岩倉を討つ
時は流れて永録元(一五五八)年、信長は岩倉織田氏を討つべく兵を進ませた。これは岩倉家で内紛があり、この機に乗じて尾張の支配を確実な物にするためである。
岩倉家は上四群の守護代であり、まだ健在だった。守護代織田信安は美濃斎藤氏と手を結び、信長を攻撃するなど敵対関係にあった。ところが信安は長男ではなく次男を跡継ぎにしようと画策していた。しかし、逆に次男もろとも追放されてしまった。
尾張下四群を支配する守護代織田信友を破り、保護していた守護も敵対したので追放。稲生で信勝派を黙らせた信長は、尾張の支配領域を増やしていた。
しかし下四群の内二つは家臣の裏切りにより今川家に奪われていた。今のところ動きを見せない今川家だが、尾張に侵攻してくるのは時間の問題だった。そこで好機だということもあり、今の内に岩倉家を攻めることにしたようだ。
岩倉侵攻にあたり信長は、岩倉のさらに北にある犬山の織田信清に自分の姉を嫁がせて味方に引き込んだ。信清は父信秀の死後に独立勢力と化していた奴だ。
信清を味方に引き込むことに成功した信長は岩倉に兵を進め、浮野の地で岩倉軍と激突した。岩倉が三千なのに対して信長は二千。両軍は激戦を繰り広げていたが、犬山から一千の援軍が到着すると流れは一変して岩倉軍は壊滅した。のちに城を包囲された岩倉方は降伏して落城、城は破却された。
これにより信長は尾張統一にまた一歩近づいたわけだが、信長に休んでいる暇などない。まだまだ尾張の支配は盤石とは言い難く、信長は今川家を尾張から排除すべく動き出す。
次回ついにあの戦いが始まります。