松永の最期
八月。信長の指示により北陸に派遣していた柴田勝家が軍勢を率いて加賀へと進軍した。これは越中・能登(現在の福井県・石川県北部)に進軍してきた上杉軍を警戒してのことである。両軍は手取川で対峙して、織田軍の大敗で終わった。この時に戦の直前で羽柴秀吉が許可なく離陣したことが信長の逆鱗に触れ、秀吉は激怒されている。
この上杉軍の動きを見てか何なのか、松永久秀が離反する。松永は対本願寺の前線の砦である天王寺砦を任されていたが、退去して大和国(現在の奈良県)の信貴山城に籠城した。信長は使者を送り、「何故なのか詳しく話せ、もし訳を話せば、お前の望みを叶えよう」と問うたが、松永が答えることは無かった。
交渉の余地の無しと判断したのか、信長は松永の出していた人質の処刑を命じる。人質の者は十二・三の子供二人で、一旦は村井さんの所に置かれた。村井さんは色々と気をまわしていたが、今までの待遇に対する礼を書き残して連行されていった。
子らは六条河原にて処刑された。彼らは落ち着いた様子で念仏を唱えながら処刑された。これを京の貴賤の人々が見物しており、哀れさに涙が止まらない者で溢れていた。確かに見ていて気分の良いものではなかった。
十月。信忠が兵を率いて信貴山城を取り囲む。松永勢も果敢に応戦したが、遂には弓は折れ矢も尽きた。松永は城に火を放ち死んだ。




