閑話④(バレンタイン)
閑話③(節分)の続きです。
甘々祐君。彼はこの年も十個を超えるチョコをもらっています。
「パンケーキを作ります!」
中学生になったその年のバレンタイン、盾倉矛月は鳥羽誉と唐崎祐を連れ出し、唐崎家のキッチンに並んで立っていた。
「何でまたいきなり」
誉が矛月に不平を言う。
「今日はバレンタインだから」
矛月は言い張る。
その隣の祐はニコニコと笑っていた。
「そして、今日はピーナツの克服日だから」
と、意気揚々と矛月がピーナツバターを出してきた。
チューブに入った黄土色の滑らかなバターはその場にいるだけでピーナッツの匂いがする。
それを見て祐は顔を瞬時に顰めるが、すぐに取り繕った。いつも通りの笑みを貼りつけるが、どこかその笑顔は陰っている。
そんな雰囲気を感じ取った誉は、矛月にピーナツバターを「貸して」と受け取り、祐に翳す。祐は笑顔で避ける。避けた方向にまた誉はピーナツを持っていき、祐は避け、誉はまた手を伸ばし…その手は直前で祐に手首を力ずよく握られて止められた。
そのまま男子二人の攻防は続く。
力を抜かない誉は力ませなんとか祐にピーナツを当てようとする。しかしそれを防ぐために祐も全力で押し付けようとする手首を握りしめ全力で止めた。
両者一歩も引かぬその態勢に不意を突いたのは矛月だった。祐の後ろから、ぴとっともう一つ買っておいたピーナツバターを付けたのだ。祐は付けられたと同時に、へにゃっとその場に崩れた。
「喧嘩はだめだよ」
ぴしっと矛月は誉に指さす。
矛月に抑えられた二人はもう何も言うことは出来なかった。
「祐ってさ、本当にピーナツ嫌いだよね」
崩れた祐へ矛月は手を差し出した。
「嫌いなんじゃなくて苦手なんだよ」
矛月の手に祐は掴まる。どこか嬉しそうにその手を掴んでいた。
「いろいろあってさ、ピーナツ苦手になったんだ。食べろと言われたら、食べられるけど無理して食べたくはないかな」
「意気地ないな」誉がぼそっと呟く。
「誉はトマトが嫌いじゃないか」
反撃とばかりに祐は言い放つ。
「わぁ、子供っぽいね」
矛月も乗っかる。
彼ら幼なじみの中ではそれは周知の事実で、いつもそのことで誉はいじられる。誉が赤を嫌ってトマトを苦手としているのは、深い理由があるのを知っているのだがそれは、それ、と苦手なもの食べ物はもったいないと矛月は思ってしまうのである。
「食べ物はね、天の恵みだから、なるべく食べてほしいんだ。ピーナツとか、トマトとかおいしいし。おいしいのを気づいてほしいから」
小学校からの舌足らずな矛月の喋り方は少しだけ消え失せ、はきはきと矛月は喋るようになっていた。
彼女は食べるのが大好きだった。大豆でも、何でも彼女は食べられた。
「矛月らしいね」
祐が決して他の女の子には向けない笑みを矛月に零す。
ただ、彼の心の内はピーナツのことで頭がいっぱいだ。
へへと矛月は笑う。
しかし、その笑みに祐は満足そうにしているが、頭はどう矛月を傷つけず、ピーナツを回避するかで頭を満たしている。
矛月は続ける。
「それで、パンケーキをバレンタインの代わりに作ろうと思ってね」
パンケーキはどの食材とも合う。それはトマトも例外ではない。このバレンタインのギフトにトマトとピーナツ克服を矛月は彼ら二人にプレゼントする腹の矛月。
――だが、誉と祐の頭の中ではそれを回避すべくどう動こうかに働いてしまっていた。
そして、奇妙な連帯感が男二人に生まれ、矛月にバレないところで、手を握った。
パンケーキを作るにはパンケーキミックスと卵が必要である。矛月はまずトマトとピーナツを傍らに置き、ボウルを用意した。
と、そこで、男二人は目配せをする。
「あ、矛月、俺達がパンケーキミックスと牛乳の分量を量るから、矛月は冷蔵庫まで卵を取ってきて、なあ、誉」
「ああ」
「ほんと? じゃあ、任せるね」
「うん」と祐が朗らかに返す。
矛月がちらっと一度確認して、キッチンの背後にある冷蔵庫に手を伸ばした。彼女の感覚は獣交じりと言うこともあり、人間よりも幾分かよく研ぎ澄まされていた。麺前のピーナツとトマトを取り上げるのには、別の音を立ててそちらへと引きつけることが必要だ。
祐は料理が上手いことを知っている矛月に、祐がわざと失敗を見せると逆に怪しまれる。そこで誉だ。
さっとトマトとピーナツバターを祐が盗みだし、別の戸棚に手を掛けると同時に、その音で矛月が振り返る。
そこで誉はホットケーキミックスの袋を開けてぶちまけた。
「あっ、誉ぇ」
瞬時に矛月の視線を隠したものから外し、「よし」と二人の男は心の内で、二人でガッツをかわした。
「ごめんって、矛月その手の中の物は?」
誉はミックスを被りながら、矛月が冷蔵庫から取った物を尋ねた。
誉と祐はその物を見ると目を見開く。
「何って、予備のピーナツバターとトマト」
もしかして…と二人して思い、矛月が買って来て、唐崎家に居れていた大量の物を思い出す。すぐさま矛月は冷蔵庫の中を「ほら」と見せた。
冷蔵庫にはトマトとピーナツバターが大量に詰め込まれている。
「なくなるといけないって思ったの」
意地悪そうに目を細め矛月はその頭を小さく傾げた。セミロングの黒髪は揺れて小悪魔のように意地悪そうに口角を上げている。
「今日はバレンタインだからね。いつも二人にはお世話になっているから、これぐらい奮発しないとね」
どうやら祐と誉の見積もりは崩れたようだった。矛月が二個も三個も上手で、祐は生まれて初めての恐怖と屈辱を自分が好意を抱いている相手に抱くのだった。
「これもこれでいいかな」
祐は矛月へ向けるその感情に惚れ、諦めたように鼻で笑った。
「おい」隣の誉は歯を剝く。
「裏切者」
「俺はいつも矛月の味方だから」
ぼそぼそ祐はと誉と話し出す。
「何話してるの?」
聞かせてと無垢な微笑みで矛月は再び揺さぶりをかけて来た。
「ううん、なんでもないよ」
清々しく彼は矛月に向き直った。
背後の誉のあらゆる馬頭も彼の耳には入って来ない。
パンケーキが出来上がると、矛月は誇らしげにピーナツをパンケーキに塗った。
「こうすれば、おいしいよ」
それは矛月成りの優しさなのだが、目の前の祐は貼りつけた笑顔を崩さなかった。その笑顔の裏では汗がたらたらと滴っていた。ピーナツの甘い匂いがどうしても彼に生理的嫌悪感を引き出していた。
誉はトマトの赤さにダウンする…かと思いきや、今回のトマトは赤くなく、黄色のトマトを使っているため、祐を隣で高みの見物を気取っていた。
「ほら、食べねぇのか?」
嫌味なヤジが隣から飛んでくる。そのヤジの合間に口にトマトをトッピングしたパンケーキを放り込んでいた。それはこれ以上美味なものはないと言うように、おいしそうに口を開けて、食べている。
目の前に出されたチョコ代わりのパンケーキを祐は見つめる。
香りもそうなのだが、この色でさえ背筋に悪寒が走るぐらい嫌悪していた。だが、隣には一生懸命作ってくれた愛しの矛月がいて、祐が食べるところを目を輝かせて待っている。その瞳に蹴落とされて、少しづつ手をフォークに伸ばした。
「面倒だな。矛月が食べさせてやれば?」
誉が冗談で、矛月に投げかける。
「それもそうだね」
「へ?」と誉がまじかよ、と驚いて目をこれでもかと言わんばかりに開く。
矛月はそれを本気に受け取って、傍らにあったフォークを手にし、未だにゆっくりと動く祐を無視して、フォークをパンケーキに突き刺した。すぐさま祐に向けそのパンケーキを差し出した。その間、一秒。
「祐、ほら口開けて」
高らかに矛月は言葉を紡いだ。
「む…」と恥ずかしさで委縮する祐に矛月はなおも差し出したままだ。
「ほら」
「矛月…」
「あーん?」
矛月の仕草にやられた祐は、恥ずかしながらもぱかっと口を開けた。その中へ矛月はパンケーキを送る。祐はぱくっと食べると、もぐもぐとピーナツ付きのパンケーキを咀嚼する。
「どう?」
「…おいしい」
祐の口にはやはりピーナツは合わなかったが、その矛月の態度にやられて、すでに口内は幸せで満ちていた。これを不味いという感覚も消え失せている。
「それは良かった」
るんるんと上機嫌な矛月と祐の傍らで、ぼんやりと誉は少しだけ寂しさを感じていたのだった。




