天王寺及び木津川口の戦い
四月、信長は本願寺攻めを命じる。明智光秀、細川藤孝、荒木村重、原田直政の四名に加え、畿内の者達が攻略にあたった。荒木が海上から、他三将が陸上から攻囲する。
敵方の木津の地を押さえることが出来れば、完全に封鎖することが出来る。そこで信長は攻囲衆にこの地を攻略するように命じた。
この命を受けた攻囲衆は畿内衆中心の攻略軍を派遣し、原田直政がこれを担当した。木津の攻略に取り掛かった織田勢だが、別の地から出撃してきた一揆勢一万余に逆に包囲されてしまう。畿内勢から一挙に崩れた織田勢だが原田が何とか立て直したが、数刻の激闘の末に原田をはじめ多数の者が討死してしまう。
勝ちに乗じた一揆勢は明智光秀の守る天王寺砦を包囲する。このとき信長は京にいたが、この報を聞いて直ぐに兵の召集をかけた。
信長は兵の到着を待つことなく、百騎程を引き連れて出立してしまう。そして同日には若江の地に到着し、次の日も兵の到着を待ちながら情報を集めていたが、急な召集だった為に待てども兵は集まらなかった。
しかし天王寺砦の状況は一刻の猶予も許さず、現地からは「保って四日、五日は抱え難し」と窮報が矢継ぎ早に届けられ続けていた。ここに信長は「包囲されている者達を殺される訳にはいかない」と言い、現在集まっていた三千の兵で天王寺砦を包囲する一万五千の一揆勢に向けて出陣した。
信長は先陣の足軽の中に混じり戦場を駆け巡り全体の総指揮を取っていた。一揆勢は鉄砲を雨霰に撃ち込んできたが、これを懸命に防ぎ敵を切り崩すことで血路を切り開き、砦勢との合流を成功させた。この戦いで信長は足に鉄砲の弾が命中していたが命に別状は無かった。
砦の味方と合流した信長は再度攻撃を下知した。諸将は兵力差から諌めたが、「今が絶好の好機である」とこれを退けた。そして兵を編成し直して出撃する。出撃した織田軍は一揆勢を撃破、石山近くまで追撃して二千七百程を討ち取った。
この戦いの後に大阪の付近に十の付城を築かせて、天王寺砦に佐久間信盛、松永久秀らを入れ、信長は安土へと帰還した。
7月、大船七、八百艘の大船団で毛利水軍が押し寄せてきた。目的は海路から本願寺へ兵糧を入れることだった。これを迎え打つべく本願寺の海上閉鎖していた織田水軍が展開した。
海上では織田水軍は三百艘程の船艇が毛利水軍を迎撃し、陸上では出撃してきた一揆勢と激戦を繰り広げていた。しかし織田水軍の船は次々と沈められていき、数多の将兵が討死した。




