プロローグ:いち
長い長いお話になると思います。
どうぞ最後までお付き合いください!
朝、飛び起きた。
傍らにある時計は起きようとした時間の二時間後を示していて、冷たく透明な粒が俺のこめかみから伝った。
「やっべぇ。遅刻だ」
部屋の脱ぎ散らかした服を飛び越えて、今日着る予定だった祭服を探す。今日のために用意していたはずなのに、どこにあるかさっぱり忘れていた。部屋を片付けておけばよかった。
服の場所を確認していただけだから、凄く後悔している。遅刻しているのにこのざまだ。後悔も一層強くなる。
去年はこんなことなかったのに。いや、そうだったかもしれないが、今日みたいに遅刻していない。祭りにおける俺の役を考えて意識すればこんなことにはならない。
もしかしたら祭りのあの視線を意識し過ぎて逆に服まで意識が向いてなかったのかもしれない。俺はそれほどまでにこの祭りが嫌いなのか。
……そんなことねぇって。
まずは、昨日の夜の行動を思い出そう。
あの子が持ってきたおすそわけしてもらったご飯食べて、冷蔵庫に向かって、ご飯の残りを冷蔵庫にしまって、貸してもらった本を適当に部屋に放り投げて、あの後ため込んでいた洗濯物を洗おうとしてめんどくなってまた適当に放っておいて。
思い出した。洗濯物の下におきっぱになってたはずだ。
俺は部屋の洗濯物を六畳一間のアパートの部屋の中すぐさま探した。ぽいぽいと服を放り投げてようやく見つかると心の中で安堵の溜息を洩らした。
そんな暇じゃない。
数秒で、祭服に着替えて身だしなみを整える。人前に出るのを考えて、自分の濃い茶色の髪もセットした。でも寝癖はなかなか治らない。横に跳ねた一本の髪は放置することにした。とりあえず携帯をチェックして、鍵を持って、財布と魔法石を懐にしまい、下駄をはいて、家を飛び出した。
いやいや、鍵を忘れちゃなんねぇってことでドアを数歩出たところでまた家に帰って、鍵を閉める。くるっとノブを回し、しっかり閉まっていることを確認。
頷いて、誰にともなしに口の中で、
「いってきます」
つぶやいた。
――昔々、あるところに一人の魔女がいました。
いろとりどりの髪をした人とすれ違う。
俺の髪は濃い茶髪だ。この世界は、いや俺の住むこの国は多種多様の髪をしたやつがいる。中には珍しく金色の髪とか、青色の目とかしたやつとか、でも基本は黒髪に黒い目。
俺の父親と母親は黒髪。俺は茶髪で、しかも濃い。まあ、そんなことも珍しくない。
今日は春祭りの日だからか、俺が住む町には大勢の人が押し寄せている。俺の祭用の派手な服は、その他大勢の人々のおかげで紛れる。
すれ違うは、浴衣が来ているカップルに、子供と一緒に祭りを回っている親子、それに友達とつるんで来ているガキとか。
ここ数年、確かこの街の市長さんが、ここの街の市長さんになってからというもの浴衣を着て他県からくるやつらをよく見る。
俺の住むアパートから目的地までは大通りが通っている。そこで人ごみを身軽によけ「失礼します」「通ります」「すみません」と言って、走る。
たくさんの人たちで埋もれた商店街に沿う大通りはいつもとは違う活気があった。
商店街が担っている屋台がずらりと並ぶ。香りはおいしそうな匂い。俺の腹に攻撃を与える。途端にお腹から、ベルトで背中とお腹がくっつくまでしぼった音が小さく鳴り響く。
ぼんぼりが俺の目的地へと続いている。アスファルトの道路がもうじき日暮れになる世界の中でぽっかりと空いた黒い道に見えた。踏み出すと足が穴に吸い込まれそうになる。
と、思えば目の前の人にぶつかる。
俺は後ろによろけて、尻餅をつく。当たった拍子に鼻が顔に埋もれそうになる。痛くて、先ほどまでの腹を空かせる匂いがどこかに飛んだ。腹の音も鳴りやむ。
「大丈夫?」
見上げれば、小麦色の肌をした女性が心配そうに俺を見下げていた。快活そうなショートカットの髪が揺れる。手を俺に差し出した。隣にはほそっこい青い男。ぼんぼりが彼を照らし肌が黄色に照らされている。温かみのある笑みを宿し男女は俺に向け微笑んでいた。
なぜか心が何かでいっぱいになった。胸に痛みを感じて、奥歯を噛みしめた。たまらない痛みを心の奥の奥に押し込んで立ち上がる。ずきずきとした何かがまだ蔓延るが、今まで通りしてきたように微笑んだ。そうしないといけない気がした。
俺はまだ引きづっていて、まだあの人になりきれていないもどかしさがあって、それが俺の焦燥感を募らせる。焦りが笑顔を引きつらせて、余計男女の顔を引きつらせる。
立ち上がり、大丈夫です、と告げると俺はまた走り出した。
まだ足がもつれる。まだアスファルトの黒が俺の足にまとわりつく。大きな黒い穴が俺の足を止めさせようと試みているようだ。気にしないようにして、俺は足を取られぬよう必死で人込みをぬい走り続けた。
仮面、綿あめ、りんごあめ、たこやき、ベビーカステラ。たくさんの記号を抱えた看板を通り過ぎ、人が少ない場所へとぼんぼりを頼りに走る。
今日は春祭りの日だ。今日は宵宮だ。今日は俺が大取りの見世物が控えている。大きなものが控えている。大きなものが俺の背中に乗っかってくる。
夕日が目の先で沈んでいくのが見える。山に囲まれたこの街で一番大きな祭りが開かれている。
道路わきにある小さな雑草に俺は少しだけ不信感を募らせつつ、走りつづけた。
――魔女は街の人々と毎日楽しく過ごしていました。毎日毎日、それはもう楽しく過ごしていました。
ぼんぼりは街の北東側に広がる空き家のエリアに繋がっていた。家々が不気味に建ち並ぶ。この空き家のエリアは先ほどの大通りから駅の線路を隔てた場所にあり人の気配がない。ここのエリアが空き家なのは、まあ、俺も知らないけどある事件が昔あったとかないとか。
とりあえず、原因は『PLANT』だと思う。
『PLANT』、それは人を襲う植物のことだ。やつらは生きているものを対象に何でも襲うが、その中の人間にとりわけ反応を示す。目の前に小動物が通ったとしても、その横を通る俺達を見た瞬間やつらはすぐにこちらに方向を転換させ、襲いに来る。人間の被害は数知れず。その中身も多種多様。
俺の知り合いが言うには、
「いろんなやつがいたんだよ。何がって? まずはこういう細い木。そいつは倒木で、もう動かないと思ってたんだけどよぉ。突然動いて、細い木の枝から鋭い枝を伸ばして、人を突き刺したんだ。まだある。道端に咲いていた青い花」
オオイヌノコロビだ。オオイヌノフグリと言う花を先祖に持つ、夜になると時折淡く光る青い花だ。
「そいつはよぉ、通り掛けの人に体を寄せて、ちまちま血を吸ってたんだ。そのせいで街のやつらは貧血の原因が分からなくて困ってたなあ。見つけて殺すのも手こずった」
と、まあ、なんともびっくり恐怖体験なことがこの世界ではわりと頻繁に、いやそれほどでもない確率で起きている。
そう考えると、案外怖いことが日常的に起きてんだなあと思うが、そんなに恐怖は感じていない。いつもどおり街は植物の発生を抑えるため、雑草やらを抜く花屋さんがいたり、そういったPLANTを退治する専門家、魔法使いがいたりするから案外俺も気ままに生活している。
気ままに出来ている、と思いたい。俺は。
PLANTに退治するこの魔法使い、実は俺達の国、極東の島国だけいるだなんて最近知った。
魔法使い、俺にとってはそんなに稀有な職業でもない。なるのは難しいが。PLANTに対する国の方策だ。魔法を専門的に扱う者達の組織。第二次PLANT殲滅戦後、国が建てた対抗策。俺達の国の最後の手立て。
普通の武器よりも魔法の方が効率いいし、倒すのも手っ取り早い。PLANTを倒すのもコツがいる。なら、魔法に頼ってその専門をたてて宛がうのも、理解が容易い。
でもって、俺達の街には田舎ながらもその支部が存在する。意外だが、俺の街はPLANTの発生率が他より高い。だから、俺の街にPLANT対策支部が存在するのだ。
祭り以外人がたちよらないわりに、PLANTは惹きつけられるってどういうことかいまいちわからない。しかし多いのだから支部が建つし、必然的にそこに腕利きの魔法使いが集まるのも仕方ない。事実俺の町の支部はそれなりに魔法使いの猛者が多い。
空き家はぼんぼりに照らされて、不気味さを引き立たせる。誰も住んでおらず、きちんと整備もされていない景観から、ノスタルジーを香らせる。灰色に続く歩道の先には一際輝く建物があった。この廃屋の主人のように君臨しているPLANT支部だ。
外見は真四角。一階はガラス張りになっている。そこから灯りが漏れ出ており、周りと違い人工的な眩しさで満たされている。その支部の一番目を引くのは、支部を貫く大きな木だ。四角い頭から木の頭が突き出ており、初めて見た者はぎょっとするだろう。だがこの木は襲いもしない意志のない植物だ。安全だと確認が取れているのでこういう設計にしているだけだと聞いた。悪趣味ではある。
支部の隣に併設されているのは警察署。この街の警察署だ。隣町の警察署よりこちらの方が大きいが、俺の街は何せよ祭り以外人が寄り付かない街だ。隣町の都会に比べれば、こちらの警察署は人気がなく暇そうに見えるし、動いていないように思える。
俺はその二つの施設の前に駆け寄る。
支部前は空き家が並ぶエリアだとは思えないほど賑わっていた。青色の法被を着た男達や、軽装の見かけない者達も居た。俗にいうお祭り好きだろうか。
支部の前には、祭りの大取を担う山車が構えていた。PLANT支部で預かっていた山車は、俺が乗る大取の山車のほかに九基ある。上にはからくり人形が乗っていて、ぎこちなく動く。今は試運転されているみたいだ。俺の乗る山車は上にからくりはなく、台座だけが鎮座している。今日はそこに俺が乗って、先ほどの屋台が並んでいた大通りを抜け、北西にある靖神社へと運ばれる。九基の山車には供物を、俺の山車には生贄を。それが昔の風習として残っている。
俺の一族は代々この山車に乗っていた。生贄役として神社に運ばれて一夜を過ごす。そのための春祭りだった。春を呼び込む祭り。俺たちより上の位の人に怒りを鎮めて、春を呼び込むことを許す祭り。
何もかもいかがわしい言い伝えの祭りだった。
俺は遅刻して来たことをうやむやにしようと走ってきた後、人込みに紛れた。さすがに生贄役の祭服でばれるのではとは思っていたけど、幸いなぜか軽装のやつや法被を着た奴が未だ山車を出さずに待っている状態だったので、なんとか怒られず切り抜けられそうだと見積もった。
そう言えば、今日はなぜまだ一台も山車が出ていないのだろうか。俺の山車は最後に出発するから、ともかくとして他の山車はもう出ていいころあいだ。それなのに、今日はまだここに山車がある。
俺はふらふらと歩き、俺の山車の前に居る比較的若い男に尋ねることにした。男の額には、山車が出発しない焦りからかびっしょりと汗が噴き出し巻かれたハチマキが濡れていた。
「すみません。山車って何で出発してないんですか」
ああ、君かと一息置き、若い、と言っても俺よりは年上な男は答えた。
「黒木支部長だよ。ここの支部長が視たんだ」
視た、の一言でかなり察してしまった。
そうか、今日出るのだ。あの俺が恐れているか、恐れていないか、分からないものが。俺は心して、でも大丈夫、とどこかで投げやりな感情で開き直った。
と、その時懐にしまわれた携帯電話が小刻みに振動した。
ああ、ばれてしまったのか? と恐る恐る携帯を取り出して見て、二つ折りになった携帯を開ける。画面に示された名前を見て、心臓に百トンぐらいの重りが乗せられた。開けたくない、聞きたくない、が電話に出なければきっとこの百トンが数十倍はもたれかかる。出る方が先決だと分かっていても、躊躇わずにはいられない。
目の前でにやにやと、俺の方を先ほど尋ねた若い男が見ている。その笑みが憎らしい。ぐっと堪えて、電話に出た。
途端に不機嫌な声が、後ろと携帯越しにと俺の耳に伝う。
――魔女はある時、気づきました。自身には他の人とは違う力が備わっていることに。その力を魔女は人々の役に立てようとしました。
「誉」
不機嫌な声が響き渡る。
俺の声じゃない。女性の声。しかも大分年上。お世話になっている、年上の大人。
俺は怖々と振り返り、その人を見る。
長い黒髪を一つにくくり、不愛想に俺の方を見ている。いつにもまして目つきが鋭いし、声が怖い。突き刺さる。耳に痛い。
「鳥羽誉」
何でフルネームなんだ。この人は。
「えっと……黒木支部長。これには訳があって……」と俺は言い訳を頭の中で考える。
いやいや言い逃れが出来ないのは分かっているがしてしまうのだ。しないと、この声から逃れられない。
早く思いつけ、俺の思考。
ずかずかと俺の元へ来て、街のPLANT対策支部、支部長黒木香奈が口を開く。その目に映った視たものがちらりと気になったが、それよりも俺の言い逃れに思考が全振りされた。
「誉、遅れるならメールか電話をしなさい。何かあったんじゃないかって心配になるじゃない」
「えっと……」
「あと、遅刻して来たのなら謝りなさい」
成すすべなく、俺は頭の中で敗れ去った。俯き、足元の小さな雑草を見やる。雑草の先っぽが萎れている。今こいつみたいな気持ちだ。
「誉、聞いてる? 今年から高校生でしょ? ちゃんとしなきゃ」
うわぁ。嫌だ。そもそも、この支部長は他人にお小言が多い。母親のように接してくる。俺は違うのに。確かに母親と年齢は近いが、まだこの人も三十路。俺の母親と十近く違う。
お小言は続く。
「それに男の子なんだから時間もきっちり守る。モテないのは嫌でしょ」
ここまで指摘されて、俺は頭の中に電を走らせた。苛立たしさと黒木支部長に対する苦手意識が爆発する。
「モテるモテねぇは関係ねぇだろ。そっちだって、山車が出せないのはあんたが視たからだろ?」
「視っ……」
そしたら黒木支部長はひどく傷ついた顔をした。
――しかし、人々は魔女の力を見ると、恐れ慄き、魔女から遠ざかりました。
視たのは、PLANTだ。動く植物。それに対処するため、黒木支部長は魔法使いを動かしていたのだろう。支部前にうろついている軽装のやつは魔法使いだ。ここの支部の奴らは出払っているから、隣町まで出かけて、魔法使いを募ったのだろう。だから俺の知らない魔法使いがいるんだ。
黒木支部長の瞳がきらりと輝いたように見えた。
この瞳には未来が視えている。そこに映された未来は、何が起こるのかが映される。魔法使いの中でも、特別とされる力だ。俺のちっぽけな力とはまるで違う、はっきりとした明確な大きい力で妬ましい力だ。
暫く二人の間で沈黙して、俺はひどくもどかしくなった。感情が上手く動かなくって、黒木支部長だって好きで未来を視ているんじゃないって知っているのに、それなのにあたってしまったことへ謝罪したくて、でもできなくて、口先まで出かかった言葉が引っ込んだ。舌が上手く回らない。
「誉、ごめんね」
黒木さんが先に沈黙を破った。その弱弱しさに俺の感情の機微が受け止められたと分かって悲しくなる。酷いことを言ったのは俺なのに。俺は何も言えなかった。
歯を強く噛む。
「これも仕事なの」
「別に」とどうでも良さそうに反応してしまう。「俺も悪かった」
「そう、ね」
すると、黒木さんは俺の頭を優しくなでた。その手は温もりがこもっていて、懐かしくなる。
「寝癖になってる」
黒木さんの目を見ると誰かの姿が俺の姿と被っているように見えた。俺が羨んで、恨んでならない人がそこに居るように思えてならなかった。すると焦りと、悲しみとやるせなさが噴き出した。俺が此処に居ていいのか、考え込んだ。
黒木さんの身長はまだ追い越せない。俺は男子の平均よりも低くて嫌になる。それに黒木さんの子ども扱いは、屈辱的な気持ちをもたらせられる。
黒木さんは俺の心情を探る。
「もし今日の日が嫌なら、山車に乗るのはあなたじゃなくてもいいのよ? 私の夫、市長さんに掛け合ってもいいから」
くすくすと黒木さんは、寝癖を何度も直そうとするが、なかなかに取れない。
この人が、この街のPLANT対策支部長、黒木香奈さん。未来が視える目を持つ人。昔っから変わらない関係性と距離が黒木香奈さんと俺の間にある。
「そろそろ魔法使いの配置も終わるころあいだから、山車に乗ってていいわよ」
背中を押される。
それに後押されて、俺は山車を見上げた。山車は古びた木に派手な朱色が施されていて、きらびやかだ。こういうのって趣深いというのだろうか。壮大に佇む長方形の屋根付きの箱。箱の中に奉られるように生贄役は此処に置かれる。派手な金色の装飾が施された白装束の祭服に、血が通ったこの身で。
悪しき風習が行われるようになったきっかけって、本当のところ何だったのだろうか。
「上に、あの子がいるからね」
黒木さんがいたずらっぽく笑みを浮かべて、指を上にさしたのが視界の端に見えた。
あの子。
あの子、と言うと黒木さんが言うところの、娘。黒木さんの娘と言えば、あの子。そうあの子だ。いつもお世話になっているあの子。あの子、あの子。
胸が高鳴り、すぐに魔法石を取り出した。
――魔女は孤独になりました。魔女は人間を恨みました。魔女は……
魔法を使うには、媒介するものがいる。それがこの魔法石だ。この石を持てば、自然と使い方を理解できる。力を込め、頭の中に作りたいものを描く。そうして、ある程度組み立てれば、目の前に透明だったものが突如として現れたかのように作りたいものが出来上がる。
俺は魔法で作るのが得意だ。魂が体から消えるように、光がつくように瞬時に空間に物を作ることが出来る。表すことが出来る。
山車の前に土の階段を作るなんてお手の物だ。
手に持った魔法石は発光する。魔法を作る際に生じる俺の魔法石の発光色は青色と金色。交わることなく手の中でスポットライトさながらに光をまき散らす。手の中の魔法石はスーパーで売っている安物で、そのへんの石と変わらない黒い凹凸があるものだ。
俺は自身が作った階段を猛スピードで駆け上がる。俺が上がり切った途端、作った物は、端から花火の一つ一つの粒が吹き上がり、脆く崩れて消えていく。山車の上まで着くと、もう既に階段はなくなっていた。
山車の台座の横には、藍色の下地に金色の線が引かれた花火の浴衣に薄ピンクの帯を巻いた少女が座っていた。ストレートの髪は、今は横に流されていて、白いうなじが出ている。柔肌には長い睫。瞳は深い青色。透き通ったビーズのような相貌をしていた。大人びた雰囲気に酔ってしまいそうになる。
何も言わず、そっけなく俺は台座に座る。少女の隣。甘酸っぱい炭酸飲料の匂いが彼女から香る。弾けて飛びそうになる思考をしっかりつなぎとめて、台座の横にある少女の手に目をやる。俺の手が届きそうなところにある。
「こんばんは、鳥羽さん」
少女は徐に俺に鼻筋が通った顔を向ける。とくん、と胸がまた高鳴る。
「翠も、こんばんわ」
少女、翠の所作は動かず、ゆっくりと時間が流れる。
「こ、此処でなにしてんだ?」俺は胸の音をかき消すように、告げる。
「何も?」
彼女の手に、俺は手を近づけさせる。何センチだろうか。ちみちみと手を這わせて、指先でも触れられたらいいなと淡い期待を手にかける。指先を伸ばす、そこそこいい位置だ。もうちょっとだけ、そしたら事故に見せかけて当たるのではないか。
なんて考えている。だが、いいよな。ちょっとだけなら。もう今年から高校生だ。昔よりも身長も高くなって、翠を追い越した。そろそろ翠は俺を大人に見てくれるんじゃないか。
と、小指が彼女の親指に触れようとしたその時、翠の手は上げられた。
「あ、忘れていました」
うっかりしてました、と言っている彼女は無表情なのに、ほがらかな雰囲気が滲み出ている。花がぽんっと空中に投げられたみたいだ。
「これ、渡そうと思っていて待っていたんです」
翠の顔が近くなる。目と鼻の先には彼女の青く澄んだ瞳。白い肌が一層彼女の青い瞳を際立たせる。整った顔つきはこの国のものとは違っている。
手にはキツネの面。
「黒木さん、黒木ハチさん、市長さんの方なのですが、仮面を渡すのを忘れていたそうなので、渡すように約束したんです」
「あ、ああ」
心音がでかい。伝わっていたら、恥ずかしくて、すぐさま離れてしまう。その様を見て、黒木翠は無表情を顔に張り付けたまま、目を細める。
「『約束』……忘れちゃいけないですよね」
彼女の『約束』の言葉がしっかりと耳に伝わる。
彼女は約束を違えたことはない。何よりも約束を大切にしている。なによりも。なによりも。
俺はぼうっと昔の翠との約束を思い出し、彼女を見つめる。彼女は、訝し気に俺の顔を見つめて、狐の仮面を被らせた。被せられた仮面から俺は翠の顔を覗く。翠は嘘くさく口角を上げて、笑みを作っていた。俺の頬が自然と緩む。
「そう言えば、私、鳥羽さんと同じく春から一緒の高校に通うことになりました。その時はまたよろしくおねがいしますね」
その言葉が頭に染み渡るまで暫くかかった。
「では、今日一日頑張ってください」
山車の中の梯子から、翠が下りていく。
言葉が理解できるまで数秒かかり、はっと反応した時には思考が収まらなかった。
えっ……!? どういうことだ。翠も同じ高校? そんなこと聞いていない。少なくとも、黒木さんからは何も……
振り向いて翠を見ようとするも、もう翠はいなくて、溜息が漏れ出た。
まあ、一緒に通えるなら光栄じゃないか。
山車から見える空はどこまでも暗くて、一番星も見えない。山車の下のぼんぼりが明るすぎたのかもしれない。
――魔女はある日……
山車が運ばれ、神社に辿り着いた後、俺は神社の中に奉納された。
そこで今日は夜を明かす
……はずだった。
宵宮が終わった後、人が誰もいない俺がいる社の扉を、誰かが開けるまでは。
――魔女はある日、鳥のような羽が背中からはえた少女と出会いました。
扉が、雑に開けられる。
そこには会ったこともない少女が立っていた。