第三話「誉(4)」
電車内にいた人は隣町に着いた途端に降りていってしまった。降りて、降りて、すると車内に居るのは元々の誰一人としていない車内に戻っていた。ただ俺の目の前で少し年上だと思われるカップルは下りずに楽しそうに話をしていた。乗客がいないのを良いことに大声で話しているのを見ると、羨ましくなる。
父さんと母さんもこんな風に話したのだろうか。あの父さんと会話が続くかどうかは疑問だが、想像できないことはない。きっと楽しそうに話したのではないだろうか。
車窓にはビルが立ち並んでいる景色が写っている。これを抜けると湖が見える。まだ青々しい稲がそろう田園が見えてくるはずだ。見晴らしが良いので、この先の景色がお気に入りだった。
最後の大きなビルを通り過ぎ、住宅街に出る。一瞬にして住宅街が過ぎた先に目を輝かせ見つめる。
息を飲んだ。
おかしい。
いつものように湖と田んぼが広がっているはずなのに、色が違っていた。まだ昼だと言うのに赤い夕日が沈みかけていた。ひと際目立つのは湖だ。湖面が濃厚な赤色に染まっていた。夕日が照り返し、そうさせているのならまだしも、曇っていた空が開けているのは異常に他ならなかった。
おそらく先ほどから昔のことを思い出し続けているための、いつもの幻覚だ。服が赤く見えたり、赤い水たまりが広がったりと、小規模な視界の幻覚はあったが、湖のような大きな幻覚を見るのは初めてだ。最近は慣れてきて症状が出てきても帰り道を一人で帰れていたのに、こんなのは大きすぎる。
体が凍る。動揺して、症状が大きくなっている。
だが、目の前に座る二人組は俺のことなどお構いなしに雑談を交わしていた。声を上げようにも、口が小さくしか開かず、音も出ず、口をパクパクと動かすしかなかった。助けを請おうとしても、俺の不審な行動に気付かないほど二人の男女は会話の世界にどっぷりと浸かっていた。
動かない体が落ち着くまで仕方なく待つしかない。
車窓に写る景色を見ないようにしようとすると、自然に二人組の方に視界を向け、耳を傾けていた。
「名前、何にする?」
二人組の片方である女性が男性に問いかけた。
女性は笑みを浮かべている。恥ずかしそうに問いかけた後口元を手で隠した。肩に跳ねっかえった黒い髪が擦れる。
「“蠍”とかどうだ」
男性は周囲など気にせず堂々と言い張った。
この時点で何の話をしているのか分からなくなった。犬や猫などのペットに付ける名前だろうか。
女性は笑いを含ませ、
「子供に付ける名前だよ、ちゃんと考えてよ」
蠍が名前。男性のセンスはいいなあ。少しだけ惹かれる名前だ。
すると、男性は険しい顔つきで両眉の先を曲げた。元々風格ある顔つきをしていたので険しくなると周囲を怯えあがらせるほどの雰囲気が一層増す。
「じゃあ、“岩”と書いて“岩”ってのはどうだ。強い男になりそうだろ」
今度はどうだと男性は鼻高々に言い放つ。
「だめ」
女性はすぐに切り返した。
それから女性は我慢していた笑いを噴出させ、車内全体に響き渡るような大きな声で笑い始めた。女性の笑いは女性の雰囲気に似合っていないような気がした。女性にらしくない笑いを起こさせたのはひとえに男性の一言があってだろう。
「そんなに笑うことねぇだろ」
男性が女性の笑いに不機嫌そうだ。
「だって」
まだ女性は笑っている。
「子供に付ける名前なのにおかしくって、おかしくって」
それからまた男性を再びちらりと見て一層笑った。
「お前も何か出せよ」
「そうだね」
男性の意見に全く女性は乗っていないようで、適当に返した。
「分かった、じゃあ考えを変えよう」
男性の声が真剣になる。
「どんな子になってほしい?」
「そうねぇ」
女性が考えているのか困ったように頬に手を当てた。
「俺はかっこよくて、強くて、誰にも負けない…」
「つまりは」
男性の意見など構わず、嫌みな目で女性は男性を睨みつけた。
「あなたみたいな人ね」
「そうは言ってねぇって」
「嫌よ。あなたみたいな子。周囲の空気も考えず迷惑ばかりかけて。私にもまだいくつか謝ってほしいこと、たぁくさんあるんだから」
痛いところを突かれて気まずくなったのか男性は顔を俯かせた。
「お前のそういうところ雪華に似てて苦手だ」
男性が聞こえるか聞こえないかのぎりぎりの声の音で呟いた。
「妹さんね」
女性は聞こえていたらしい。
「そうだよ」
男性が観念したのか、声を張った。
女性は男性の当惑した態度など後ろめたさなど持っていなかった。むしろからかっているのを楽しんでいた。それはどこか懐かしい、どこかで見た一つのシーンのようだった。
それから女性は考えに考えた。
「私は」
そしてようやく口を開く。
「私はね、子供には誇りを持って生きてほしいな」
男性が分かっていないのか頭を傾げた。
「あなたみたいにじゃなくてね」
棘のある言葉が再び男性に降りかかるが、今度は気にはせず平気そうにしていた。女性の次の言葉に興味津々なのか真っ直ぐ女性を見つめた。
「それはこの子が生まれた時から持っている誇りだったり、この子が良いことをして自分に自信が持てる誇りだったり、そんな誇りはいつしか名誉になって、この子自身を守ってくれるわ」
女性の目が細められる。その面影は俺の知っている人に似ていた。
ああ、違う。この人は。
目頭が熱くなった。頬が引きつり痛む。頭痛も、耳鳴りもないのに、胸の鼓動が激しく打って痛い。
「そんな名誉はあなたが言ったように強くて、優しくて、誰にも屈しない、負けない子にしてくれる。そんな可愛い、名誉ある私達の子」
そうか、誉は…
「そうね、だから“誉”」
俺自身が生まれて来た時に既に名前にあったんだ。
誰かになる必要も、言葉に縋る必要もなかった。
「私の“誉”」
俺は俺で良かった。
女性の優し気な眼差しが俺に向けられていた。金色の瞳はそこには宿っていない。隣の男性は人形のようにうな垂れていない。あの日、もう二度と会えないと思っていた両親が目の前に。
喉が唸った。無意識に鼻をすすっていた。
「頑張ったね」
囁くような母さんの声が鼓膜を揺らす。
そんなことはない頑張っていない。平気だった。大丈夫だった。大丈夫。そう返そうとしていたのに口が思うように動かない。平然としていることはもう出来なかった。恥ずかしくなって顔を伏せると、頭を乱暴に撫でられた。母さんはこんな撫で方はしない。すぐさま顔を上げると、父さんが悲しそうに見つめながら頭を撫でていた。口元が歪む。
ほらやっぱり父さんは俺を残していなくなったことを悔やんでるじゃないか。
途端に電車が駅に着いた音が鳴り響いた。
はっとなり、車窓から見える湖面に目をやると、青々とした湖が広がっていた。堂々と湖はそこにあり続け、空には厚い雲に一筋の切れ間が出来ていた。切れ間から光が漏れ出ている。目の前に居たであろう男女の二人組の姿はなく、ぽかんと空いた座席だけが佇んでいた。
降りる駅は既に乗り過ごしてしまっていて、知らない駅に停車してしまっている。
しかし、もう暫くは腰を上げる気にはなれなかった。
あと少しだけこの車窓から大きな田んぼや湖を眺め、いつしか忘れてしまっていた目の熱さや胸の温かさに浸り続けていようと思わずにはいられなかった。




