いざ、桶狭間へ
尾張に侵入を果たした今川義元は沓掛城に入場する。その夜には松平元康(後の徳川家康)に大高城へ兵糧を届けさせた。
この事態に織田方は籠城すべきか、それとも出撃すべきか軍議が紛糾する。しかし信長は特に何をすることもなく集まった家臣に解散を命じたらしい。家老たちはその様を嘲笑して帰っていったみたいだ。ちなみに俺は末森城で謹慎中です。
信長が何も行動を起こさなかったのは、家老たちを信用していなかったから何て言われている。信長が信用していたのは自分で見出だした馬廻り衆だけみたいだ。
翌日今川軍は織田方の丸根、鷲津砦に攻撃を開始した。その報を聞いた信長は幸若舞「敦盛」を舞い出撃、熱田神宮に向かった。この時信長に付き従っていたのは、なんと六騎だけだったらしい。幸若舞の「敦盛」は有名なので知ってる人も多いだろう。
『人間五十年 下天の内を比ぶれば 夢幻の如くなり』これに加え『死のうは一定 忍び草には何をしようぞ 一定語りを越す世の』という小唄が、信長の人生観だと俺は思っている。この小唄は信長の自作だと言われている。実際に聞いたことはないが、よく口ずさんでいるらしい。
『人間五十年~』の内容は「人間の寿命は五十年しかない、下天と比べれば、夢や幻のようだ」になると思う。六欲天の最下層で一昼夜は人間界の五十日にあたる、住民の寿命は五百年ぐらいだ。人間の寿命短いってことだ。
『死のうは一定~』は「死ぬのは決まっている。死んだ後に語ってもらう為には何をしようか。世を越えて語り継がれるものを」かな。簡単に言うと「後世に名を残すにはどうしようか」だと思う。
熱田神宮で兵が集まるのを待った信長は戦勝祈願を行った。そう戦勝祈願を行っている。信長は宗教が嫌いな訳ではないのだ。
信長が二千から三千ほどの軍勢を整えていた一方その頃、丸根砦では大将の佐久間盛重が討ち死にしていた。あいつです。ほぼ同時刻に鷲津砦も陥落して守将は敗死している。
この間に信長隊は義元本陣に向けて進軍していた。
敦盛、小唄の当て字は個人的なもので何の根拠もないです。
一騎は馬に乗った武士とその郎党をまとめた表現です。郎党の数は武士の身分によって変わります。