躍動する反乱分子
野田・福島が三好三人衆が居座っている現状で、対陣が長引くことを嫌った信長は浅井・朝倉軍に対して山から降りて潔く雌雄を決しようと使者を送るも返事は無かった。
しかし、しばらくしてから浅井・朝倉軍から講和の申し出があったが、相当鬱憤が溜まっていたのか信長は是が非でも決戦でけりをつけると申し出を拒否した。
そんなこんなで信長が比叡山に釘付けになっている間に三好三人衆は野田・福島城を修復したり浪人を集めたりと示威行動をしていたが、織田勢の近隣の諸城は堅固に構え、畿内に残してきた者も砦を築くなど守備を固めていたので京へ進むことは出来なかった。
南近江では再び六角親子が蜂起したが、人数も少なく戦にもならなかった。また本願寺門徒も蜂起したが、百姓の集まりでしかないので人数が多くても驚異ではなかった。この事には木下・丹羽の二人が各地を転戦し鎮圧した。二人は横山・佐和山に十分な守備兵を残して信長の下へと参陣した。
伊勢長島でもこの情勢を見て一揆が起こり、俺達の弟である信興が守る城まで攻め寄せた。信興は城内まで突入されるのを見て、百姓の手によって殺されるのは無念と自害して果てた。
冬になり朝倉勢は雪により帰路を閉ざされようとしていた。そのため朝倉勢は将軍を通して休戦の申し入れをしてきた。最初は応じようとはしていなかった信長だが、将軍からもう一度休戦の要請があったのでしぶしぶ応じた。
こうして浅井・朝倉軍と織田軍は講和に至り、浅井・朝倉軍が領国へと引き上げたのを見届けてから岐阜へと帰還した。




