第三話「誉(2)」
電車のドアが開く。
知らない間に眠ってしまったことに気付き、目を薄く開いた。慌てて車窓から停車する駅の名を覗き見る。どうやら降りる駅はまだまだ先だったようだ。安堵して溜息をつく。
微妙な時間帯だからか、それともまだ都会でない駅だからか、車両に入って来る人が少なかった。そうは言うものの車窓からの景色は俺が住む町よりも、木々の姿が見えないし、駅近くの一軒のベランダには服が干されていて、人が住んでいるのが感じ取れ、親しみを持てた。しかし此処に住む人は多いと分かるのに、閑静な住宅街が立ち並び人の姿がない。
車窓から見慣れない景色を眺めていると、誰かが隣に座って来た。車両はガラガラでわざわざ隣の席を選び座るのは不可解で、鬱陶しい。誰だか確認してそれから他の席へ移ろうと思い、隣の座席へ顔を向けた。
「シロ」
そこには整った肩まで伸びた黒い髪をした女の子が座っていた。赤いワンピースを着ていて、昔の誰かと姿が重なる。昔のことを知らないから、シロと同じ人にしようと脳が認識しているのかもしれない。こうして見れば彼女も透き通るような白い肌だ。赤が生える白さは彼女の大人びた雰囲気をより醸し出していた。確かに似ている。でも、黒い人が行きかったあの日からは何年も経っているし、あの日の彼女の姿と目の前の女の子が同じ人だとすれば、年をとっていないことになる。そんなことは人としてありえない。
俺の声にシロがにっこりと笑い返した。
「こんにちは」
シロは整った髪を揺らした。
「こんにちは」
つられて俺も挨拶しかえした。
「あー、遠慮とか、いいよ。気軽に接してくれていいからね」
シロは再び頭を振った。黒髪が揺れる。
「髪、切った?」
「分かる?どう似合ってる?」
そうしてシロは髪を握りしめた。そんなことをしてはせっかく整えられた髪が台無しだと思う。
「男の子はこういうの気づかないけど、よく分かったね」
「ま、まあ」
あれだけ強調しているのだから分からないはずないだろう。それに前の髪は伸びっぱなしで、髪先は腰まで伸びていて、あっちこっちに跳ねていたから、見た途端分かる。女子の数センチ前髪を切ったくらいでは分からないが、それとこれとは天と地の差だ。
「髪切って来たんだ。で、帰るところなの」
帰るところ?
「電車乗るの間違えてねぇか?」
と指摘すると、「へ!?」と素っ頓狂な声を上げた。
「反対方向」念を押す。
すぐにシロは振り返り、車内の電子掲示板をあせりつつ仰ぎ見る。
「本当だ。間違ってる」照れて顔を伏せた。
さっきまで重たい夢を見ていたせいもあり、シロのこの間違いに表情が緩む。心に余裕が生まれた。彼女は俺のことを分かっているのか、心の安心を生ませる。大人びた彼女は時折姉のように感じられ、時折お茶目な妹のように感じられる。兄弟も、両親もいない俺にとって、親しみを感じられる彼女の振る舞いはある意味救いだった。
「次降りて、乗り換えたらいいだろ」提案すると、「ええ、そうするわ」とシロは毅然と振る舞った。
しかし次と言っても長い。
***
ふとした単語や話に触れると忌まわしい赤色が見えた。
あの日のことを鮮やかに思い出され、頭痛と眩暈、それに耳鳴りに襲われ立ちくらみ体が動かなくなり知らないうちに失神していたと言うこともあった。だから、事件が起こった後は暫く家に閉じこもっていた。あの時から中学生までの俺の家は支部の二階だった。
父方の祖父母は既に他界していて、母方の祖父母は俺のことを拒絶し、それ以外の遠縁の親戚は両親とは縁を切っており、俺は誰にも引き取られるあてがなかった。祖父母に関しては妖し者の血が混じった俺を恐れ、会うことすら拒んでいた。父さんに関わったことにより母さんが妖し者になったと考えられてしまっていた。当然、父さんの血が混じる俺に関わるのは嫌になる。
こうして事実上天涯孤独の身になった俺は施設のお世話になると思っていた矢先、引き取ると名乗り出た人がいた。父さんの幼なじみである黒木夫妻だ。赤の他人であるにも関わらず夫妻は俺を引き取り、金銭の工面や葬式の手続きなど取り計らってくれた。もっとも妖し者である母さんが居たから、支部長として黒木香奈支部長は動いてくれたように思う。でなければ、葬儀に支部の資金など関与はしない。
その後、黒木さん達には中学に入るまで世話をしてもらうのだが、あの日から数か月は支部の二階を家として俺に貸してくれていた。
中学からは自主的に支部を出て、アパートに住み始めた。今でも食事やなにやら世話になっている。
あの日の直後は本当に何も思わず、ただぼんやりしていた。学校にも行かずぼうっとしていた。電気を点ける気力さえ起こらず暗い部屋の中、静かな部屋の音に耳を澄ませていた。そうしていると、あの日の音や風景が思い出されるような気がした。気が付くと、足元には赤色の水たまりが広がっていることもあった。そこに足を浸けると、まるであの日沈んだ赤色の湖に触れられる感覚が味わえる気がした。でも、沈もうとするといつも気を失っていた。俺には此処に居る資格はないと言われている気がして、心底落ち込んだもんだ。あの時は頭痛がひどくても、劈く耳鳴りがしても、それで失神したって構わなかった。
あの日一瞬にしてなくなったもの全てに、それでも会いたかったんだ。
「あなたは私のホマレ」
失神する一瞬の母さんのあの声がもっともっと聞きたくて堪らなかった。
赤色の湖の中差し出される幻の白い腕にそれでも触れたかった。冷たい、残酷な結末を何度見たっていい。寂しい。ずっと一人だと嫌でも分かって、辛い。
一方で、頭は冷静だった。
お世話になっている黒木夫妻から早く自立しなければならない。そのためには早く大人にならなければならない。早く、早く大人になれば母さんの言ったホマレの意味を分かるんじゃないかって、焦っていた。落ち着いて泣く暇なんかなかった。
甘えた現状をすぐにでも抜け出さなければ。
朝起きると子供の寂しいと大人にならなければならない焦る気持ちが一緒くたになって押し寄せ、どうしていいか分からなくなっていた。悩んで、悩んで、結局答えが出ずにまた茫然と明日に移る。まるで世界に置いて行かれたように、俺の中の時計は止まったままだった。
そんな俺の傍に居続けてくれた人がいた。
支部に居る間中ずっと世話をしてくれた、黒木翠だ。
翠は俺の部屋に来るとまず初めに部屋の電気を点け、窓を開けた。それから何も言わずに隣で本を読み続けた。
隣に居たこの子の姿はよく覚えている。何故かは分からないが翠の姿は高校に通う現在の姿とこの時の姿とさして変わらなかった。背や見た目、まるで翠の体だけ時間が止まっているように、一寸たりとも変わらなかった。
ある日、翠が突然に部屋に入って来て電気を点けた時があった。いつもと同じように点けたのは分かっていたが、電気を点ける寸前の母さんの幻聴を聞き逃してしまい「何でこんなことすんだ」と怒ったことがあった。
翠は平然と答えた。
「そう、約束したからです」と。
謝る気すら見せない翠に苛立ち俺は更に鬱陶しそうに「何で傍に来んだ」と言い放つと、俺の隣に座り、手に持っていた本を開き、優し気に微笑んだ。
「こうしたいと思ったからです」
やっぱり、もっと早く大人にならなければ。そう思ってしまった。
この時の翠の瞳は赤色とはまるで違う青色だったのに、澄んでいて綺麗だと感じた。赤色よりこっちの方が何倍も良かった。寂しい思いも、翠の瞳を見ていたら薄らいでた。ずっと翠の目を見ていたい。翠もじっと見ていた。だから、前に進みたいと思えた。
それから翠は手を差し出した。俺のちっぽけな手がすっぽりと翠の手に収まる。覆いかぶさった翠の手は白く、透き通っていた。
小さすぎる俺の体、少しだけ大きい翠の体。
まだ独り立ちするには幼過ぎて、惨めに思えた。
「こうしたいと思った人、きっと沢山いますよ」
翠が柔らかく俺の手を握り、大事そうに言葉を噛みしめた。
なあ。
***
次の駅にもうすぐ着くんじゃないかと言うところで、隣に座るシロが俺の顔を覗き込んできた。何故だかわからないが、顔を逸らせなかった。
「あんまり気を張っちゃだめよ」
そんなに緊張していたのだろうか。知らず知らずのうちに顔が強張らせていたのかもしれない。昨日会ったばかりの女の子の前だからだろうか。それとも知らない街並みの一面が車窓から覗き込んでいるからだろうか。それとも……
「健はね」
シロは俺が何故こんなにも固まっているのか分かっているように父さんの名を口にした。
「健が死んだのは、あなたを守るためでも、何でもないんだから、あなたはもっと怒っていいのよ。子供一人残して死ぬ父親なんだから」
父さんのあり得る可能性の一つ無責任に投げ、シロは何食わぬ顔で座席を立った。
俺が硬直して動けない中、電車は動き出す。
目の端に残るシロの赤色のワンピースが胸を焼け付かせていた。
あの色は、美しくとも何ともない。俺にとっては嫌なものを思い出させる、鬱陶しい、嫌悪する色だ。
赤色、赤…
そう言えばシロと同じようなことを言っていたあの人も赤色のワンピースだった気がする。
あの人は言った。「健と違って大人になれる」と。何故かその言葉がさっきのシロの言った「自業自得」と奇妙に噛みあっているように思える。
これではまるで父さんは俺を捨てて死んでいったみたいだ。
何故、シロはこんなにも嫌な言葉を差し向けるのだろうか。行動の端々はあんなに優しいのに、俺に言ってほしい言葉が返って来ない。「内緒」で通され、柔らかく微笑み返される。そう返されると全てを許してしまう。何故だか分からないが、シロにいきなり抱き着かれても、厳しいことを言われてもまるで幼なじみのように感じられて、憎めなくなってしまう。
それでも、シロの言葉は聞きたくなかったなあ。
***
支部に引きこもっていた部屋に侵略して来た奴がいた。
この日も突然だった。翠なんかは毎日出入りしていたのだが、この日は違っていた。
それは幼なじみの矛月と祐だった。二人は子供さながらの小回りで支部の二階に侵入し俺の部屋までやって来たらしかった。許可証もなく支部の二階にやって来るなんて支部の警備もなっていない。もしかしたら、知ってて警備は見逃したのかもしれない。
暗い部屋の中に入って来て、すぐに矛月は目に涙を浮かべた。
「暗い」
心配性の矛月は俺がいないことを余程心配していたのだろう。俺の顔を見てぼろぼろと涙を頬に伝わせていた。
「暗いよぉ」
現在はなき舌足らず交じりに矛月は再び告げる。
「矛月、心配していたよ。誉のこと」
既に大人びていた祐は困ったように眉先を曲げていた。
矛月は変わらないことに異様に固執していた。前のように一人に逆戻りすることが恐ろしくて、だから、俺がいないことは怖かっただろうし、あの日あのまま俺が姿を見せずにいたことは矛月の罪悪感も煽っただろう。
そう、こうして想像するだけしか出来ないのは、俺は俺がいなかった時期のことは詳しくは二人から聞いていないからだ。どれだけ二人の心に俺と言う人物が傷を負わせたか、想像するだけでも後ろめたさがあるのに、実際どうだったかなんて聞けるはずなかった。多分これからも一生聞けないままだ。
「ごめん」
口をついて出たのは後ろめたい気持ちが背中を押したのだ。
そして、翠の一言が心の奥底で響いた。
「こうしたいと思った人、沢山いますよ」
確かに、ここに居た。わざわざ心配して家まで尋ねて、何するかと思いきや泣いて、困った顔して、沢山はいなかったけれど、居たんだ。自分のことは大嫌いなのに人のことは大好きな二人が心の奥底から俺を心配している。感謝をしても、したりないぐらいだった。
翠の一言は俺の中で一点も曇りなく輝いていた。
何回も何回もその後謝った。ありがとうなんて気恥ずかしくて言えない。謝って、謝って、久しぶりに笑って見せた。
その後は、余り思い出したくない。
二人とともに、遊びに行こうと言う流れになって、支部を忍者さながらにそそくさと抜け出し、いつも遊ぶ森へと出かけた。
幼い時、まだまだ俺の体は祐よりも大きかった。クラスのガキ大将を蹴散らしたこともあった。反対に祐の体は痩せっぽちで、風が吹けば空に飛びそうな板切れ並みだ。今とは大違い。しかし一つだけ同じ点がある。幼なじみの関係性は全く変わらない。あの頃のままだ。二人の前で威張り散らしてでしゃばる俺に、臆病で厳しい矛月と、何故か大人みたく一歩引いてついて来る祐。変わらない、こんなことに何の価値があるのか分からないけれど、居心地は良かった。
それから、夕方まで遊びつくした訳だが、夕方近くになるとあることに気付いた。
足場に溜まっていたのだ。赤色の池が。夕日の赤と、あの日の赤が混ざり合っていた。鮮やかに足元を照らし広がっていく赤、アカ、あか?
もう既に幻の赤か夕日の赤色かの区別がつかなくなっていた。
慣れた頭の痛さが生み出されていく。
その時、赤色の中から白い手が伸びて来た。近くには矛月と祐がいるはずだった。だから、こんな赤色も、こんな母さんも、もう必要なかった。
もう、大丈夫。こんな手はいらない。
いらないんだ。
思い切って振り払った。
……はずだった。
手の感触がいつもより重かった。違和感を覚えて目を凝らして振り払った腕を辿る。そこには驚いて目を見開く矛月の姿があった。小さな矛月の手は震えていた。顔に滲むのは恐怖。そんな顔させたくはなかったのに。
だから焦って、俺は逃げ出してしまった。一人で帰ろうとした。
力強く地面を蹴り上げ帰っているはずなのに、赤い水で足が滑っているようで前へ進めない。
逃げて、帰ろうとしているのに、思い出されるのはあの日と同じことだ。
今日は、学校があった。
喧嘩した。
一人で、帰った。
状況が同じだ。
赤色の湖の深みにはまり足がもつれた。沈んでいく足に力が入らず、体が傾く。気づけば世界が反転していた。転んだ拍子に背中を打ったのか腰が痛む。腕はいくつも擦り、ひりひりと焼け付く。本物の赤が傷口から浮き上がり、流れ滴る。
うぅ…
呻くと途端に頭痛と耳鳴りが一斉に襲ってきた。
赤だ。コワイ。
無意識に脳が恐怖している。
大丈夫か?そんな訳なかった。状況さえそろえば、いつだってフラッシュバックしているのだから、受け入れるなんて出来やしない。心の奥底に居る自分がそう言い聞かせている。
意識がいつもなら飛んでいたが、この時は全くそんなことはなかった。自由に体が動かせなくなっていくのに、鮮明に目の前で起こっていることが見えた。
矛月が近づいて来て俺の名前を呼ぶ。悲痛な叫び声が聞こえないのに、矛月の顔で必死さが伝わってきた。遅れて後ろから来た祐が俺を背負った。その細い体で、祐の倍はある俺の体を背負う力があったのかと驚くほど、力強く、背中は大きかった。
こんなつもりじゃなかった。
迷惑をかけて心配させるつもりなんてなかったのに。
最後に見た母さんのように体が動かない。背負われた俺の目には祐の足元が赤色で染まっているのが見えた。矛月と祐が歩くたびに赤色の水たまりは波立ち、どこかに連れて行こうとしてまとわりついて来る。
恐ろしかった。
もしかしたらこの赤は矛月や祐をあちら側に連れて行ってしまうかもしれない。もしかしたら、あの日の光景がこの二人に降りかかるかもしれない。
矛月の泣き叫ぶ表情が目に浮かぶ。
結局、この日に俺が幻覚を見ていることや、それによって意識を奪われてしまうことが黒木さんにバレてしまった。
後にこの症状は“PTSD”つまりは“心的外傷ストレス障害”と言う病名だと知った。




