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傀儡の手綱

作者: 吉水ガリ
掲載日:2016/09/21

 ハカモリの特徴といえば、やはり土色をしたその体だろう。

 見た目には生前の動物そのままなのに、色だけはその限りでない。つやつやと光沢さえ放って雨も弾くあの体は、生きた動物とかけ離れている。実体を持った幽霊だとか清潔なゾンビだとか、冗談交じりにそんなことを言う人もいるが、一言で済ませてしまえばあれは土人形である。

 動物の亡骸を媒介に生まれた、土人形。それがハカモリだ。




 昼をとうに過ぎ、甘党の僕にとっては菓子でもつまみたくなる時刻。大学での授業を終え、僕は早々と家路についていた。地方都市の少し外れにある地方私立大から、そこから少しばかり離れたこれまた外れに位置する老朽化したアパートまでの道のり。太陽光に照らされて焼けるように暑いその道のりを、じんわりと汗が滲むのを感じながらただ歩いていた。

 空を仰げば、燦々と輝く太陽が僕を見下ろす。夏の日差しの眩しさは、もう少年とは言えない僕みたいな人間には直視できなかった。視線は、避けるように地面に落ちる。

 顔を俯かせながら、ただ家路を急ぐ。太陽から逃れた僕の視線は、車道の方へと移った。片側一車線しかないが、なかなか交通量は多い。僕の進行方向とは反対へずっと進めば大きな県道にぶつかるし、そう遠くない位置に繁華街が存在しているからだ。

 足を動かしたまま、この陽気には不釣り合いな陰鬱な目で車道を眺める。その目的は別に車を見ることではない。男らしさとは縁遠くて車の違いなんてものも碌にわからない僕には、目の前を過ぎる車たちの判別なんてできやしない。

 車たちが吹かしてくれる排気ガスの混じった重たい風を全身に浴びて、僕は心地良さとは正反対の感情を抱く。そうやって眉間に皺を寄せながらも、顔をそむけることはなく視線は車道に向けたままだ。

 そうしているうち、僕は目当てのものを見つけた。

「……いた」

 思わず声が出る。

 車道の向こうの路側帯付近。そのアスファルトの上に転がる、黒い塊。

 僕は肩に下げていたバッグから素早くビニール袋を取りだす。近所のスーパーで貰える、やや大きめのものだ。それを手にして、車の切れ目を窺って黒い塊へと駆け寄る。

 間近で見たそれは、だいぶ綺麗だった。

 道路に転がっているのは、猫だ。細く、しなやかな動きをしそうな体躯の成猫。力なく四肢を投げ出しているそれは、詳細に確認するまでもなくすでに事切れている。半開きの目は明後日の方向を向いたままだ。その体は赤黒く変色した血で濡れているが、体に潰れた箇所は見当たらず、腹が裂けてもいなかった。内臓が飛び出していないだけで随分綺麗に見える。

 猫の全身に目を走らせたあと、手早く死体をビニール袋に入れる。首輪もなく野良であろうその猫は、無駄な肉もついておらず大して重さを感じさせない。

 袋の口をしっかりと結んで手に提げて、僕はもう車道には目もくれず足早にアパートを目指した。

 体中から汗を滲ませながら家に辿りついた僕は、脇目も振らずに部屋へ飛び込み、肩に下げていたバッグを半ば投げるように下ろした。そして玄関に置いてある移植ごてを掴み、アパートの裏手へ回った。

 アパートの小さな敷地内は周囲を囲む形でツツジの茂みが作られており、ひょろりとした木々もまばらに植えてある。植えてあるのはいいのだが、大家が手入れを怠っているために枝も葉も伸び放題で地面には所々雑草も生えている。アパートの裏手ともなれば庭という形容もできない有り様で、当然住人たちも一切用向きのない場所である。

 しかし、僕にとってここは大切な唯一無二の場所なのだ。

 僕は地面をざっと眺める。建物の影になって日の光に当たらず湿り気を帯びている地面には、いくつかの穴が開いている。直径二、三十センチほどのすり鉢状の穴が、一定の間隔をあけて四つ。僕は一番手前にある穴から少し距離を取った位置にしゃがみ込んだ。そして移植ごてを構え、猛然と土を掘り始めた。

 数分後、手元に残ったのは土で汚れた移植ごてと、血と体毛が張りついたビニール袋のみ。袋の中身は眼下の地面にすっかり消えてしまった。そばに立つ木から葉っぱのついた枝を適当にちぎり取って、ほんの少し盛り上がっているそこに無造作に突き刺す。簡素であるが墓標の代わりだ。名を刻む幅さえないが、そもそも名を知らないのだからこれで事足りる。

 頼りない墓標の根元を移植ごてで軽く叩いてから、顔の前で手を合わせて目を瞑る。しばしの間ののち、僕は立ち上がってその場をあとにした。

 アパートの表へ戻ると、僕の部屋のドアが僅かに開いていた。急いでいたためしっかりと閉めていなかったのだ。ドアが開いていたところで、僕の部屋には盗られて困るような金目のものがあるわけでもないし、そもそもこんなボロいアパートに忍び込むような馬鹿はいない。僕は何の警戒心もなくドアノブに手をかける。

 それに、僕の部屋に妙な輩が侵入したとしても、居心地の悪さと一種の不気味さに耐えられず慌てて逃げ出す可能性が高い。

 ドアを開けた僕の目には、四畳半の見慣れた自室が飛び込んでくる。同時に、ニャー、と声がした。最低限の家具しか置いていない見慣れた狭苦しい部屋の中には、これまた見慣れた姿があった。

 茶一色の、四匹の猫たち。

「ただいま」

 僕は、部屋の中で各々寛ぐ茶色い同居人たちにそう言った。




 すっかり日も落ち、カーテンの隙間から見える外の景色は黒に塗りつぶされている。

 畳の上に胡坐をかき、壁に背中をもたれかからせながら、手元の文庫本に目を落とす。そうしている僕の周囲には、帰宅してきた時と同様に猫たちの姿がある。四匹とも生きたものではない。ハカモリだ。

 地面に埋葬された生き物は、みな等しくハカモリになる。それが世の理というやつだ。

 体が土でできていて、もう生物ではなくなったもの。ハカモリたちは一か月から半年ほどのあいだ自由気ままに町を徘徊し、そののちに埋葬された場所に戻って、土に還る。基本的には本能に従い行動するが、生前の性格や生活環境、埋葬時の状況によっても細かな行動は変わるらしい。昨今では大都市でハカモリを見かけることなどまずないというが、僕が現在住んでいるような地方都市ならまだまだ目にすることも少なくはない。野良にしろペットにしろ、その亡骸を誰かが地面に埋葬しているからだ。

 僕の部屋にいる四匹の猫たち。彼らもまた、僕が埋葬したからここに存在している。僕がそうなることを望んだから、この部屋にいついているのだ。

 今日そうしたように、僕はこの部屋を一歩出るといつも動物の死体を探している。特にこだわりがあるわけじゃないが、やはり見つけられるのは車に引かれた野良猫の死体が多い。それを拾ってきてアパートの裏に埋める。そうすれば、僕の部屋にハカモリが一匹増える。僕と野良猫の間には面識なんて一切ないが、供養の心を持って自分の傍にいてほしいと願いながら埋葬すれば、そんな猫たちでも僕に懐いてくれる。その結果がこの現状だ。

 僕は猫たちに囲まれて、小さな幸せを感じている。いや、小さくなんてないのかもしれない。このつまらない人生においては、この状況は僕の心に必要不可欠な癒しになっている。彼らハカモリは僕の空虚な心の隙間を埋めてくれる、大切な存在だ。

 友人は困らない程度にはいるし、両親との仲が悪いわけでもない。学力や運動の面で引け目を感じたことはないし、それは大学に入ってからも同じだ。孤独も無力感も、どちらも僕には縁遠い。僕が唯一感じている不満は、人生というものの刺激の無さだ。刺激が足りない人生を送っている多くの者は、それを打開するためにあれやこれやと慌てて様々なものに手を出すのだろう。だが、僕は違う。そんな無駄骨を折ることはない。刺激がないという不満を、それによる心の荒みを別の手段で癒すだけだ。そのために、僕はハカモリを選んだ。

 子供のころから動物は好きだったし、実際に猫を飼っていたこともある。だが、いくら愛情を注ぎ大事に大事に飼っていても、別れというものはやってくる。愛していれば愛しているほど、喪失感は否が応でも増していく。ハカモリならそんな負の感情から幾ばくか逃れることもできる。なにせ初めから死んでいる。数か月しか共に過ごせないこともわかっている。覚悟と割り切りがあれば、僕は癒しだけを享受することができるのだ。

 生きた猫と同じように勝手気ままに過ごすハカモリたちの姿を見て、僕は満足の笑みを漏らした。

 本の方に視線を戻そうとすると、不意に玄関のドアが揺れた。見れば、僅かに開いていたドアの隙間から拳大の塊がひょいと入ってくる。一見して泥団子に見えるそれは、猫の頭だった。一点を除き、僕が今日拾ってきたあの猫とそっくりそのまま同じ頭。その一点の差異は、頭のてっぺんから小さな枝が生えているところだ。猫はきょろきょろと辺りに視線を配り、せわしなく鼻をひくつかせている。警戒の色は強い。

 だが、

「おいで」

 呼びかけに、猫の視線が僕に釘付けになる。一瞬の間をあけ、猫は弾むような足取りで僕の方へと無防備に走り寄ってくる。

 勢いをそのままに、本を持つ左手に頭を擦りつけてきた。他の猫には視線も向けず、他の猫たちの方も新参者を気にする様子はない。僕は右手で、枝には触れないようにして猫の頭を撫でてやる。顔に触れ、首もとを撫でれば、猫はごろごろと音を鳴らし心地よさそうに目を細める。

 ハカモリには毛はなく、指先には少ししっとりとしていて滑らかな感触がある。それがまた心地いい。生物のようであり、決してそうではない存在。

 僕の心の隙間が、またひとつ埋められる。

 しかし、僕のしていることはあまり世間の人々には好まれないらしい。理由は簡単だ。ハカモリの体内にはその生き物の死体そのものが納められているからだ。つまり、僕はいまこの狭苦しい部屋の中で、五匹の猫の死体に囲まれた状態にあるということである。それを忌避する人間は当然多く、猫を好いている人間ほど嫌悪の情が湧いてくることだろう。僕の場合はいたって平気なのだが。

 本当に、僕からすればなにをそんなに忌避するのかわからない。ハカモリはいいことだらけだ。なにせ手間もかからない。鼻先に刺身や肉の切れ端を突きだしても興味を示すことはなく、食事はいらない。何も食べないのだから排泄だっていらない。一人暮らしの身には非常にやさしい。鳴き声を上げることはあるが、それもなんら問題はない。以前、アパートの他の住人から苦情があったのか大家が訪ねてきたことがあったが、部屋にいるのが生きた猫でなくハカモリだと知ると、言葉少なに注意をして帰っていった。その後、猫が再び鳴くことはあっても、大家が再び来訪することは一度もなかった。

 これほど素晴らしいペットがいるだろうか。

 僕は口元に笑みを浮かべ、猫のつるつるとした体を撫で続ける。

 僕のこの城は、ハカモリによって幸福で満たされている。




 そんな僕の城に小さな異変が起きたのは、突然のことだった。

 いつも通りに授業を受け終え帰路についていた僕は、容赦なく照りつける太陽光にうんざりしながらも、目だけは力強く車道に向けていた。しかし残念ながらその日はなんの収穫もなく、疲労感だけを抱いてアパートまで辿りついた。敷地内で出迎えてくれる五匹の猫たちに慰められながら、ともに部屋へと入る。その後は、本を読み、軽く夕食を済ませ、シャワーを浴び、また本を読む。時折、猫たちにそっと触れる。そうやっていつも通りの時間を過ごした。

 夜が更けた頃、窓の下の壁に背中をつけて黙々とページを捲っていた僕は、不意に気配を感じた。やや俯かせた自分の頭の先、なにもない空間に浮かぶなにかの気配。巨大な蛾でも入って来たかと顔を上げてみれば、そこにいたのは魚だった。

 魚といっても食卓に上るようなものではなく、ホームセンターの熱帯魚コーナーで目にする類のもの。大きさは目一杯広げた僕の手よりも少し大きい程度で、平たい板のようなほぼ長方形の薄っぺらい体をしている。魚については詳しくない僕でも見覚えはあった。

 体には何条も線のように模様が走っているが、それがどのような色を持っているのかはわからなかった。その魚の体が茶色に染まっていたからだ。

 魚のハカモリの闖入。僕は声こそ上げなかったものの、目を大きく見開く。

 魚のハカモリ自体は初めて目にしたわけではない。それに、僕の城には暑さをしのぐための文明の利器が扇風機しかないため、夏場は大抵ドアや窓を少し開けて過ごしている。だから、そこからの侵入が容易だったであろうこともわかっていた。だが、それが突然目の前に現れたことにはやはり驚いた。

 魚は体をくねらせることはほとんどせず、尾びれだけを細かに動かし、虚空を泳ぐ。

 これはいったい何なのか。僕の部屋にいるということは、眼前の魚は僕と何らかの関係を持っているはずだ。しかしどれだけ時を遡って記憶を掘り起こそうが、魚を埋葬した覚えなどなかった。死んだ魚を道端で拾うことがあるわけもない。いくら考えたところで、この問題に対するまともな解は出そうにない。

 眉根を寄せ、魚をじっと見つめる。僕の戸惑いなどどこ吹く風で、魚は悠々と泳ぐばかりだ。

 見つめていたところで進展もないので、僕は効率的な解決法に手を出すことにした。インターネットの力に頼るのだ。スマホで『ハカモリ 知らない まとわりつく』と検索をかけてみる。二、三のページを開いたら、それらしい答えはすぐに得られた。

「――あなたは呪いを受けているかもしれません」

 僕はそこに書かれた文言を口に出した。

 呪い。そこにあったのは、初めて目にする情報だった。

「ハカモリを用いた呪術……」

 俄かには信じがたい内容が書かれている。それは、ハカモリを呪いの道具として使うというものだった。

 動物の死体と一緒に、呪いたい相手の名前を書いた紙を地面に埋める。憎しみの心を込め、決められた呪詛を唱える。そうすると、本来ならば本能に従い自由気ままに行動するはずのハカモリが、その相手を呪い殺そうと動く。そこにはそう書かれていた。見覚えのないハカモリが傍に寄ってきた場合、呪いを疑った方がいいと忠告されている。

 呪いだなんて……阿呆らしい。そう思いながらも文章を読み進めていくと、ハカモリが呪いに用いられているものかどうかの見分け方が載っていた。曰く、ハカモリの茶一色の体のどこかに、どす黒い染みのようなものが浮かんでいるという。

 僕はすぐに目の前の魚の体を確認する。

「……なるほど」

 あった。尾びれの付け根に、体の片側だけだが黒い斑点のようなものがある。どす黒いというほどではなく灰色がかったものだが、それはいままで何体ものハカモリを見てきて一度も目にしたことのないものだった。呪いそのものの効力については鵜呑みにする気はないが、その呪術とやらを行った輩がいるのは事実のようだ。闖入者のもたらした謎は一瞬にして解決した。

 そうなると考えるべきは、誰が犯人か、どう対処すればよいのか、という二点になる。

 だが、僕はそこに興味がなかった。大学の友人か、知人か、それともこのアパートの住人か、高校以前の友人か、年にそう何度も会わない親戚たちか。人間なんてその本心はわかりようもないから犯人候補なんていくらでもあげられる。もしかしたら知り合いではなく、向こうが一方的に僕のことを知っている可能性もある。そのうちの誰が犯人だろうがどうでもいい。憎しみを持った相手に呪いなんて阿呆みたいな手段を行使しようという人間だ。相手にするのが馬鹿らしい。どうせ取るに足らない人間だというのがすでにわかりきっているじゃないか。

 そんな行いに対してなにかしらの反応を返すこともまた同じこと。それは馬鹿がすることだ。検索結果に目を通してみれば、解決するには寺に行ってハカモリを供養するのがよいなんて書いてある。基本的にハカモリというのは外部からの悪意や敵意に敏感で、事故に対する危険を察知して回避する能力が備わっている――体内に眠る死体を守るということで、これがハカモリ=墓守の名の由来でもある――ので、人間が力尽くで退治しようなんてことはできないからだ。

 もちろん僕には、寺に行くなんて選択をする気はさらさらない。

 また魚をじっと見る。黒い斑点以外は特に目新しい部分もなく、水槽の中にいるのと同様に法則も目的もなくただ宙を泳いでいる。こんな魚に何ができるというのか。呪いだなどと言われても鮫やピラニアならいざ知らず、ちっぽけな一匹の魚に恐れを抱くわけがない。放っておいても害はない。

 しばらく眺めていると、こんな馬鹿なことをしでかした人間に対する呆れとは別に、ある感情が湧いてきた。

 これはこれでいいかもしれない、と。魚のいる風景、悪くはない。

 ハカモリだから餌をやる必要は当然ない。空中に糞をまき散らすことにもなりはしない。何か危害を加えてくる気配もなく、部屋の中を泳ぎまわるだけなら邪魔にもならないし元が熱帯魚だけに鑑賞には十分堪えうる。

 これは思いがけない贈り物かもしれない。

 インターネットで熱帯魚の画像を検索してみた。ポピュラーなものの一覧の中から、いま目の前にいるものと同じ姿を探す。答えはまたすぐに見つかった。

「チョウチョウウオ……か」

 それが魚の名前。チョウチョウウオと一口に言っても種類は複数あるようだが、僕の目ではそれ以上の分類はできそうになかった。この魚はチョウチョウウオ。それがわかればそれでいい。

 チョウチョウウオに向かって、そっと指を一本伸ばしてみる。すぐに指の方を向き、啄むようにして二、三度口をつけたかと思うと、これまたすぐにそっぽを向いて離れていった。猫以上に自由気儘で悠々自適。スキンシップはとれそうもないが、魚類相手にそれを期待するのは酷だ。

 突然舞い降りた異変は、僕にちょっとした雑学と心の隙間を埋める小さな癒しを与えてくれる結果となった。




 チョウチョウウオが加わった僕の生活は、多少の変化はあったものの安穏としていた。

 呪いという使命を帯びているためか、チョウチョウウオは猫たちと違い大学にまでついてきた。友人たちには熱帯魚を飼っていたという嘘を吐き、少し悲しげな顔をして見せれば問題なし。それ以上追求されることはなかった。

 それとは別に少し誤算だったのは、猫たちの反応である。チョウチョウウオの姿を目にした途端、猫たちの目の色はすっかり変わった。いままで見たこともない、獲物を狙う狩人の目をしていた。食欲は存在しないものだとばかり思っていたが、同じハカモリであれば別腹なのか、猫たちは完全にチョウチョウウオを喰う気である。

 ハカモリ同士で危険回避の力がどれだけ発揮されるかも不明だが、取りあえず僕は猫の手からチョウチョウウオを守るようにしている。せっかくの観賞魚がいなくなっては困る。自分で調達できない分、魚のハカモリは貴重なのだ。自分を呪うという悪魔の使いめいたものを守るのは変な話だが、僕が寝る時には猫たちを部屋から出したりして、僕はチョウチョウウオの安全の維持を徹底した。

 幸いというか当然というか、チョウチョウウオは僕に危害を加える様子もなく、気儘に泳ぐばかりである。授業を受けている最中は時折視線を遮ることがあってその時ばかりは邪魔に感じるものの、他に困ることはひとつもなかった。




 五+一匹との生活が始まってから早くも二週間が過ぎた。

 炎天下の中、今日も今日とてのたれ死にした動物を探す。だが、収穫はなかった。最後に猫の死体を拾ってからもう三週間が経っていた。そのこと自体は決して珍しいことではない。死体を見つけられるのは平均すれば二、三週間に一度といったところで、一か月以上収穫がないことだってある。

 僕は小さくため息を吐いた。現在五匹もいるのだからがっつく必要はないが、生きている猫と違ってハカモリはいついなくなってしまうかわからない。土に還るまでの期間は個体によってばらつきもあるし、運が悪ければ五匹同時にいなくなってしまうことだってあり得るのだ。新鮮なハカモリを手に入れることは僕の心の安寧に直結する。

 僕はちらりとチョウチョウウオに視線をやった。

「お前のせいじゃないだろうな?」

 そんなことを言ってみる。体の中心目がけてびしっと指を突きだすと、意外な俊敏さでそれを掻い潜った。

 なんてな。

 呪いの効果がそんな形で発揮されたのだとすれば、僕に対する被害は思いの外大きい。なるほど呪いうというものも捨てたもんじゃない、と言っていいかもしれない。まあそんなことがあるわけもないのだが。そう思い、僕は自嘲気味に笑った。

 そんな日を二度、三度と繰り返したのち、僕は再び闖入者と遭遇することになった。

 夜。本を読み終え、疲労と微かな達成感を得ながら大きく伸びをした僕の視界に突如として入ってきたそれは、群れだった。数匹の熱帯魚からなる小さな群れが、部屋のほぼ中央で旋回するように泳いでいた。

 僕は呆けた顔でそれを見ていたが、周りの猫たちが例の狩人の目で魚たちを見ていることに気づき、それを牽制しながら群れの方に近づいた。

 群れの中には、チョウチョウウオとほとんど同じ魚もまったく違う魚もいた。どれもこれもどこかで見たような姿形をしているので有名どころだというのは推測できたが、名前はわからないしわざわざ調べる気も起きない。唯一わかったことといえば、そのすべてに黒い斑点があるということだけだった。

 これはきっと新たな悪魔の使いである。チョウチョウウオを送り出してから三週間。僕に何の変化もないことから、焦れた呪いの主が新たな使者を差し向けたということだ。魚の数を数えてみれば計五匹。一度にこれだけ送ってくるということは、呪いの主はだいぶやきもきしていたと窺える。こんなことをしても何の意味もなさないというのに。

 魚たちは、チョウチョウウオと同じように僕の傍を泳ぎ始める。数が多いので、自然と顔の周囲を魚が行ったり来たりする形になった。まるで水槽を頭にすっぽりかぶったような風景が僕の視界に広がる。三百六十度、どこを見ても魚が泳いでいる。少しばかり邪魔くさい気はするが、やはり群れを成したところで魚は魚。僕に危険を及ぼすことはないようだ。

 にわかに賑やかになった僕の頭部周辺を爛々と輝く目で見る猫たちを尻目に、僕は手にしていた本を棚に戻し、別の本を手に取った。

 呪いなんてものに狙われても、僕の暮らしは充実していくばかりである。

 その日は心地良い眠りに落ち、翌日の寝覚めも爽快だった。大学では友人たちが僕の状況に驚きの声を上げたが、やはり追求はされなかった。呪いを受けている僕の生活は、大学の構内を歩いていると周囲からの視線を感じるという僅かばかりの変化しか起きていない。




 魚の数は増えたものの、猫の数は一向に増える見込みはない。また二日、三日と死体を探すが、収穫はゼロ。魚たちを引き連れ、渋い顔で家路を行く。

 アパートに帰りつき部屋のドアを開ければ、敷地内でうろうろしていた猫たちが僕に続いて我先にと入ってくる。それは毎日繰り返されている光景だったが、すぐに僕は異変に気づいた。

 いなくなっている。

 猫が、四匹しかいなかった。二か月ほど前に拾ってきた一匹が見当たらない。どこか近くをほっつき歩いている可能性もなくはないが、恐らく違う。僕は部屋を出てアパートの裏手へ回った。

 抱いていた懸念はあっという間に現実になっていた。相変わらずじめじめとしている地面に開く、複数の穴たち。この間まで五つあったそれが四つに減っている。もう一か所あったはずの穴の位置には、短い木の枝が刺さっているだけだった。土を掘り返したあとも埋め戻したあともまったくない地面に、無造作に枝が刺さっている。ハカモリが土に還った証拠だ。僕はそれを確認して、踵を返した。

 魚五匹を得たと思ったら、猫一匹を失ってしまった。総数では差し引き四を得ているが、個人的感覚では魚と猫の価値は等しくない。実際に過ごしてみてわかったことだが、魚を眺めるのと猫を眺めるのとでは断然後者の方が面白い。魚ののっぺりとした顔よりは猫の表情豊かな顔を眺めている方が良いし、触れられるというのも大きい。両者の癒しの力には隔たりがある。いまさらながらに嘆くことでもないが、体色というアドバンテージを失っている熱帯魚はとても無力だ。

 部屋へ戻り、僕は考えた。

 いまの状態は少しまずい。まだ猫は四匹いるものの、いつまでももつかはわからない。土に還った一匹が、まだ拾ってから二か月だったのも手痛いところだ。期間の長さでいえば五匹のうちでは二番目に短い個体で、残りはそれ以上経過しているものばかり。うかうかしていたら、魚たちにそっくりとって代わられてもおかしくはない。

 この幸福は維持されなければならない。それは絶対だ。予定調和で退屈だらけのこの世界において、僕は面白おかしく生きることは求めない。ただ、彼らの存在がこの城には必要なのだ。

 もっと身を入れなければならない。

「……夜だな」

 久しぶりに、積極的に死体を探すことにする。

 普段やっていることは、死体を探すと言ってもただ大学からの帰りに道すがら転がっていないか確認するだけ。そもそも死体に出会えるかどうかに僕の技術や知識なんてものは全く関係なく、結果を左右するのは当事者たる猫の行いと単なる運だ。ならば、出会うために僕にできるのは、探す回数を増やすか範囲を広げるか、そして時間帯を替えるかだけなのだ。

 僕は、それらすべてを実行することにした。幸い、明日は大学が休みだ。どれだけ時間をかけようが、別に困ることもない。

 ささやかな決意とともに、僕は夜を待った。




 とっぷりと日が暮れておまけにすっかり九時をまわって、世間が暗く暗くなっていっても、蒸されるような熱気はまだ消えやしない。夏の太陽は自分の存在を誇示しすぎているし、街中に爪痕を残し過ぎているとも思う。

 ビニール袋と小型の懐中電灯だけを準備して、僕は部屋を出ていた。頼んでもいないお供は六匹の魚たち。なんの脅威もない代わりに、なんの役にも立つことはない。猫たちの方も仲間の死体を探しあてるような不思議な力があるわけもなく、アパートの周りで思い思いに過ごして僕の帰りを待っているはずだ。

 まずはいつもの通学ルートを歩いてみる。街灯と走る車のライトだけでは心許ないので、見落としのないよう懐中電灯を使って隈なく調べる。――日中より時間をかけたものの、収穫はなかった。

 残念だが、予期していたことではあるのでそこまで落胆の気持ちはない。大学の傍まで来た僕は、その周囲で探索を続行する。

 僕の通う大学周辺はぽつぽつと古びた店や年季の入ったアパート、コンビニに真新しい一戸建てなど、小規模という点だけが共通する生まれた時代の異なる建物たちが集まっていて、低い山やら雑木林やら動物の住処となる場所も存在している。学生たちからは近くでタヌキやイタチを見たという話もたびたび出ていて、それは僕に少しばかりの期待を持たせてくれていた。

 ここらで見つけられないとなると、あとは繁華街の方にいくかさらに遠くへ足を伸ばすことになる。繁華街には野良猫も多いが、その死体となると見つかる確率は一気に下がる。車に轢かれるような間抜けな猫はすぐに淘汰されるからだ。死体を探すのなら、まだネズミの方が可能性はあるかもしれない。丸々と肥えた巨大なネズミなんて、僕は自分の城に上げたくはないが。

 大きな通りを外れ、闇の色濃い道を懐中電灯片手に進む。道路に面した草むらや茂みがあれば、見落としのないようしっかりと調べていく。

 傍から見れば怪しさしかないそんな行動を一時間ほどした頃、細く伸びる頼りない懐中電灯の光に、黒い塊が照らし出された。瞬間、僕の体は微かに震える。道路の隅、側溝の上にあるそれには、体毛が確認できる。

 光を真っ直ぐに向け、駆け寄った。この暗闇のなか光に照らされて動く気配がないことが、それがすでに死んだものだということを物語っている。

 やはり猫だ。それも大きい。目立った欠損もなく、ただ全身が血にまみれている。間近で見てみると、僕の部屋にいる猫たちよりも一回りほど大きく感じられた。デブ猫と言ってしまえるほどたるんだ体はしていないが、得られる限りの筋肉と脂肪を貪欲に蓄えているように見える。

 野良にしては食生活に恵まれすぎている気がして、僕は首輪の有無を確認する。せっかく見つけたのに、誰かの飼い猫だったりしたらとんだぬか喜びだ。飼い主の所に戻ってしまう猫に用はない。肌には触れないよう、毛だけを指先で掻き分ける。肉付きがいいうえ毛もふさふさと生えているので注意深く見てみるが、首輪は見当たらない。

「ふぅ……」

 取りあえず一安心だ。首輪をしていない飼い猫や餌だけ貰っている半野良という場合もあるが、これ以上は細かに確認する術もない。埋めてみてからのお楽しみというほかなくなる。

「ここらのボスなのかもしれないな」

 自分自身を安心させるように、そう呟く。体が大きいと鈍重そうなイメージもあるが、喧嘩の強さとそれに裏打ちされた威厳があればトップに立つこともできるのだろう。猫の世界なんて知りもしないが、そう結論づける。

 うだうだと考える時間は勿体ない。せっかく見つけたのだから、さっさと持ち帰るのが吉だ。人に見られるのもあまり好ましくない。

 僕はビニール袋を手に、慣れた手つきで死体を拾う。見た目通りに猫は重くて若干てこずらせられはしたが、すっぽりとビニール袋の中に収まった。袋の口をきつく縛り、手に提げる。

 持ち手が指に食い込む感触とずしりとした重みは、僕に達成感を覚えさせてくれた。自然と、笑みがこぼれる。

 頭の周囲を泳ぐ魚たちも、その泳ぎで僕を祝福してくれているように感じた。完全な気のせいである。まあ、そう思うぐらいには嬉しいから仕方がない。

 早く埋めてしまいたい。

 逸る気持ちを抑えつつ、僕は来た道を引き返す。時刻はすでに十一時。帰りつく頃には明日になっているかもしれない。

 重い荷物は増えたが、僕の足取りは軽かった。日中に比べれば、すれ違う通行人たちにビニール袋の中身を見られてしまう恐れも格段に低い。額には汗が滲んでいたが、暑さも忘れて僕は帰路を急いだ。

 そうやってアパートに着いたのは、まだ日を跨ぐ前だった。ニャー、ニャー、と出迎えてくれる猫たちをなおざりに、部屋から移植ごてを取ってくる。そしてアパートの裏手へ回った。

 暗くじめじめとした空間に、ぽっかりと四つの穴が口を開けている。僕は手近な場所にしゃがみ込んでビニール袋を下ろし、移植ごてを地面に突き立てた。そして一心不乱に掘り始める。体が大きい分、墓穴も当然大きくなければならない。蒸した空気の中、湿った土の臭いだけを感じながら腕を動かし続ける。

 ほどなくして穴はできた。ボス猫の巨体がすっぽりと入る大穴。僕は荒い息を吐きながら、移植ごてを放るように地面に置いた。汗でシャツが体に纏わりつく。

 傍らに置いていたビニール袋に手を伸ばす。自分でやったことだが、結び目は嫌というほど固くするりとほどけてはくれない。じれったくなった僕は側面を両手で裂いた。同時に、鉄の臭いが立ち上る。鼻腔の奥にまで容易に侵入してくるそれは、先ほどまでそこを満たしていた土の臭いを上書きしていく。

 微かに香る獣の臭いとともに、それは僕に生を主張していた。死んでなお、猫の残滓は辺りに自らの生を喧伝する。タンパク質や脂肪の塊というただの物質ではないことを。

 それに、僕も一役買おう。

 ハカモリになれば、生前の姿がそこに現れる。失ってしまった命が確かにそこにあった事実を描き出す。モノではなく、かつて生命であったことを証明する。

 僕の城で、最後の輝きを見せてくれ。僕はいつの間にか歯を剥きだして笑みを作っていた。

 ビニール袋の裂け目から滑らせるようにして、死体を穴の中へ。ビニール袋はくしゃくしゃにしてまとめて、死体の上へ土をかぶせて穴を埋める。掘ることの何倍も楽な作業を手早く終わらせ、茂みに手を伸ばす。体に見合った大きな墓標がいいだろうか。伸ばした手が一瞬止まったが、別にかまわないと思い直し、指先に触れた枝を無造作に折る。調達した枝をほぐれてまだやわい土に突き刺し、僕は手を合わせた。そして目を閉じる。

 僕とともに長く生きてくれ。

 一か月や二か月でいなくなられては困る。強く強く念じて、ぎゅっと瞑った瞼にも力がこもる。

「これでよし」

 言うと同時に瞼を開き、手を離した。立ち上がると、気が抜けたからかひとつ欠伸が出た。とうに日付は変わっている。

 すっかり疲れてしまった右手をぷらぷらと揺らし、僕は踵を返した。ついでに足も少し痛む。ともあれ、その分の成果は得られた。明け方ぐらいには猫のハカモリは五匹に戻る。しばらく安泰、とは言えないが、明日ぐらいは夢心地で幸せな休日を過ごせそうだ。

 部屋に戻った僕は、猫たちの声を遠くに聞きながら泥のような眠りに落ちた。




 目を覚ませば、薄闇に包まれた空間が視界に広がる。目の前を魚たちが横切っていくのには、もう慣れた。

 僕は目をこすりながら布団の中で伸びをした。欠伸をして、枕元にある時計の方を向く。カーテンの隙間から光が差す様子もないので、まだ日の出前だろうか。正確な時刻を確認してから、そのまま枕に顔をうずめる。まだ起きる気はなかった。

 すぐにまた眠りに落ちようとしていると、不意に音が聞こえた。がさがさと何かを漁るような音。耳をそばだててみると、微かな水音も聞こえた気がした。

 狭い室内である。音の発生源はすぐに特定できた。部屋の隅で、なにかがごそごそと動いていた。やけに見覚えがある。

「ああ……」

 なんのことはない。昨日のボス猫だ。目を凝らせば、丸々としたあの猫の後ろ姿がはっきりと見えた。無事ハカモリになってこの部屋に入ってきたのだ。

 飼い猫ではなかったらしい。僕は安堵のため息を吐いた。そして再び眠りに着こうとして、あることに気がついた。視線を玄関のドアへと向ける。

 ドアが開いていた。ほんの少しだが、猫一匹が通れる分ぐらいには開いていた。ボス猫がここにいるのだから、そうでなくてはおかしい。昨日は疲れていたから、鍵を閉めるのを忘れてそのまま眠ってしまったようだ。幸い、他の猫たちはまだ部屋の中に入ってきていない。

 これはまずいかもしれない。

 僕はまた目をこすりながら、ゆっくりと体を起こした。ボス猫は変わらずこちらに背を向けている。

 確認が必要だ。僕は薄暗い部屋の中で、自分の周りを好き勝手に泳いでいる魚たちの数を数えた。一匹、二匹、三匹、四匹、五匹。――五匹。それだけだ。

「足りない……」

 呟く僕の視線が向かう先は、部屋の隅にいるボス猫。壁の方を向いている彼が何をしているのか、もう見当はついていた。

「おーい」

 軽い調子で声をかけてみる。

 ボス猫はピクリと耳を動かし、素早く振り返った。その口には、茶色い何かを咥えている。原形を留めていないそれが、魚のうちの一匹だということは明らかだった。

 やっぱり食べられたか。

 ハカモリでも食べられることはあるんだな、と淡白な感想しか出てこない。猫という危険を回避することはできなかったらしい。まだ五匹もいるし、やはり猫に比べて価値は低い。どちらかといえば、ハカモリになった猫にやはり食欲があったという発見への興味の方が心を占めている。

 ボス猫は僕が何も言わないのを見て、食事に戻っている。

 それを見ていると、いっそ全部食べさせてもいいかもしれないとさえ思えてくる。害がなくても呪いは呪いだ。縁起のいいものじゃない。猫たちの腹の中に収めた方が良くはないだろうか。

 まあ、本音を言えば、熱帯魚観賞に飽きてきたから処分してしまおうか、とそういう魂胆でもある。数が増えたところでさして見栄えが良くなるわけでもなし。むしろ常に視界に入ってきて目障りだとさえ思えていた。

 そんなことを考えているうち、ボス猫は魚を食べ終え、口元をしきりに舐め回している。

 僕は立ち上がって部屋の電気をつけた。魚の処遇をどうするにせよ、このまま二度寝をする選択肢はない。

 腕を上げ、思い切り伸びをする。僕の腕の周囲を魚たちがぐるぐると旋回する。僕の目には十分素早く動いているように見えるが、猫相手では無力なものだ。物音で僕が目を覚まさなかったのだから、ボス猫の狩りはその重たそうな見た目に反して迅速に行われたはず。ボスの名は伊達ではない。ボスというのは勝手な推測だけれど。

 ボス猫を見てみれば、いつのまにか体ごとこちらを向いていた。前足を揃えた行儀のいい姿勢でじっと見てくる。

 狩りを解禁するにしても、残りも全部ボス猫に差し出すのはなんだな。ドアは開いたままだから、他の猫たちもそのうち部屋へ入ってくるはず。数は揃っているから、猫一匹に魚一匹が妥当である。結果的にボス猫は二匹を食べることになるが、その格差は体格差を考慮した判断ということでひとつ。

 そんな風に魚の配分を考えながら、ボス猫の体をまじまじと見てみる。やはり大きい。部屋の中にいると、他の猫との大きさの違いも実感しやすい。

 そんな調子で感心していたら、

「……あれ?」

 ふと、妙なものを見つけてしまった。ボス猫の体に這わせていた視線が、ある一か所にとどまる。

 脇腹の辺りに、小さな斑点があった。五百円玉ほどの大きさの、黒い斑点。

「は?」

 それが何かは理解できる。何故そこにあるかは理解できない。

 一瞬で混乱した僕の耳に、大きく息を吐き出すような、聞き覚えのある音が飛び込んでくる。ボス猫の口が大きく開き、そこから牙が覗いていた。

 威嚇だ。頭を低くし、耳も潰れて左右に広がる。いましがたまで警戒心の欠片もなかったボス猫が、明確な敵意を持った態度を示す。

 威嚇している。標的は、僕だ。

 黒い斑点は呪いの証。であれば、狙いは次なる食料である魚ではなく、呪いの対象である僕だ。

 ボス猫は低い唸り声をあげ、射抜くような視線を向けてくる。それを真っ直ぐに見返しながら、僕はいまなにが起こっているのかを必死に考えた。

 ボス猫が呪いの効力を受けているのは事実。呪いの説明を信じるのなら、埋葬したのは僕だから僕が自分自身を呪うことを望み、おまけに決められた手順を踏まない限りは、こんな状況は発生しないはずだ。ここに矛盾が起きている以上、原因は他にある。

 それなら答えは簡単だ。原因は、ボス猫が喰った魚しかない。僕は瞬時に結論を下した。

 魚の体内には呪いに使われた紙が入っていた。魚を喰えば、紙までまとめてボス猫の胃袋の中に収まることになる。ハカモリの消化器官の働きについては未知だが、体内に入ったその呪いの紙がボス猫自身に影響を与えているということだ。つまり、魚を喰うことで猫の本能が呪いに上書きされてしまった。

 いま目の前にある状況に対し、自分の知識の範囲内で下せる結論はそれだった。

 ボス猫は、そろりそろりと足を出す。

 これまでの人生で猫との喧嘩の経験などあるはずもない僕は、ただ身構えるだけだ。妙な緊張感に、音を鳴らして唾を飲む。

 その瞬間、相手が動いた。目で姿を追うよりも早く、右太腿に激痛が走る。

「――って!」

 咄嗟に両手が右腿に伸び、体はくの字に曲がった。間髪入れず、背中を何かが叩いた気がした。

 次いで、首の後ろに鋭い痛み。

「――っ! 離れろっ!」

 喰らいつく牙から逃れようと両手をばたつかせながら、僕は身を振るった。首の後ろが軽くなり、畳を叩く足音が聞こえる。

 息を弾ませながら前を見れば、元の位置にボス猫が立っている。威嚇の唸り声もそのままだった。

 この猫はいま、僕を殺そうとした。狙いは一点。息の根を止めるための動きだった。

 夏だというのに、額から冷たい汗が流れた気がした。やばい。これはやばい。首の後ろに手を回せば、裂けた皮が指に引っかかる感触。腿も首も、じりじりと痛む。

 ボス猫は、魚たちと違って僕に殺意を向けている。いや、その表現は正確でないかもしれない。魚たちも殺意は持っていた。それを実行する力がなかったに過ぎないのだ。いま僕の目の前には、本当の悪魔の使いが現れている。

 危険だ。殺すべきだ。殺さなければいけない。

 だが、それができるのか。人間が自分を本気で殺しにかかってくる動物と素手で対峙した場合、その相手が犬猫でも分が悪いんじゃないか。まして目の前にいるのはハカモリだ。僕の殺意を持った行為、つまりハカモリにとっての危険には敏感に反応する。

 明るくない見通しを頭に浮かべながら、僕はゆっくりと後ずさった。僕には猫の全力の動きを正確に捉えることはできない。壁を背にして背後を取られないようにするのが得策だ。

 僕は壁まで辿りつくと、そのまましゃがみこんだ。ほっと息を吐こうかとしたその時、ボス猫がさらに身を低くした。

 来る。

 一瞬息が詰まる。ボス猫が、畳を蹴った。同時に、視界の端、玄関の方から影が躍り出た。ボス猫の体が、真横に吹っ飛ぶ。猫の耳障りな喚き声が部屋に響いた。

 驚きで大きく見開いた目で、僕は目の前の光景を見た。二匹の猫が、互いの体に喰らいついていた。しがみつき、爪を立て、牙を剥く。躍り出た影は、外にいたはずの猫の内の一匹だった。

 唖然としてそれを見ていれば、玄関から残る猫たちも駆けてきた。そして、絡み合う二匹の猫へと殺到する。部屋の中が、五匹の猫が喚き散らす鳴き声で埋め尽くされる。

 僕はなにもできずに、食い入るようにその光景を見ていた。

 一分と経たぬうち、声は次第に治まっていき、猫たちは動きを止める。争っていたその場には、四匹の猫に囲まれ、ボス猫が引き裂かれた体をぐったりと横たわらせていた。ピクリとも動く様子はない。

 目の前の光景が、五匹の猫の姿から、四匹の猫と一匹の死体へと変わった。四匹の猫たちは行儀よく座り直し、僕の方をじっと見ている。

 助かった。混乱し始めていた頭で、とにかくそれだけは理解できた。僕の窮地を猫たちが救ってくれた。

 僕は、深く長く息を吐いた。突然舞い起こった事態は、一瞬で収束を見せた。僕の危機を察して、猫たちがボス猫を殺したのだ。

 口元に、笑みが浮かぶ。よくやった、という思いがあった。猫たちがいなかったら本当に殺されていたかもしれない。主人を思って勇敢に戦ったのだ。

 額の汗を拭い、心を落ち着かせる。顔でも洗って気持ちを切り替えよう。しゃがみこんで呆けていても仕方がないので、僕は立ち上がった。

 その目に、茶色い物体が見えた。反射的に身を固くする。

 熱帯魚の群れが、玄関のドアの隙間から入ってきたところだった。数日前よりも数が多く、十は超えているように見える。ゆっくりと漂うように、部屋の中へと進んでくる。

 心臓が、少しずつ鼓動を速める。僕の視線は、自然と猫たちの方に向かっていた。彼らは、すでに僕の方を見てはいなかった。部屋へ侵入してきた魚たちを、目の前に飛び込んできた獲物たちを見ていた。

 猫たちが、動く。瞬く間に狩りが始まった。

 僕の心に、淀んだ影が湧いてくる。猫たちを止めることも忘れ、先ほどと同じように目の前の光景をただただ眺める。

 魚たちは叩きつけられ、喰いちぎられ、次々に姿を消していく。消えていく先は、猫たちの腹の中だ。

「やばい……」

 声は掠れていた。口がからからに乾いている。

 目があった。

 一匹の猫が、食事を終えて僕を見ている。首元には、黒い斑点。

 さっき拭ったのに、また冷たい汗が流れてくる。

 猫たちが、僕を見る。口の周りを舐め回しながら、僕を見ている。

 自分の呼吸の音が、ひどくうるさく感じる。

 本能を上書きされてまるで機械のような存在に成り下がった癖に、猫たちの目は一様にギラギラしていて、僕はそこに溢れ出しそうな生を見た気がした。

 やばい、やばい、やばい。

 やばい……。






 四畳半の小さな部屋の中、男は事切れていた。

 大の字に転がり、光のない目が天井を見る。物を言わず、物を考えず。その体は、誰かに葬られることをただ静かに待っていた。

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