七.目は前にしかついていなかった
布団に寝そべり、木目の天井を眺めながら、昼の出来事をぐるぐる思い返していた。
聞きたいことが山ほどある。
部屋の中央をわけるカーテンが、なびいた。奏が戻ってきたのだ。外に誰もいないか確認すると、意を決してカーテン越しに小声で声をかけた。
「……お前、視えるのか?」
返事はなかった。
「おい、何か言っても……」
仕切り代わりの布を持ち上げれば、奏と視線が合う。相変わらず背筋が凍りそうなほどの空虚な瞳。生きているより死んでいる。目が何よりもその人を語ると言っていたのは誰だっけ?
「どっちでもいいだろう」
奏は涼しげな声音で答えた。鋭利な刃物のような声だと思った。
「良くない」
自分だけしか視えないと思っていたものが、視える人間に会ったのだ。しかもその正体を知っていそうな人に。
睨むように無言で圧力をかけていれば、ふっと息を吐く音が聞こえた。そして、奏はこちらを一瞥すると、ぽつりと呟いた。
「聞耳」
「は?」
初めて耳にする言葉に首を傾げる。説明してくれると期待したのだが、それ以上奏は何も教えてくれなかった。
◇
「小梅、聞耳ってなんだと思う?」
図書館に行ってもインターネットで調べても「聞耳」についてこれといった情報は得られなかった。奏がからかったのだと思えばそれまでなのだが、そうは思えない。
「ん? 何?」
テレビを見ながら、もう一度小梅が聞き返してきた。
「聞耳」
「誰から聞いたの?」
小梅はテレビから悠に視線を向けた。少し驚いているように感じるのは気のせいか?
「奏」
ありのままを答えてやれば、小梅は何かを企む悪戯ネコのように目を細めた。
「へえ。意外と仲良くやってんじゃん」
腕組みをしながら言われると、なんかむかつく。
「そんなんじゃない。なあ、聞耳ってなんだと思う?」
「年下のうちがわかると思う?」
「まあ。結構博識だし」
「ふふん、知らなくはないけどね」
「えっ! じゃあ――」
「でも、ただで教えるのはなー」
「飯当番、三日」
「一週間」
「五日」
「ダメ。一週間。なんなら二週間でもいいよ?」
少し考えてから渋々頷く。
「わかった」
背に腹は代えられない。
「やった!。よっしーよりユウ君の作るご飯の方が美味しいもんね」
両腕を高く上げ、嬉しそうに言う小梅に対し、僕は冷めた視線を送った。
「それ、良さん聞いたら泣くぞ」
「そう? でも、おいしいものはおいしい。それは変わらない事実」
「なんかのドラマのセリフみたいだな」
「よくわかったね、セリフだよ」
ふふんっと機嫌がよさそうな小梅を横目に、悠は再び尋ねた。
「で? 聞耳って?」
「いろんなものが聞こえること」
その返答を聞き、思わず小さなため息を吐いた。
「まんまじゃん」
それなら、言葉から推測できる。
「その身を持って経験することで真の理解につながる。これもまた変わらない事実」
「また、ドラマのセリフか?」
「実際、その通りだからね」
――そのうちわかるって。
そう小梅が呟いたのを、悠の耳は拾い上げなかった。
◇
翌朝。
起きたときには、すでに奏はいなかった。朝食の席にいないことも、いつものことである。だからか、「奏はどこにいるのか」と声を上げることができず、そのまま箸を口へと運んでいた。
玉砂利を踏みしめ、石階段を下り、長い道を行くいつも通りの朝。ただいつもと違うと言えば、小梅の言われた言葉の意味を考えながら歩いている、ということくらいか。
「おっはよ、風早」
住宅街を歩いているときだった。いきなり背中を叩かれ振り向けば、そこには口角を上げた山崎が立っていた。
「あれ? 部活は?」
「今日休みでさー」
人懐っこい笑みを浮かべ山崎は答えた。
「でも、休みだからって怠けてもいられねーってことで、先行くわ」
ランニングのつもりなのだろう。あっという間に小さくなる山崎の後姿をぼんやり眺めていた。
あいつ、足早いな。
そのときだった。
山崎の背に大きな穴――。向こう側の景色がありありと目に入る。
「山崎!」
思わず大声で叫んだ。
「ん? どうした、風早?」
だが、山崎は何事もないような顔で振りむく。
痛みも何もないのか?
よくよく見ると、血は出ていない。ただ透けているだけのようだ。
「山崎、腹――」
「腹? オレの腹がどうかしたか? あ! 風早もしかして、朝飯食ってなくて腹減ったのか?」
見えて、ないのか?
呆然と穴の開いた山崎を見ていれば、その穴も徐々になくなっていく。ものの三十秒ほどで何事もなかったかのように元に戻っていた。
「一体どうなっているんだ?」
だが、それは一度だけではなかった。
午前の授業が終わり、解放された気持ちで弁当を開く時間。その教室の一角に悠、山崎、川野はいた。
そして、ただ一人悠だけが浮かない顔を浮かべ、ある一点を見つめていた。
山崎の両足を。
「人の事ジロジロ見て、どうしたんだよ風早」
山崎が部活動の先輩に呼ばれ、廊下に出たときだ。川野が、悠の様子がおかしいことに気付いた。
「お前、あいつに惚れたのか?」
「馬鹿言え。何でそうなる」
「お前、朝から浮かない顔して、ずっと山崎のこと見てるぞ? 恋以外に何がある?」
真顔で冗談言う川野に向かって、僕はわざと大きなため息を吐いてやった。
「川野の言う冗談は、冗談に聞こえないから」
「よく言われる。でも、風早はオレの冗談を見抜いているじゃないか。感心、感心」
「まあ、小学生からの付き合いだし。……それより、ちょっと川野に聞きたいんだけど」
「ん? なんだ?」
そう言って川野は箸を置いた。冗談抜きで聞いてやろうという姿勢だろうか。
ちょっとだけ息を吐くと、悠は意を決して言った。
「……山崎透けて見えてないか?」
途端、ガタンと川野が机を鳴らした。突然の音に、教室中が一瞬にして静まり返る。
どうしたのかと視線を上げれば、腕を強く引っ張られ立たされると、そのまま廊下に連れ出された。
「川野? おい、川野! 一体どうしたんだよ?」
連れてかれるがままにされていれば、辿り着いた先は保健室だった。
「先生、こいつ勉強のし過ぎで疲れているみたいなんで、早退手続き、お願いします」
「おい! 川野! 別に僕は疲れてなんか――」
「風早、お前早く帰って寝ろ」
有無を言わせぬその声に、少しだけたじろぐ。同時に、きゅうっと胸の奥が締め付けられた気がした。
――川野でさえ信じてくれないのか、と。
でも、確かに山崎の体は透けていた。それを川野は認識していないということだ。
じゃあ、「あちら」のことなのか?
こちらにあるものに干渉しているなんて、初めてのことでどうすればいいのか、悠にはわからない。
まるで昨日と同じじゃないか。
俯き、無意識に拳を作る悠の脳裏をよぎったのは、奏の顔であった。




