩みが進んだ。こっちに猫ではない何かがある。あたしは真夜の猫だと思い込んで歩みを進ませている。
「こっちであってるか、わかんないよ?」
あたしは翔にそれを隠してる。嗅いだ匂いの中に真夜の猫の居場所を断定するものはなかった。それにもかかわらず、あたしはこっちへと翔を誘った。いや、足が進んだ。嘘をついた。この心の中にある不安に彼を巻き込んだ。だから、翔は猫があたしの行く方向にいると思ってるに違いない。
違う。
何が違うか、分からない。でも違和感が心の中を埋め尽くしていたのは確か。
あたしは翔についていた懐かしいこの匂いのもう一つの場所に向かっている。
猫なんてどうでもいい。そう思ってしまっている。今はこの匂いを辿りたい。会いたい。とても会いたくてたまらない。どうしてかは分からないのに、気持ちが焦る。そっちに行かなきゃならない、なんて義務を感じてしまっている。
ついには商店街を抜け、裏路地の暗くじめじめした細い通路に出てしまった。人なんてここには存在していないみたいに静寂で満たされている。ゴミ箱が所々で倒されて、中の物がぶちまけられている。一人の浮浪者にすれ違い、その匂いを嗅ぐが、やはり違う。浮浪者の匂いと、この翔の饐えた匂いとでは天と地ほどの哀愁の差がある。
そう思うと、胸がきゅっと痛んだ。
翔とあたしとで二人並んでなんとか歩ける通路の幅。両隣には二三階建てのビルが建てられている。ところどころにひびが入っているビルは、今にも崩れそうだ。ネズミのような猫もうろついている。ゴミ箱に群がる白色の猫と縞模様のトラ猫。その傍には子猫が寄り添っている。
その猫たちは真夜から聞いていたお尋ね猫の容姿と異なっているので、見逃した。そしてあたしはそのまま匂いの元まで歩き続けた。
真夜の猫の捜索なんてどうでもいい。
「居た」と翔がその猫達を確認しに行った時だって、あたしはこの懐かしい匂いを逃がさないように、捉え続けていた。この匂いの主がどこかに行かないように、逃げないように、焦っていた。「早く早く」なんて心内で翔を急かしていた。
翔はそれに何も言わず、確認が終わるとあたしの歩みを信頼して、それまでしていた通りついてくる。
そうして歩いていたら、あたしの鼻に強い懐かしい匂いを感じた。
その時ネズミが突然ぱちっと目を覚まして、腕の中から飛び出した。しゅたっと鮮やかに着地し、あたしを先導するように前を行くようになった。
黒い猫は横切ることもせず、まるでこっちだと手招きをしているように。誰かに合わせるたがっているように。不思議なことに匂いの元へと辿る道とネズミの歩く道が一致した。
翔が何も言ってこない。この異様な雰囲気に飲み込まれていたのかもしれない。どこへ向かっているのかも、あたしの鼻がどこへ辿っているのかも、翔は知らない。はたから見てたら、おかしな子だろう。だから、翔は何も言わずについてきてくれるのかもしれない。あたしを止めることも、先も見えず、どうすることも出来ないから。
路地裏はどんどん暗くなっていった。
地面にはぽつぽつと黒ずんだ染みが見え始めた。
こんな街中でこの染みは確かにおかしい。異常だ。非日常だ。
普通の生活を送っていたら見ないはずのものだ。みんなが嫌っている痛みから吹き出すあの赤い象徴がそこにはあった。外で見かけることはほぼない。もしこれを見たことがあるとしたら、その人は暗い過去を引きづっているに違いない。あたしのとても大好きな香りだ。その香りが赤い点々としたものに乗って、あの懐かしい匂いが漂ってくる。
ふらりふらりと足元がおぼつかなくなる。
思い出していた。あたしは、こんな風な赤をたくさん見たことがある。それがどこか、いつかは分からない。思い出せないのに……懐かしくて懐かしくて……唇を噛む。
思い出せたのはあの黄金色の田園の光景。あの時はたくさんの人が死んだ。あたしは利用されたんだ。あの場に行き、プラントに取りつかれ、操られた人々をプラントごと殺した。あたしは利用された。殺しの道具にされた。あたしと言う人物をお粗末にされた。
とてもきれいだと感じたこの記憶が、とても悲しい物だった。
この香りは、一体何なんだ。教えてほしい。
「教えて」
あたしの口から漏れ出た声を翔は無視して、ショルダーバックを肩に掛けなおした。何か準備をしているようだった。あたしの記憶を教えると言うよりこの先の答えのものを、翔は……知っている?
「しょ、翔」
おぼろげな記憶が、頭痛を起こす。思い出そうとしたが、昔の記憶の一場面だけしか映らなかった。
翔の姿はその記憶にはない。そこにあるのは血の香りと、大量の死体の光景だった。この量を殺すのは流石の私でも不可能。魔法石が足りないし、認可が下りない。いくら昔の無邪気なあたしでも、上の命令には逆らえない。
「アヤカ、引き返そう」
ようやく翔は言葉を紡いだ。その言葉を翔は、言いあぐねていた。今やっと言えたんだろう。あたしは頭痛で痛む頭を右手で抑えて、右手のビルに体をよりかからせた。
ーー思い出せ。思い出せ。お願い。思い出してよ。
そう何度も命じたのに、思い出せない。大切だったはずの記憶だ。それは確実に分かるのに、何で、こじ開けられないのだろうか。
目の前を歩いていたネズミがあたしの歩みが止まったのを見こしたように立ち止まった。振り向きあくびをつく。あたしのことを馬鹿にしているようだ。それから、あたしには近づかず、翔にも近寄らず、尻尾をたてて、黄金色の瞳を瞬きして見せた。その美しい瞳は細くなっている。
「翔、ねぇ」
意志があった。あたしには曲げられないことがあった。あたしの感情は、あたしらしくそのままでいいって思ったから、あたしは自身を否定せず、まっすぐに翔を見た。あたしより数センチ小さい彼を見下げる。
落ち込んでいるのか、申し訳なくあたしのことを覗き込んでいる。
「翔、あたし」何が何でもこの先に行く。そう言おうとした。
でも、その言葉は翔にとって嫌なことのようで、首を横にふられた。どんな返答でも引き返すつもりだったらしい。
「もう十分だ」
翔が呟く。あたしに告げたと言うより、ひとりごとを言ったように感じた。
何が十分だったのか、あたしのは分からない。少なくともあたしは十分じゃなかった。先も、記憶もないこの状況で、押し寄せる感情をどうにかしてほしかった。会いたくてたまらないこの溢れそうな感情が痛かった。
「嫌だ」
「アヤカ?」
あたしはひねり出すように声を絞った。今は優しい彼の言葉を聞きたくはない。
「偽物みたい」本物の匂いがすぐそばにある。
いつも感じていた翔の懐かしい匂いはどこか嘘くさかった。同じ匂いなのに、違う。レプリカ。もの悲しき複製品。
「翔の香りはいつだって偽物だった」
翔がその言葉を飲み込む前に、あたしは重い体を起き上がらせて奥へと駆け出した。地面の赤はぬめぬめしく鮮やかに光っている。すぐ傍にある懐かしく感じるこの匂いが、この赤の根源だとしても、あたしは何が何でも会おうとするだろう。感情がそうさせるんだ。
後ろから翔が走り着いて来る音がする。あたしの走りに翔が追いつけることなんて確実にない。あたしの方が運動は出来る。
赤の吹き溜まりが見えた時、視界がぱっと開けた。
暗かった路地裏に光が差す。ビルの陰がさして暗かった場所から一転して、暗い天井が開けた。もうそんな時間だったのだろうか。茜さす夕暮れに、どんよりと陰った雲が浮かんでいた。ちかちかと電灯がつき始めた。
そのたもとに、彼はいた。
肌は青白い。全体的に黒い服を着ていて、あたしよりも背が幾分か高い。皐月ちゃんより大きいんじゃないかってほどに大柄だ。なのに感じるのは恐れより晴れた気持ち。
待ってた。
彼と会うのを待ってた。そう口をついてでてきた。
おかしい。あたしはおかしい。こんなに変な気持ち初めてだ。でも、前にも会った気がする。分かんないのに、会ったんだ。また会えたんだ。
出会った彼の手には猫の亡骸が見えるのに、あたしはそれでもその人を愛おしく感じてしまっていた。




