決戦、桶狭間
現代では桶狭間の戦いは奇襲戦だと言われている。教科書にもそう載っているし、日本三大奇襲なんて風にも言われてる。状況的に見ても悪天候の上、信長が義元に勝つには奇襲しかないという思い込みもあったと思われる。
信長の義元本陣への襲撃に先立ち小規模な戦闘が行われていた。信長出陣の報を聞いて意気の上がった部隊が今川軍の前衛部隊に攻撃を仕掛けたのだ。しかしこの部隊は壊滅してしまう。緒戦に引き続き勝利したことを義元は大いに満足したという。
ちなみに俺は奇襲ではないと思っている訳だが、根拠と言えば昔呼読んだ史料の記述がどう読んでも強襲にしか見えなかったからだ。加えて義元が奇襲を許すような布陣をしていたとは考えられない。後世では都かぶれの愚将という印象が先行しているが、とんでもない傑物だ。上杉謙信と武田信玄の戦いに介入できると言えばどれ程のものかが分かるだろうか?
甲斐の武田、相模の北条と同盟を結んでいて後顧の憂いはない。そんな状況を作り上げてやって来た人物が凡夫な筈はなく、隙のある布陣などあり得ないだろう。仮にも東海道一の弓取りと云われる人物だ。
しかしそんな義元も人間だ、気が緩む時もあれば油断するときもある。天気は大荒れ、さらに今川軍は遠征軍であり既に一戦交えていたりする。対する信長軍は地元民な上、新手で疲れはない。これ以上の隙はないという瞬間に襲撃をかけたのが桶狭間の真実だと思う。
実際に戦の流れを勝家をはじめ戦に出ていた者たちに聞いたが、記述との差異はなかった。今川軍は約二万から二万五千だったが、義元本陣は五千程しかいなかったという。そこに二千から三千程の軍勢で強襲し、義元一本狙いにした信長の作戦勝ちだろう。
信長が義元本陣を強襲した根拠としては、前線の砦から砦への移動があげられる。信長は移動する際に特に遮るものがない道をあえて通っている。家臣達は危険なので止めようとはしたようだが構わず移動したらしい。
そこから直進して義元が本陣を構える山に向かう、そのとき天気が崩れて大荒れとなったらしい。麓に到着する頃には雨も止み、信長の号令のもと一気に駆け上がり襲撃したようだ。襲撃を受けた本陣は混乱に陥り、義元は三百騎ほどに囲まれて後退していたが補足され討ち取られた。
今川本隊が尾張から撤退しても尾張の今川方の緒城は抵抗していた。だが勢いに乗る織田勢に沓掛城を攻略され、鳴海城の守将も義元の首と引き換えに城を明け渡した。
こうして信長は尾張から今川勢を駆逐することに成功したのだった。