尾張の大うつけ
この頃なぜ信長は四方を敵に囲まれる形になってしまったのか、その事について考えてみよう。おそらくだが理由は単純明解だ、ただ単に日頃の行いが悪かったからだろう。
着物は着崩し、腰には瓢箪と火打ち石をぶら下げて刀の鞘は朱色。歩きながら柿や瓜を食べ、人にもたれ掛かりながら城下を練り歩いていたらしい。コンビニの前に屯する不良みたいなもんだな。そんな姿を見聞きした者たちはどう思うだろうか。
あいつが当主なら勝てる。
あんなのが当主で本当に大丈夫なのか?
皆がそれぞれの想いを胸に、最善だと思う行動を起こした結果がなんちゃって信長包囲網の形成になってしまったんだと思う。なんちゃっての理由はそれぞれが協力することはなかったが、信長は孤立無援の窮地に立たされていたからだ。
そんな信長は当主に就任してからは苦難の連続だった。たがしかし、皆が信長を侮っていた訳ではない。信長の筆頭家老である林は反旗を翻したが、逆に信勝付きの家臣である佐久間信盛、盛重は信長に味方していた。俺は二人に見限られた事になる。別に良いけど。
その他にも信長には親衛隊と言える者達がいた。馬廻り衆だ。彼らはいつも一緒だった。町を歩いているときも戦場にだって一緒にいた。周りの大人を信用出来ない状況にあった信長にとって、自分を慕って着いてきてくれる者達を厚く信頼していた。
そんな彼らも有象無象の自分達を拾ってくれた信長の為に獅子奮迅の活躍をする。中世の身分制度が続いていた中、やる気さえあれば職をくれたのだ。彼らの働き無くして尾張の動乱を乗りきることなど出来なかっただろう。
こんな記録がある。ある戦で勝利するも馬廻りの中からも数多くの戦死者が出た。死んだ者達の名前を聞くたびに信長は「あいつもか、こいつもなのか」と涙を流して悲しんでいたという。信長は本来、情に厚い男なのだ。一部の行為から残虐な人物だと思われ勝ちだが、この手の話は結構残っている。
見限る奴もいれば、味方する奴もいる。捨てる神あれば拾う神あり。信長はけして一人だった訳ではない。そして、今後はこの俺も加わる。手始めに保身を多分に含んだ情報提供をしておこう。