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秀吉、奔走する
松永討伐が完了した後、羽柴秀吉は播磨国(現在の兵庫県東南部)へと向けて出陣した。秀吉は昼に夜に播磨を駆け回り、諸将から人質を出させる事に成功する。人質を出すということは降伏することを意味する。
秀吉は十月には播磨の平定が完了すると、信長に報告する。この報を聞いた信長は早々の帰国を許す旨を申し伝えたが、秀吉は「さしたる働きなし」と但馬国(現在の兵庫県中南部)まで進軍して、岩洲城と竹田城を陥落させた。北陸での無断離脱の罪を払拭するためだと思われる。
十一月。秀吉はさらに軍を進めて上月城の攻略に掛かる。さらに周辺の福田城にも竹中半兵衛、黒田官兵衛を派遣して攻めさせた。すると福田城に向けて宇喜多直家の率いる軍勢が敵方への援軍に現れた。それを聞いた秀吉は上月城を離れて宇喜多勢と戦い、撃退する。
秀吉は宇喜多撃退後に上月城の攻囲に戻ったが相手は七日後には降伏し、福田城も落城した。




