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引きこもって十年目。
これは監禁だと気付く。
二十六回目の誕生日の日、ロウソクの突き刺さったケーキを見ながらふと「おばさんになったなあ」と思う。
毎晩うちに通ってきてくれている、料理上手な彼の手作りケーキだ。見た目も良ければ味も良し、どうして女に産まれなかったのか不思議なくらいの腕をもってして作られたそれは、ここ数年、一度として同じ味のものはなかった。果物がたくさん乗っているやつもあったし、チーズケーキも、チョコケーキもあった。どれも全部おいしかった。
二十六本のロウソクが刺さっている今年のケーキは、オーソドックスなショートケーキ。見本みたいにきれいなケーキだ。
電気を消して、年々まぶしくなっていくロウソクの火を吹き消して、今日はいつもより上機嫌な彼がケーキを切り分ける。手際よく、均等に八等分。断面もケーキ屋さんのチラシみたいにきれいで、こいつはなんで今の職に着かなきゃならなかったんだろう、なんてその才能が惜しくなる。
「二十六歳、おめでとう」
「ありがと」
もう今日で十回は聞いたその言葉に、けれど毎回にやけてしまう。
甘いものが得意じゃない私に合わせたケーキは重たくなくて、いくらでも食べられそうな気がする。滅多に運動なんてしないし、そもそも外に出ないんだから、あんまり食べ過ぎたら太ってしまうのに。
引き込もってはじめての誕生日のときは、そんなことも気にせずに食べていたなあ。十七歳になったばかりで若かったから、多少は今より気にしなくてよかったのだ。今はもう、そろそろちゃんと気にかけないと、十年前のようにはいかない。
そう考えて、気付く。
もう、私がこの部屋に引き込もって、十年になるのか、と。
「……十年だね」
彼に、確認の意味も込めて、言ってみる。
すると彼は、そうだねえ、なんてのんきな声を出した。
「十年だね。長いようで短かったね」
「そう、だね」
本当、長いようで短かった。十六歳だった私はいつの間にか二十六歳、昔の友人たちは、もしかしたら結婚して、子どももいるかもしれない年齢だ。
「ねえ、私、そろそろ外、出よっか」
「だめだよ」
もう出たって大丈夫だろう。そう思って発言したのだけど、彼は気に入らなかったらしい。優男という言葉がよく似合う顔の、きれいな形の眉毛と眉毛の間に、深いしわが生まれた。
「確かにもう君は死んだことになったけど、君は人を殺したんだ。時効もなくなった。まだ、あのときのことを覚えている人はいるでしょ」
「そう、だけど。でも自殺で済まされたんだから、もうそろそろ」
「だめなものはだめだよ。もう少し、僕がいいって言うまでは、ここにいよう。ね?」
三年前も、同じことを言われた覚えがある。
でも仕方がない。私が人を殺したから、こんなところに引き込もって、諸々の処理を彼がしてくれているのだ。警察とも繋がりを持っているらしい彼が、まだ危ないと言うのなら、そうなのだろう。
吐きたくなるため息を飲み込んで、ごめんと言う。彼は困ったように笑った。
「謝らないで。僕こそごめんね、強く言い過ぎた。君を守りたいだけなんだ」
「じゃあ、ありがとう。もうちょっと世話になるね」
言い直せば、今度はまぶしいくらいにきれいな笑顔になった。
食器の片付けは一緒にやる。本当は私一人でやって、いつも料理をしてくれる彼を休ませたいのだけれど、彼が滅多に譲ってくれないのだ。仕事もして、私のところに毎日来て、家事のほとんどをしてくれている彼に、申し訳ない気持ちがいっぱいになってしまう。
彼が洗って、私が拭く。この役割分担には、ほとんど満ち足りたこの生活で唯一不満しかない。ほんの少しの手伝いすらさせてもらえないなんて、いつまで彼は私を甘やかすつもりなんだろう。もう、子どもでもないのに。
「あっ」
口には出さないで、心のなかだけでそんなことを言っていたら、手が滑ってしまった。ぱりん、と耳に痛い音が響く。
「あ……ごめん」
「待って。僕が拾うから。大丈夫? 怪我は?」
「ない。ごめん」
「それならよかった。疲れてるのかもしれないね。もう横になった方がいいよ」
でも、なんて言う隙もなく、彼に背中を押されてベッドへ連れられる。あとはやっておくから。そんなことを言われてしまうと、無理に手伝うこともできなくなる。
小さな台所に戻った彼が、私が割ってしまった皿を片付ける音が聞こえた。しばらくして、食器洗いを再開する音も。なんだか頭がぐらぐらする。その理由は、なんとなくわかっていた。
すべて終わらせたらしい彼が、寝付けない私の様子を見に来た。心底、心配している顔をしていた。
「大丈夫?」
「大丈夫。ごめん」
「謝られるより、ありがとうって言ってくれる方が嬉しいなあ、僕」
「……ありがと」
「どういたしまして。ねえ、本当に大丈夫? 顔色が悪いよ」
顔を覗き込んでくる彼が、なんだか少し不気味に見える。こんなに優しい顔をしているのに。私の中に生まれたミリ単位の疑惑が、彼の優しさすら恐怖に変える。
「ごめんね、今日はどうしても帰らなきゃいけないんだ。君を一人にするのは怖いけど……」
「大丈夫、だから。帰って、仕事も、大変だったでしょ」
「……うん。ごめんね。明日の朝、ちょっと寄ってくから」
「わかった。いつもありがと」
「何かあったらすぐ連絡するんだよ。飛んでくるから」
「うん」
「じゃあ、おやすみ」
「おやすみ」
私の頭を軽く撫でて、彼は電気を消しながら部屋を出ていく。玄関のドアが閉まり、ガチャリ、と鍵が閉められて、私はようやく大きく息を吐いた。
引き込もって、もう十年。最初の約束では七年だった。七年だけ引き込もって、死んだはずの人間として、こっそり、誰にも気にかけられないように生きていくはずだった。それなのに、もう十年。
この十年で私は何度も外に出ようとしてきたけれど、すべて彼が止めてきた。罪を犯したのは私だ、彼の心配も理解できた。だから、私は。私は、外に出るのを諦めてきた。この部屋にいて不自由なことは何一つなかったから。何もかも彼が用意してくれたから。テレビも何もないけれど、彼が持ってきてくれる本があったから、特に暇になることはなかった。
彼はいい人だ。私を連れ出してくれたから。私を匿ってくれているから。この部屋だって、彼が用意してくれた部屋だ。家賃だって彼が出してくれているんだろう。生活費も、全部、彼が。
けれど、何かがおかしい。彼の少し異常な過保護さも、私がやったことを思えば納得できるけれど、それでも、おかしい。
彼が作ったケーキを食べながら、ふと気付いたことがある。
もしかしたら、これは、監禁というやつなのかもしれない、と。
電気の消えた部屋は、外の光も入ってこない。壁掛けの時計は、針が二つとも十二を指していた。
もぞもぞ身を捩りながら、ベッドから出る。電気を着けて、部屋を見回す。ものは少ない。でも、どこもおかしくはない。よくあるただの1DKだ。
十年間、一度も開けたことのない窓に近付く。ぴったりしめられた遮光カーテンに、どきどきと胸が変な動きをしているのを感じながら、手をかける。
ちょっとだけ、手が震えている。目を閉じ、息も止めて、勢いよく横に流す。
――恐る恐る目を開けた先は、ただの壁だった。
「うそ……」
私がこの十年、窓だと思っていたところは、ただの壁だった。ただ壁にそれらしくカーテンがかけられているだけだった。なんということだ。私はずっと、ここを、窓だと、この位置に、窓があると、思っていたのに。
『外から中を見られて、君がいることがばれないように、絶対に窓を開けないで。カーテンもだよ。できるだけ近付くのも控えた方がいい』
十年前に彼が言ったその言葉を、私は律儀に守ってきた。彼がここに窓があると言うのなら窓があるのだろうし、近付かない方がいいと言うのなら近付かない方がいいのだろう。そう思ってきた。
だけど。これはいったいなんだ。ここに窓なんてないじゃないか。
ゆっくりそこから離れて、もう一度、部屋を見回す。何もおかしいところはない。おかしいところはないけれど――おかしいことは、いくつかあった。
この部屋に来てから一度も、隣人の存在を感じたことがない。普通、アパートやマンションの一室を使っていたなら、少しくらい隣の住人の生活音が聞こえてくるものだ。それなのにそんな音は一度も聞こえなかった。微かな音さえも。
言い様のない不安が私を押さえつけているようだった。息が、苦しい。どうしてこんなに急に、こうも不安になるのか、自分でもわからない。ただただ、怖い。
隣に人がいると信じて、壁をあちこち叩いてみる。人が住んでいるのなら、叩き返すか文句を言いに来るかするはずだ。私が外に出るわけにはいかないから、向こうから来てもらわなければ。そうしたら、私は顔を見せず、相手の存在だけを確認できる。
必死になって叩いて回った。なかなか反応がなくて不安はますます大きくなっていった。息切れして、疲れきるまで叩き続けた。
そう長い間、やっていたわけではなかった。ずいぶんと体力が落ちてしまっている。
反応は、ない。じんじんと痛む手が、今まで感じたことのない孤独感を呼び起こした。
汗をかいてしまったからシャワーを浴びる。シャンプーを二回するくらいには頭が混乱していた。信じたくない思いが強いけれど、冷静な部分では警鐘がなっている。
とにかく明日、彼に話をきかなければ。こんな私をずっと匿ってくれていた彼が、監禁なんてするはずない。私の思い込みだ。十年も引きこもっていたから、頭がおかしくなっただけだ。きっと、そうだ。