八.目は前にしかついていなかった(二)
その日、悠が山の中腹にある神社に帰ってきたのは、日も暮れた頃だった。
「もう、なんでこんなに遅いのさ!」
帰ってきた途端、一人で留守番していた小梅にわめかれるが、悠の耳には遠くで聞こえるただの雑音でしかなかった。
「……奏は?」
いつもと違う悠に気付いたのか、小梅はさっと黙ると、静かな口調で答えた。
「まだ、帰って来てない。多分、瀧じゃないかな?」
部屋へ向かう途中だった悠は、その言葉を聞くと、玄関の方へ向きを変えた。
「ちょ、ちょっと。まさか、ユウ君、滝に行くつもり? もう日も沈んでいるし、やめた方がいいって」
「あいつはまだここに来たばかりだぞ? それなのに僕には行くなってか?」
「……ああ、もう! ちょっと待ってて」
そういう小梅の言葉も、悠の耳には届かなかった。
足だけが、ただ進む。
一刻も早く、「視える」ことを何とかしたくて仕方がなかった。
玄関で靴を履いているときに、小梅は小走りでやってきた。
「ほら、これ」
そう言って手渡されたのは、懐中電灯。それと、日子が奏に渡すよう持たされた懐中時計だった。
「これで時間見ながら探して。もし、森に入って見つからなかったら必ず戻ってきてよ。そうじゃないと、ユウ君森で迷子になったって思うからね」
睨むように悠を見る小梅の目には、うっすらと不安の感情が滲んでいた。
悠はぽんっと小梅の頭に手を乗せると、一言呟いた。
「……ありがとう」
◇
夜の森は、昼間とは違う顔、まるで別世界だった。明かりが乏しく、闇が濃い。何かの気配を周囲から感じる気がするが、それが何なのかわからない。
襲われるかもしれないという不安に駆られながらも、悠は懐中電灯の明かりを頼りに前へと進んだ。
草をかき分け、先へと進む。しばらくした後、ポケットから懐中時計を取り出した。小梅から渡された、奏の懐中時計だ。
奏はまだここに来て日が浅い。
それなのに、白龍の瀧へ誰の案内もなしに来ていた。普通なら考えられないことだ。
それもこれも、あいつも同じものが視えているからなのか?
空の切れ目から出てきた得体のしれないもの――。あれは一体何なのか、それはいまだにわからない。ただ、視えるからといって、白龍の瀧に行けるとは、悠は微塵も思っていない。それなら自分にも何かしら視えるものがあるはずだからだ。
良明が連れてきた得体のしれない人間。自分と同じように「視える」だけでなく、それが何なのかを知っている。
――これは、ただの偶然なのだろうか?
懐中電灯の明かりを時計に向けた瞬間、悠は思わず舌打ちをした。
奏の懐中時計、それは長針と短針そして秒針だけの簡素なデザインのもの。それは知っていたため、きちんと短針の位置を確認して玄関を出た。
なのに、だ。
秒針は動いているものの、短針と長針は少しも動いていなかった。
◇
満月の夜は、好きじゃない。明るければ明るいほど、目は眩む。だけど、鬱蒼とした森の中では、呑み込まれそうなほど闇が濃く、その淡い月明かりにすがりたくなる。
役に立たない懐中時計を片手に、悠はとりあえず先へ進むことにした。
一歩一歩、歩みを進めるたびに、戻れなくなるのでは、と錯覚しそうになる森の中。
恐怖がないわけじゃない。むしろ、足は震えている。それでも先へ進むと決めたのは、悠が知りたいことを知っているのが奏だけだからだ。
ずっと知りたかった。
どうして他の人には視えないのか、あれは何なのか、――自分で作り出した幻ではないのか、と。
害があったわけじゃない。ただ、視えていただけ。そしてそれはあるとき、みんなが言う「見夢」なのではないかと思うようになった。
幽霊や妖怪でないのならそれしか考えられず、ずっと自分が視えているものは、あの世とこの世の狭間の世界、負の感情が存在しない、幸福の国――。それに関するものだと思っていた。
家の天井や、教室の蛍光灯によくヒビが入っている。そしてそれは僕にしか視えない。時々、そのヒビが光るのだが、そこから何かが出てきたことは、先日の一件まではなかった。それに、人の体が透けて見えることも。
「聞きたいことは、山ほどある」
足元の土をえぐるように歩く悠の心の内は、恐怖より怒りにも近い苛立ちで溢れ返っていた。
轟々と水の叩きつける音が耳に届いたのは、それからすぐだった。暗闇にも目が慣れ、躓くことも少なくなったが、それでも頬や手には擦り傷が目立つ。
「おい!」
轟音に掻き消されることなく、その声はまっすぐ飛んで行った。白龍の瀧を眺める一つの人影に向かって――。
その声に、奏はゆっくり振り向いた。
「お前に聞きたいことがある」
そう言って悠が突き付けたのは、華菜多のハンカチだった。
奏は相手を不安にさせる瞳で、ハンカチでも悠でもない、どこか遠くを見ていた。それを見て、悠は舌打ちをする。
「どうしてあのとき、お前がこのハンカチを持っていたんだ?」
擦り傷を隠すよう渡されたハンカチは、あの日、華菜多が持っていたはずのものだった。
華菜多は白龍の瀧で初めて奏に会ったのだ。奏があの場で華菜多のハンカチを持っていること自体おかしい。華菜多が落としたことも考えたが、それはないと本人に一蹴されてしまった。
――それなら、どうして奏は華菜多のハンカチを持っていた?
背後に月を背負う奏の目を、じっと睨みつけながら、悠はその口から言葉が出てくるのを待った。
しかし、奏に口を開く気配は微塵も感じられない。
「何とか言えよ!」
苛立ちを抑えられず、掴みかかる勢いで迫れば、月が作り出す黒い影が目に映るものをほの暗い世界へと導いた。
僕よりも身長が高い――。影に覆われた悠は、今はどうでもいいことを思う。月明かりの遮られた目で見る奏の瞳は、底なしの穴のように、真っ黒だった。
淡い月光。それを白龍の瀧が反射させ、幻想かつ明るいその場所に、一点の黒。どこかで見たような気がするのは、さすがに気のせいだろう。
轟々と滝の音だけが、あたりに響く。
そのときだ。
さっと奏が屈みこみ、月光で目が眩んだ。その間にパーカーのポケットから、懐中時計を盗られた。もともと奏の時計ではあるが、その取り方に腹が立つ。
奏は、パチッと懐中時計を開くと時間を確かめるようにそれを見た。
その様子を見て、僕は思わず笑った。
「その時計、秒針は動いているけど壊れてるぞ」
嘲笑を浮かべれば、再びパチンと音が聞こえた。そして、まっすぐ向けられた視線。その視線で、笑みも引っ込む。
「……なんだよ」
「別に」
ぼそりと呟かれた言葉。普通なら瀧の音で掻き消される音なのに、悠の耳にはきちんと届いた。
「キミの問いかけ、だけど――」
ゆっくりと紡がれる言葉。だが、その声音は凍てつくほど冷たい。
思わず、生唾を呑み込んだ。
「今のキミに与える答えを、俺は持っていない」
何か言おうと口を開くが、言葉は出てこなかった。
「……俺にはまだ、わからないことだらけだ」
そう呟いて、奏は白龍の瀧の真上にある月を仰いだ。




