剣豪将軍の死
永録八(一五六五年)年、室町幕府第十四代将軍足利義輝公が御所を襲撃され亡くなる。当時天下を牛耳っていた三好家は、義輝公が自分達を排除しようと考えていたことを危惧して事を起こした。
義輝公は三好勢に重囲される中、自ら将軍家伝来の宝刀を手に奮戦するも多勢に無勢、御殿に火を放ち自害された。剣豪塚原卜伝の直弟子の一人と聞くと、その最後を想像するのは難しくないだろう。
優れていたのは刀の腕だけではなく、政治的な才覚も持ち合わせていたようだ。幕府の権力と将軍の権威の復活を目指して各地の大名同士の抗争を頻繁に調停を行うことで幕府や将軍の存在を知らしめ、諸大名に自分の名の偏諱(一字)を与えたり、役職を与えるなどして懐柔策も巡らしていた。
そんな将軍たり得る器を持つ義輝公は、天下を牛耳っていたい松永久秀や三好三人衆にとっては邪魔な存在であった。時は戦国、最後に物を言うのは力だった。
所替わって大和国興福寺に義輝公の弟君であらせられる方がいらっしゃられた。名を覚慶と言い、還俗された際には名は義秋と名乗られた。後の室町幕府第十五代将軍足利義昭公である。
義昭公は寺を相続されるのなら危害は加えないという三好勢の言葉を信じていたが、次第に身の危険を感じ始めた為に脱出した。
脱出した義昭公は南近江の六角家を頼り、伊賀・甲賀路を下った。しかし六角家に協力を要請するが、満足の得られる解答は得られなかった。
六角家の協力を得られなかった義昭公は越前に下向する。越前国は朝倉家が支配している国である。本来は朝倉家が支配する国ではなかったが、前当主の代に将軍家から支配を認められていた。だがここでも力を貸してもらうことは出来なかった。
痺れを切らした義昭公は信長の下へと使者を送った。信長が上洛の大義名分を手に入れた瞬間である。




