武田家の滅亡
天正十(一五八二)年、一月十六日。
先年に信長の勘機を蒙り追放されていた佐久間信盛が紀伊国熊野の奥地で死去した。これには思うところがあったのか息子の信栄に赦免と領地の安堵を申し渡した。帰参した信栄は岐阜へと出仕し、信忠に御礼を申し述べた。
一月二十五日。
伊勢神宮より三百年目を最後に途絶えていた遷宮を再興して欲しいと申し入れてきた。信長は必要な額を訪ね、答えられた額より多くの銭を渡した。理由は足りない分は民からの寄進で賄うとの事だったが、それでは民の負担が大きすぎると多目の額を用意させた。
二月。
信濃国の木曽義昌が内通に応じたとの報が届けられる。信長はただちに国境の兵を動かして、人質を確保しろと下知した。国境を任されていた将はすぐに動き木曽の軍勢と合流して、人質の受け渡しに成功する。
武田勝頼は翌日には出陣して、諏訪の上原に着陣した。
翌三日には信長より出陣の下知が飛ばされ関東から北条勢が、東海からは徳川勢が、岐阜からは信長と信忠が武田領に侵攻した。
この侵攻により内応と敗走が相次ぎ、勝頼は城を固めることを決断する。
勝頼は堅城の高遠城でひとまず凌ごうと考えていた。ところが信忠の軍勢が高遠城に到着。信忠自らが城に取り付き戦い、それを見た将兵は奮気した。これにより高遠城は思ったよりも早く落城してしまった。高遠城は落城して信忠の軍勢が新府城に向かってくると聞いた武田の者は、戦の支度もせずに各々逃げ出していった。勝頼は僅かな供回りのみを引き連れて落ち延びていった。
しかし最後には追手に追いつかれしまう。最初は三百人はいた供回りの者も、この時には四十人ほどだったらしい。戦国最強と云われた武田家はこうして滅亡した。




