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PLANT-プラント-  作者: 千羽稲穂
第一章『青春と葛藤と恋愛と…』
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第三話「誉(1)」

 父さんはどんな人だったと尋ねると、十中八九こう返された。「変な人だった」と。


 父さんの武勇伝は一般の人よりも何倍も飛びぬけていたし、笑えもした。何倍も愛おしかった。話を聞く時はまるで一種の伝説をこの目で見ているかのようでもあった。しかし、そんな人と一緒に居られるかと聞かれれば、気が引け、即座には答えられなかった。それほど身近に居られるとなると、迷惑極まりない行為の数々を父さんはやっていた。母さんはよくそんな人と結婚できたなと思うほどだ。ただ父さんは誰かを引っ張る力はあったようで、率先して役は買って出ていたから、そう言うところに母さんは惚れたのかもしれない。


 武勇伝と言えば、父さんが母さんにプロポーズした時の武勇伝はまだ聞けていなかった。この話は誰に聞いても苦笑いで返されていた。きっと飛び切りの話だろう。今度、父さんの幼なじみである黒木夫妻に聞いてみるのもありかもしれない。


 こうして聞いているときは、楽しいのだけれど、その後、俺が父さんの息子だと名乗ると、物珍しそうに皆一様にこう返すのだ。「お母さん似だね」と。それが胸を締め付けてならなかった。ちくちくと心が痛んだ。


 俺は、母さんにはなれても、結局は父さんにはなれないんだ。


 そう思うと一体誰の誉になればいいのだろうかと、再び問い詰めてしまう。


 まるでイタチごっこのように何も答えは出てこない。

 今日もそうなのかもしれない。明日も、明々後日も、問い詰めても出てこない答えと父さんの武勇伝の間でもがき苦しむのだろう。


 答えがほしい。


 答えを探し、足を向けた先は両親の墓だった。


 今日はその両親の命日だ。


 墓は電車を乗り継ぎようやく辿りつける場所にあった。


 毎年変わらず足を向ける。変わらずこうすることにしている。その方が安心した。

 安心なんて、答えを生み出すには最も遠い感情だと知っていたのに。


 静かな電車内の目に入った席を適当に選び、座る。

 人は疎らで、線路を走る電車の車輪が軋む音が響いた。車窓から見える景色は昔と変わらずそこにあった。森林、街、廃屋、神社、学校、友達。過去から現在に至る全てが目に映る。何一つ変わっていないんだ。


 あの日から変わっていない自分の無力さが、変わらないことにしている自分の姿が映る車窓を見るのが嫌で瞼を閉じた。


 もう暫く電車に揺られるだろう。



♠♠♠



 幼い頃の矛月がスカートから大きな獣の尾を覗かせていた。頭には犬のような耳が垂直に立ち、黄金色の澄み切った瞳には涙を浮かべていた。次の瞬間、涙は大きな一粒の雫となり頬を伝った。尻尾の毛は怒りで逆立ち、口はへの字に曲がっている。


 小さい頃の矛月は何に対しても素直に顔に現れた。怒る時は怒って、泣く時は俺と祐の傍で泣いた。そうすると、慣れたように俺達は矛月を宥めて、泣き止んだらまたいつものように遊んだ。


 いつからか矛月は人前で泣くのを止めたが、この頃はまだ俺達にはその弱さを見せていた。当時の矛月のそれは何よりも俺達に信頼を寄せていることを指していた。


 懐かしい。

 この日は俺と、祐と、矛月が喧嘩をした日だった。お互いの言い分は引かず、引けず、膠着状態になっていた。祐がまだ矛月のことをそんなに好きじゃなかった時で、矛月を擁護せず、第三勢力として台頭し、三つ巴の喧嘩に結果至ってしまった喧嘩だった。こうして喧嘩することは然程珍しくはなかった。喧嘩別れして、帰ったって次の日にはケロッとしてまた遊んでいたこともあった。昨日のことなどなかったように遊べたんだ。


 この日もそうなるだろうと思って、三人バラバラで帰った。


 小学校の放課後。一人で帰る道は寂しさに満ちていて、やけに涼しい風が吹いていた。春先で温かいはずが身震い一つしてしまって、後ろや隣に二人が居ないことを何度も確認した。忽然と二人は消えてしまったように感じた。


 何で喧嘩をしてしまったのだろうか。

 もう忘れた。


 家の玄関に入ると、鉄の匂いが鼻についた。鉄の塊が家に敷き詰められていると思う程刺激が強く、鼻につんと来る匂いだった。

 その匂いでささいな喧嘩など一瞬にして頭の中から消えてしまっていた。


 「ただいま」小さな声を出すが、その声は恐怖で震えていた。


 これまでに嗅いだことのない押し寄せる強烈な匂いで、何か異常なことが家で起こっているのだと分かった。玄関から中へ入ってはいけない。此処に留まらず、誰かを呼び、助けを請うほうがいい。分かっていたはずなのに、中が気がかりでならなかった。母さんは家に居たはずだ。父さんの靴が玄関に置いてある。父さんは帰ってきているはずだ。なら、二人は無事なのだろうか、と二人が居なくなることに恐怖を覚え、感情のままに足を家の中へと進めたんだ。


 興味と、恐怖が入り混じる不思議な感覚が床を踏みしめた。


 思うように動かない足はゆっくりしか動かなかった。足を必死に動かし前へ進めると、片足に冷たいものを感じた。ふと下を向いてみると、冷たい何かはさらさらした液体で、赤黒く染まっていた。この赤は電気が灯っていない廊下に点々と道を示すように記されたいた。


 暗がりなのは何故か、気にしていなかった。


 あの匂いでさえ、廊下を歩いていると慣れてしまっていた。


 おかしい、そんな思いさえしるしを辿っていくにつれ失せてしまっていた。


 先へ進むと、どんどん赤い色が鮮やかになって広がっていった。


 続くはキッチン。キッチンの周りは妖艶に光る赤い色の水たまりで浸されていた。光る赤色で見るもの全ては覆いつくされていった。足が水に捕らわれていく。分かった時には既に足を止めることさえ出来なかった。


 もう戻れない。

 止まらない。

 知りたくない。


 水たまりの中心に向かい、不安を糧に心が焦る。



「誉」



 辿り着いてしまった。


 母さんの声が耳に響く。



 そこには赤まみれの父さんの体を抱いた母さんがそこに座っていた。母さんの瞳は金色に光ってはいたが、どこか陰っていた。傍らには周囲の赤よりも濃い赤を纏った包丁が転がっている。母さんの姿が赤々しくて見えない。抱かれた父さんは眠っているように目を固く閉じきっている。


 そうなんだ、と悲痛な声が出そうだったが喉に押し留まる。衝撃的な光景に息を止めてしまっていた。



「ごめんね」

 と、母さんが赤色の口で告げると、涙が噴き出した。




 もう、会えないんだ。





 助けての一言も、もう無意味なことを悟ってしまった。死なないで、なんて言えない。もう、理解してしまったから。もう、手遅れだと、頷いてしまったから。もう、受け入れてしまったから。


 それから母さんはそっと手を伸ばす。右手で父さんを抱き、左手で俺がどこにいるかを探しているように腕を振る。赤い世界の中で母さんの腕は陶器のように白く、淡く光っているように思えた。透明で白いその手を掴もうと俺も手を伸ばした。母さんの指先が手の甲に当たる。すぐに手を力強く握り返した。母さんの腕は震えていた。冷たい手だった。いつものような温かさはもうそこにはない。


「そこに居るのね」


 母さんの表情は硬かった。微笑みかけようとしたのだろうけど、上手く笑えず目だけ細めた。冷ややかな手は握った手からするりと離れ、俺の髪を柔らかく撫でた。


「誉って名前、私が決めたの。あなたが……生まれた時、それからずっと、今のこの瞬間まで、私達の“誉”だった、から」


 母さんの手が途端に石のように固まり、次の瞬間力なく赤色の中へ落ちていった。赤色の飛沫が頬へ、服へ散った。頬の赤色は刻み込むように伝っていく。


「ねぇ。誉」


 白い手が赤色の中に飲まれていく。



「誉は、私達の誉なんだから、これから先もずっと、私の誉で……あり、続け、て……ね」



 それから母さんは一言も話さなくなった。金色に濁った瞳だけがただ茫然と見開かれ続けていた。瞳は誰のことも、既に映されていなかった。何も物言わぬ人形かと思うぐらい、母さんはただそこにうな垂れているだけだった。


 もう、ここには誰もいない。

 もう、ここには、赤い色しかない。

 吸い込まれそうな赤は母さんと父さんだけでなく、俺のことも引きずり込むように思えた。



 恐い。



 誰も助けてくれる人がいないこの場から逃げ出したいのに、赤に足がとられていて、逃げられない。足が竦んだ。



 赤が、血の赤が怖い。



 思うと体が動かなくなり、床に体を突っ伏していた。



 体が赤に飲まれていく。



 目の前のことから逃げるようにして、目をぎゅっと瞑った。







 夢だとは思うが、俺はこの時、変な風景を見た。


 白い砂浜に俺は立っていて、赤い色の海が先に広がっていた。赤い海の浅瀬には母さん、父さんの姿が見受けられた。二人は砂浜の俺のことなど気にせず、どんどん深い赤色の海へ歩みを進めるのだ。俺は砂浜から見ているだけだった。その夢の父さんの顔が今も忘れられない。あの夢の父さんは心底嬉しそうの笑っていたのだ。まるでこの日を待ち望んだかのように弾けんばかりの笑顔を母さんに向けて、海へ進む。ずっと彼らの後ろ姿を見続け、最後には見えなくなった。


 俺はきっと、父さんのこの笑顔が嫌いだったんだ。


 二人が居なくなった後の俺のことを何も気にしていない、むしろ母さんと死を望んだあの人の笑顔が嫌で堪らなかったのだ。







 あの日には後日談があった。


 あの母さんの言葉だ。


 あの日、妖し者になり暴走の末、父さんを殺した母さんは、俺が来たとき意識を取り戻し、言葉を残した。だが、母さんの瞳は金色のまま。周囲のモノ・ヒトを破壊し尽くし、力尽きるまで暴走し続ける妖し者のままだった。その状態のまま意識を取り戻すなど前例がなかった。つまり、あの言葉は、ありえない状態の言葉だった。母さんは他と違っていた。あの母さんは果たして本当の母さんだったのか、そんなことすら危うかったのだ。


 しかし、俺は母さんを、母さんのあの言葉を、信じている。意識が混濁する中、力ずくで意識を取り戻し、死ぬ気で大切な言葉を言おうとしたのだ。それを信じないなんて俺には出来なかった。例えあの言葉が俺の人生を決めてしまう言葉で、呪いの言葉だとしても、決して忘れることは出来なかった。

 否定されたくはなかった。


 だから、あの日のことは誰にも言っていない。


 俺だけの秘密だ。



 ***



 電車のドアが開く。

 知らない間に眠ってしまったことに気付き、目を薄く開いた。

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