紀伊征伐
天正五(一五七七)年、二月。紀伊国で信長に内応する者が現れた。この報を聞いた信長はすぐに出陣を決める。分国中から兵が集まり信長の下知があればすぐにでも進撃を開始できた。
満を辞して出陣した信長は大軍でもって進軍。大した妨害もなく雑賀孫一の居城の攻撃を開始した。
一方その頃、京にもこの事は知らされていた。そこで京に在番の俺と村井貞勝は、村井さんの提案により戦勝祈願と内裏修復の完成祝賀という名目で内裏に築地を造営しないかと民衆に持ち掛けた。
民衆はこれを受け入れて、在京の織田兵の警固の下に造営が開始された。三月から工事は開始され、受け持ちの区画ごとに舞台が設けられた。その上では着飾った者達が華やかさを競い合い、笛や太鼓の鳴り物て囃し立た。老い者も若い者も興奮し、舞い躍りながら造営を進めていった。
折しも季節は桜の舞う時期、人々は貴賤を問わずに見物に訪れた。これを内裏の住人である帝なども楽しんでおられたご様子。造営は瞬く間に完成した。
織田軍が長期に渡って対陣している紀伊では、戦火によって荒れ果てていた。これに困った雑賀衆は大阪での事に配慮を加えるという条件で降伏を願い出た。
今回の出兵は雑賀衆の討滅が目的ではなく、対本願寺における敵勢力の削減が目的である。拠点に籠る相手は少ない方が良い。無理して雑賀を滅ぼす必要はなかった。




