7
「君が生きていてくれないと、意味がないんだ。僕がいなくても、君だけは」
不思議な言葉を残して、彼は部屋を出て行った。
君が生きていてくれなければ、僕が生きている意味はない。そう言って、私を強く抱きしめた彼を、抱き返せなかった。ただされるがままになっていることしか、できなかった。
彼が持ってきてくれたお粥はほとんど味がしなかったし、ぬるくなっていた。けれどそれくらいがちょうどいい。喉が痛くて、熱すぎるものは食べられないから。
体が鈍く痛む。音のない部屋に、時折、私のうめき声が響いた。
鈍い痛みは鋭い痛みよりたちが悪い。
鋭い痛みであれば、誰かに助けを求めやすい。けれど鈍い痛みは、耐えられるから恐ろしい。これくらいなんでもない、耐えられないことはないと侮って、助けも求めずそのままにしていれば、いつの間にか手が付けられないほど悪化して、結局最後は死んでしまうのだ。じくじくと痛み続けるだけ、そんなことが、本当の地獄だ。地獄で声を上げたとして、誰も救ってはくれない。
私の頭がおかしくなってしまったことは、もう明らかなことだった。もう疑う余地もない。
私が私であるためには、一つ、絶対に受け入れたくなかったことを、受け入れなければならない。
あの日、本当は何があったか、私は覚えている。
きっと彼は気づいていない。私がもう、あの日の正しい記憶を取り戻していることに。
だから、ここから出さないでおこうとしているんだろう。私を守ると、匿うと嘘をついて、囲い込んでしまおうとしている。
私はそれに気づいていて、それを心地良く思っていたから、何も思い出せなかった。
つまり、私は酔っていた。私の、よくある悲劇に。誰もが感じる孤独を私だけの特別な悲劇と思い込んで、逃れる道はいくらでもあったのに自分でそこに留まった。
彼からの同情はとても気持ちがよかった。孤独だと喚き続ければ無条件に許してもらえた。それがあまりに楽だった。努力は苦しい。苦しいけれど、努力をしなければ認められない世の中だ。至極、当然なこと。誰だってそうして生きているはずなのに、私は。
彼は私が生きているだけで認めてくれた。私の身勝手な孤独に寄り添ってくれた。
甘いお菓子を食べ続けていたら、辛いものがもっともっと辛く感じるように、私はそれまでできていた努力すらできなくなってしまった。
そして、あの日。母と喧嘩をした。
父はいつものように何も言わず、私はいつもと違って言い返した。
ヒステリックに怒鳴り散らす母に屈せず、どもりながら私も叫んだ。興奮しきった母はついに私の頬を張り倒して、私は、死んでしまえと母を呪った。
家を出て、公園の公衆電話で彼の番号を押した。
きっと、よくあること。
私の家はごく普通の家だった。両親の仲は良好。子どもは私一人。郊外に建てられたマイホームのローンはあるけど、お金にも困っていなかった。
彼を目の前にすると、つい優しさに逃げてしまいそうになる。それは、彼が私に思い込ませたからか、それとも私が私に思い込ませたからか。
これはめったにないこと。私は、自分が両親を殺したと思い込んだ。
君は親を殺したんだよ。彼がそう言ったから、何も疑わずに受け入れた。そうであると思い込んだ。
そして彼は罪を犯した私を匿っている。純粋な善意で。私を守る、それ以外の意図はなく。
「私は、殺して、ない」
ゆっくりと、声にする。
「本当に、殺したのは……」
彼の去った部屋はとても冷たい。座り込んだまま何もない部屋を見回せば、カーテンレールだけが居心地悪そうにこちらを見ていた。
ためらっている暇はない。痛む体を無理に動かして、骨がぎしぎし嫌な音を立てるのも無視して、玄関に這うように向かう。
出ようとして出られなかったのは、私自身がこの部屋に執着していたからだ。この部屋に依存していたから、部屋も私を手放そうとしなかった。
ドアの前に立つと死にたくなった。そして、すっぽり抜けていたここ数日のことを思い出す。
私は何度も死のうとした。すべての傷は私自身がつけたもので、死にきれなかったのはまだ生きたかったのと、彼がタイミングよくここに来たから。
ああ、思い出した。おかしくなりそうだったから、今のように本当のことを受け入れようとしたけれど、やっぱり受け入れたくなくて、死にたくなったから死のうとしたんだ。
包丁で、両腕を切った。彼が慌ててその包丁を持ち去った。
縄で、首を吊ろうとした。彼が部屋中の紐状のものを持ち去った。
本棚を倒して、その下敷きになろうとした。彼が私を助け出して本もすべて持ち去った。
プラスチックの皿を無理に割って刃物代わりにしようとしたり、コンロの火で焼け死のうとしたり。毎日毎日、思いつく限りの方法で死のうとした。そのたびに彼がこの部屋から物を持ち去って、私を生かそうとした。
彼は善人なのだ。自分の両親は根っからの善人だと、いつか彼が話したように、彼もまた根っからの善人だったのだ。
だから私を救おうとした。きっと、私を好きになってくれたから。私が好きだったから、好きな人を孤独から救おうと、道を外れてしまった。
三年前の、私の誕生日。
彼は珍しく落ち着きがなくて、ケーキを食べて、後片付けをしたら、私に座るように言った。
向かい合って座って、彼が口を開いた。
もし、僕と結婚してほしい、って言ったら、君、どうする?
しばらく、答えられなかった。そんなことは考えたこともなかったし、それがいわゆるプロポーズというものであることにも気づかなかった。
だから、素直に「それは考えられない」と返した。私はあなたにふさわしくない、人殺しだし、今もこうして迷惑をかけている。あなたにはもっと素敵な人がふさわしい、少なくとも、犯罪を犯さない人が。誰だってそうだろうけれど。
心の底からそう思った。私は彼にふさわしくない。彼のことは好きだけれど、彼の隣で、彼と家族になっている自分を想像できなかった。とても幸せな想像で、とても素晴らしい未来で、それを手にしたいとも思っているはずなのに。
彼は見るからに落胆した。無理をしてなんでもないようにふるまっているのが、よくわかった。けれど彼にかけられる言葉は、数日後には死んだことになる私にはなかった。
あのとき、彼は本当に私と結婚するつもりだったんだろう。そして、私が頷いたら、きっと外でごく普通の夫婦として生きるつもりだった。
思えばあの頃から少し、彼の過保護が増した気がする。君は両親を殺したんだよと、何度も言うようになった気がする。
なるほど、と納得してしまう。私は外に出る機会を、自分で蹴っていた。彼は私を手放さないために、私が思い込みから抜け出さないようずっと言い聞かせてきた。
外に出て、警察へ行こう。
罰を受けるべきはやっぱり私なんだろう。彼は善人だけど、悪人でもある。罪を犯したのは私だけじゃなくて、彼もだ。けれどそのきっかけを作ってしまったのは私に他ならない。
だから、私が両親を殺した。本当は違うけど、私が殺したのだ。
私用の靴はない。靴下もない。外出なんてこの十年、一度もしなかったのだから必要がなかった。
室内用のスリッパもいつの間にかなくなっていて、裸足で出るしかないらしい。顔も汚いし、全身血だらけ傷だらけだ。服も何日同じものを着ているかわからない。
正直、こんな姿で外に出るのは気が進まない。交番に着くまでに通報されるかもしれない。でも、それくらいでやめるわけにはいかなかった。
手も足も震えるのは仕方がないことだと許されたい。だって、十年もここから出ていない。ついに、と思うと、これまで挑戦してきたときより激しく震えてしまう。指先の感覚なんて、もうまったくなくなってしまっている。
かちゃ、と鳴った音はとてもゆっくりで、両手でドアノブを握る。力が入らなくて、握るというより添えるという表現の方がぴったりだ。
「……ごめん」
彼は確かに私を救ってくれたのに。救われた私は、彼を裏切ろうとしている。
大きく空気を吸って、吐き出さずに一瞬だけ息を止める。ドアに体を押し当て滑る手にできる限りの力を込めて、――ドアノブを回した。
扉の向こうには人がいる。天井はなく、果てしない空がある。風が吹き、音があふれている。
私の記憶にある「外」という場所は、そういうところだった。
だから、部屋のドアを押せば、そういう風景が見られると思っていた。
必死になって私が開けたドアの向こう。そこは、茶色い木の壁だった。
「うそ……」
口からもれたのは声なのか、それとも吐息なのか自分でもわからない。
そこは明らかに室内だった。見たことのある廊下だ。電気は消されていて、少し埃っぽい。そこに流れる空気を、私は知っている。
玄関から一歩、廊下に出たところで、足に力が入らなくなって座り込んでしまった。しばらく、呆然とした。ただ目の前の壁をぼんやり見つめて、この状況を受け入れられなかった。
「外じゃ、ない……」
それどころか、きっと、私はひどい思い違いをしていた。
私が十年いた部屋は、彼が用意したどこかのマンションの一室。私はそう信じていた。
けれど、彼は一度も――たったの一度も、そんな説明はしていない。
壁を支えにふらふらと立ち上がり、歩く。
一歩一歩に一年をかけているんじゃないかと思うくらいゆっくりと進む。心臓だけがありえないくらい速く動いていた。
やがて階段に行き当たって、注意しながら下りる。廊下はとても長く感じたけれど、そんなに長い距離を歩いたわけではない。ごく一般的な、一軒家の、二階にある廊下だ。階段だって、そう長いわけじゃない。
嘘であってほしかった。
階段を下りた先には、さらに廊下があり、近くのドアを開ければ居間がある。
小さく開いたドアの隙間から覗いた居間は、確かに私の記憶にある、私の家の居間だった。
掃除はあまりされていない。空気も淀んでいる。けれど、十年も放置されたようでは、なかった。
私は、十年ずっと、自分の家にいた。
十年前、あの部屋に行くまでに、二か月ほど彼の家にいた。
たぶんあのとき、彼は私の家の二階を、改装していたのだろう。彼の家、そして彼の仕事を考えれば、やれないこともなさそうだ。二階にあった私の部屋と、両親の寝室との壁をなくしたら、あの部屋とちょうど同じくらいになる。
嫌な予感がする。背中に冷汗がつうっと伝う。
走って玄関へ向かった。前を見るのも、後ろを見るのも怖くて、下だけを見ていた。異常なほど長く感じる廊下を抜け、懐かしい玄関に辿り着く。
玄関は薄暗かった。玄関ドアには一部ガラスがはめられているから、他よりかなり明るいはずなのに。
ガラス越しでも自然の光を見て希望を得たい。そう思って顔を上げる。
――こういうとき、私の嫌な予感はたいてい当たってしまう。




