プロローグ:さん
しばらく話していて気付いたが、絢香は全くと言っていいほど、矛月のことを怖がりもしなければ、侮蔑もしなかった。
ふつうは彼女の姿を見れば不快感をあらわにする人のほうが多かった。
彼女は『獣交り』であり、獣姿になることもあれば人の姿に変わることもある。日常的に人の姿におさまるまるようにするのだが、彼女は難しかった。
その理由としては彼女の、怖がりにある。
「にしても、かわいい」
と、絢香がまた矛月に抱き着く。
そのたびに矛月の獣耳やしっぽの毛先の白色が広がる。
こうして、驚いたり、怖がったりすると、彼女の獣化は広がるのだ。
今日、ここに来た時から獣の耳としっぽが表れていたのは、いつもと違って俺と藤村絢香が言い合っていたからだろう。矛月はいつもの日常ではないだけで、驚いたり恐怖を感じてしまうことがある。それはこれまで受けてきた集団からの排斥からくるものだ。幼馴染として見てきた。これまでの仕打ちを見てきたものからすると彼女のことを大切にしたい思いがある。
「おいおい」と俺が止めに入ろうとする。
「それぐらいにしてくれないかい? 藤村さん」
すると祐が先に止めに入った。
「ええー」藤村はより一層、矛月を抱きしめる
「えっと、絢ちゃん……苦しいよ……」
たじろぐ矛月。目がぐるぐると回る。どこへ向いたらいいかわからないからか、また彼女の意思とは反対に白い大きな獣に一歩近づく。
矛月本来の獣姿を見るものは少ない。彼女は見せたがらないのも一つの要因だが、何より一番の原因はこの社会はその姿を忌み嫌うからだ。
今のしっぽや耳が頭がでているような半分だけ獣交りになっている姿を見られた時だって、石を投げる輩がいるのだ。いつも意識は根強く張って獣姿にならないようにしているが、不憫でならない。
俺は耐えられなくなって、祐に目配せするが動く気配がない。そればかりか、俺に手を振ってくる。
その態度で、矛月がまだ祐に怒っているのを思い出した。祐は矛月のことを誰よりも大切にしているが、逆にいきすぎることがある。今もそうだ。矛月が祐に怒っているから、祐は手を出せないのだ。
祐が言えないなら、俺が言うしかない。
「矛月、耳としっぽ」
そっけなく言い放った。普段、俺はあまり獣耳としっぽを気にしない。祐も同じく。気にしているのは本人だ。
本人は誰ともわからない藤村に見られるのは気にするだろう。
ひぇっ!?
と、矛月は目を見開いたかと思えば頭に慌てて手をやる。その手に、犬のようにとんがった鋭い耳が当たる。やわらかい耳は矛月の手で押さえられしおらせる。
藤村から一歩引いたかと思えば、次の瞬間社のすみにとんでもないスピードで体を寄せた。カンテラの灯りが行き届かない暗闇に身を潜ませ、潤んだ瞳でぱちくりと瞬きし見てきた。
「なんで教えてくれなかったのぉ」
悲痛に叫ぶその言葉には藤村絢香という人物がいながら、という単語が見え隠れしていた。矛月は俺達にその姿を見られることに細心の注意を払っていた。
恐ろしいのだろう。外界の敵が。藤村はまだましなほうだ。
「俺がやろうか?」と祐が自嘲気味に言う。
「やだ」矛月の瞬時の返す。
やはり、まだ怒っている。
「矛月、まだ祐に怒ってんだな。もういいだろ」
俺は、矛月の強情に皮肉めいた言葉で叱る。
そもそも気づいて、耳を直さないあたり、矛月は今日魔法石を持ってくるのを忘れたのだろう。そうじゃなければ、今すぐにでも獣交りから人にかえる魔法を使っているはずだ。
未だに明かりが届かないところで、ごにょごにょと「だって祐、頭いいのに私と誉に合わせて偏差値同じな高校に入るのおかしいんだもの。しかもたくさんの野球推薦をけってまで……」いつまでも恨み言を言っている。
確かに、祐が最後まで自分の意思を貫いて野球をやっていた姿を知っている俺達にとっては、祐が自分の意思を曲げて俺たちに合わせるのは不思議だった。
でも、それは祐の問題だ。しかも高校が始まるのはもうすぐでもう終わった話だった。いつまでも怒っているのは、矛月の努力とか平均とかの自分自身の実力や周囲にあるのかもしれないが、それも祐の中では構わない話であったし、意味はない。
要は今、矛月が怒るのは八つ当たりに近い。
「魔法石あれば自分でできるから、もらっていい?」
ごにょごにょの果てに、矛月は観念したのか頼ってきた。祐は待ってましたとばかりに、新しい魔法石を矛月の方向に転がす。社の木の上をころころと転がり、たもとにつく。
魔法石は一回使うと本人しか使えなくなる消耗品だ。ただ、毎日スーパーで売られていたりちょっとした小売店にも出されていて手に入りやすい。だから祐のような魔法で押さえられる病気持ちや獣交りは魔法石を常に補充している。
しかし矛月はよく家に忘れてきて、こうして他の人に魔法石をもらうか、治療を行ってもらう。今は矛月は自身で魔法石を握りしめて、獣交りから自分の人間姿に戻る治療魔法を行っていた。
そこににやりと藤村絢香は笑って、俺たちを見まわした。へぇ、と一息つく。すん、と鼻を動かす。
「へぇ、へぇ」
うんうんと頭を何回も小さく縦に振った。そのたびに赤いマフラーと茶色い髪が揺れる。
「なんだよ」俺がたまらなくなって言葉を投げつけた。
「なんだとは、何?」
「またそれかよ」
と、また攻防が続きそうになるも祐が「まあ、まあ、藤村さん、だっけ。藤村さん、何か言いたいことがあったら言ってよ。俺達もそれなりに気になるからさ」俺と絢香の間を取り持つ。
「ふふーん。私気づいちゃったの」
藤村絢香……藤村はとても上機嫌になったのか、俺との会話も忘れ立ち上がった。くるりとその場で一周する。そして、俺ではなく矛月向きなおり、指をさした。
「むーちゃんは、獣交り」
びくっと、元の黒い髪、しっぽのない普通の女の子に戻った矛月に指をさす。
床がかすかにきしむ。そこを藤村は、思いっきり踏み、もう一回ターンした。そして今度は俺……ではなく祐の方に向き直り指をさした。まるでルーレットだ。
「ユウ、あなたはゼンソクね」
ユウは驚く表情を見せず、しかし静かにうつむいた。その黒の瞳にカンテラの灯りを宿らせる。ああ、と低く唸るように藤村に同意した。
「当たった」
祐の反応は、むしろ当然だった。
だが俺は藤村の反応や行動はとてもじゃないが受け入れがたかった。今まで見てきた中でも異例だった。
『獣交り』は獣に変わる障害だ。魔法に触れたり、魔法を使えば元通りの人の姿に戻る。だが定期的にしなければ、獣の姿に変わる。矛月の場合は、ただ成りやすい体質だった。
祐はこの獣交りと似ている対処をとられる病気だ。障害ではなく、病気だ。いつ起こるかもしれない病気、それが『ゼンソク』だ。
症状は様々だ。主に目の焦点が突然合わなくなったり、瞳孔が開いたり、意識を失ったり、本人の意思とは違って漫然とした動きになったり、ひどいときは植物人間になったりする。だが対処法が魔法を使うこと、触れることしか分かっていない。
祐の症状は重いものに分類されるが、突然起こったりはしないし、突然起こるとしても軽度の症状であることが多かった。今も、たまーに意識が飛ぶこともあるが、それは他の人がぼーっとしているのと変わらないので気にならない。
その中で、藤村が祐の病気を当てるのは不思議だった。しかもその病気に嫌悪感を抱かずにいるこの現状に気味が悪くもある。
今まで祐や矛月のことを知った人は、少なからず避けるものが多かった。病気が怖いから。障害に関わるのが嫌だから。
「なあ、藤村なんでわかったんだ」
純粋な興味を抱いた。嫌な気分とともに興味が光り、彼女のことを知りたいとも知りたくないとも思う心があった。
「そんなの、簡単。これだよ」
鼻をちょんちょんと押した。
「あたしは人の香りでその人がどんな人かわかるんだ。意識的にね」
「なるほど」と俺は感嘆した。
「すごい」と矛月は光がこもった言葉を紡いだ。
祐は終始一貫して藤村のことを無言で見つめていた。何も感じていないのか、それとも今ゼンソクの症状が起こっているかわからないが、ぼんやりと眺めている。
なぜかは分からないが、その瞳に憂いが込められているように思えた。
こいつのこんな顔初めて見た。しかし理由がわからなかった。嫌なことを指摘されたが、藤村を見ると矛月も祐自身も避ける様子はない。
とりあえず放っとこう。長年の付き合いで、祐は言いたくなったら言うやつだって知ってる。
それにしても。
「すごいね。絢ちゃん」矛月が藤村による。「じゃあ、私みたいな獣交り、街中で見つけることできるの? 獣交りの動物とかも分かるってこと?」
「もちろん。あ、でもね動物の種類は分からないよ」
胸を張り、藤村の鼻高に言った。
実際のところ、それはおかしいのだ。見たところ、犬の獣交りでもなければ、藤村はどこかおかしいところもない。
俺を罵る以外は。
この鼻は驚異的だ。それは特別な力だってことを示していた。
『あたしは大丈夫』
社に来た時、PLANTの対処を藤村はそう軽々しく言ってのけた。その上、この特別な力だ。まるで黒木香奈支部長の眼だ。
見えすぎる眼。
藤村は利きすぎる鼻。
獣交りとゼンソクと俺達一般人との違いなんて普通は分からない。しかし、分かっている。合っている。それはもう魔法を使うプロの領域で、魔法使いであることに他ならない。なっていなくても、黒木支部長は藤村のような人材を見逃さない。
「誉、藤村さんって……」
祐が何か覚ったのか俺に目配せする。祐も同じ違和感を覚えているのだ。
いや、事実魔法使いの俺の先輩のように高校から魔法使いの仕事を務めているものもいる。かつて魔法使いになったものの最年少は小学生ぐらいの年齢だったとも聞く。中学生からしていても不思議じゃない。
「そういえば聞こうとしてたんだけど、むーちゃんの獣交りの動物って、な…に……」
「藤村」
俺は止めに入った。自分の思惑と、矛月の答えられない問いを遮るために。俺がやらなければ祐がやっていた。俺が先に手を出しただけだ。
「なに? 今むーちゃんと話してんたんだけど?」
藤村の凍てつくような視線が刺さる。
一息ついた。
「俺はこの街でその……魔法使いのバイトのようなことをしてるんだ」
は?
と、今度は頭を傾げた。俺のような奴を全力で否定しにかかっていた。それはそれでいたたまれなくなる。
そもそも魔法使いだなんて自称するものじゃない。魔法使いはただでさえこの国のあこがれられる職業で、俺はたまたま運がよくバイトをしているだけなのだから。
「バイトをしてる中で、藤村みたいなやつがごろごろいるってのを知ってる。ちょっとだけそれを知っているから思ったんだ」
「つまり?」
苛立ちが募ってきたのかすぐさま座り込む、貧乏ゆすりをし始めた。振動が木を伝い、俺にも感じられる。踏みにじられた木が壊れないか心配になった。
振動を抑えるために、俺は恐々と口を開けた。
「藤村、お前魔法使いなのか」
もし、これが本当ならすごいことだった。中学生で魔法使いをしていたやつなんて見たこともなかった。いやいるのだろうが、珍しい。
俺は、まだバイトの身分だ。全く魔法使いなんて大それたものじゃない。俺達幼馴染のような普通の一般人達は魔法使いのまの字もない。
「違う」
いじらしく藤村は言ってのけた。社内の空気が一瞬にして張り詰めるのを感じた。藤村のその言葉はそれほどまでに重みがはらんでいて、俺たちは手出しができなかった。だから待った。藤村の言葉を、行動を待つしかなかった。
カンテラの灯りが何回もくゆる。遠くから何かが近づいてくるのが聞こえた。重しを上げて下げてを繰り返しているような音だった。それは俺の心臓の音だと思った。警鐘のように鼓動が鳴り響いていた。
何も動かなかった。社内にあるご飯も、風も、藤村のマフラーも動かない。心なしかこれらすべてしけっているように見えた。
藤村は冷たい目をして、カンテラの光に凍り付いた頬を当てていた。橙色のガラス玉を目の中に追いやり、どこか遠くに彼女の魂はどこかにいっているようだ。
「な」彼女の口がにっこりと笑う。「なんてね。違う違う。あんなやつらと同じにしないでよ」
次の瞬間張り詰めた糸が立ち切れたように、藤村はけらけらと笑い出した。手をぱたぱたと仰いだ。
あっけにとられた俺と矛月は口をぱっくりとあけた。
隣の祐だけ苦笑する。
「でも、やっぱりすごいよ。その鼻」
祐は何かを隠すように、それでいて踏み込まないように歯止めをかけた。
しかし、俺はやはり思うのだ。藤村絢香は、どこをどう見ても魔法使いそのものだった。PLANTの脅威をものともしないその態度や、軽口。それに黒木支部長の眼のような特別がある鼻。
「そうでしょ」少女はほほ笑んだ。
何とはなしに笑う少女に誰かを思い出した。誰かを写した、重ねて、心が痛んだ。
「今は何かプラントとか、香って来るかい?」
「そうだなあ」
藤村はすんすんと周囲をかぎだした。鼻がそのたびにぴくぴくっと動く。先ほどは犬のように見えたそのさまは今はネズミのようでおかしかった。
その様子を見て、驚きから復帰した俺と矛月は互いに見つめあって、また藤村を見て笑いあった。痛んだ心を隠すように。
たとえ藤村が何者であってもどうでもいい。俺たち幼馴染はそう言うレッテルでつるんでいる仲じゃない。
俺達はあぶれ者同士だった。そのあぶれ者があぶれ者を受け入れないなんてあるわけない。藤村がどうであろうと、関係ない。
悪いことをした。
人の正体なんて簡単に暴くものじゃない。
あれ?
思ったのもつかの間、すっとんきょんな声が社に響いた。それは藤村の声でどこか歓喜に満ちた声色も含まれていた。
「あれ? 匂う」
彼女の瞳が輝きだしていた。赤いマフラーが先ほどまでしおれたタオルのようだったのに今はヒーローのマントのようにたなびいていた。茶色い髪が生き生きとはね、艶めきだす。
「誉が?」と祐。
「えっ、私?」と矛月がおかしな方向に解釈した。
少し経って、俺は脳内にその会話の流れを汲みとれた。
「俺?」
俺は自分の着替えていた私服をにおいだ。焦って、くるりとその場で一回転する。藤村みたいと気づき、一回転したときに気が抜けてしまった。俺は体をひねりすぎててしまっていて、バランスを崩し座ったまま躓き横に倒れた。
「えっ、えっ」
終始矛月は焦っていた。藤村と俺と祐を順々に見まわす。
そして祐はその光景に噴き出し笑っていた。高らかに、楽しくて仕方がないように。
その次の藤村の言葉をかき消すように。
「プラントが近づいてる。そんなにおいがする」