六.同じ日は二度ない(四)
「やっほー。遊びに来たよ」
週末、華菜多がやってきた。いつもの制服姿ではなく、私服姿。高校に入ってから、やけに服を気にするようになった。女は大変だな。
「あいつならいないぞ」
奏はもちろん、小梅も良さんもいないため、眠い目をこすりながら華菜多を迎えた。
休みの日くらい、もっと寝ていたい。
「そうなんだ」
ほっと胸をなでおろす華菜多を見て、首を傾げる。そのことに気が付いたのか、華菜多はこちらを見上げ、小さく笑った。
「ちょっと緊張してた」
「柄にもなく?」
「何よ、私だって緊張するって」
「いや、クラスの委員長だし、部活でも学年を取りまとめるリーダーをしているんだろう? 次期部長って言っているようなものじゃないか。こんなことで緊張するなんて変だろうと思って」
「……そうかもしれないけど」
それとこれとは、別なのだと華菜多は言う。
「男の人っていうのは聞いてるけど、年上、なの?」
寒さのせいなのか、それとも別の理由からかなのか、華菜多の頬が朱色に染められているような気がした。
「別に来なくてもいいのに」
寝癖だらけの頭をかきまわしながら、ぼそりと答えた。
「まったく。ユウは昔からそんなんだから、誤解されるんだよ。あいさつくらいするのが当たり前じゃない」
「……誤解されやすい?」
変な沈黙が二人の間を流れる。同時に開いたままの玄関から、冷たい空気が流れ込んできた。思わず身震いした僕は、体を縮ませながらすっと玄関を指差した。
それを見て振り返った華菜多は、何も言わずに開いたままの玄関を閉めた。ガラガラとやけに大きい音が響く。
「……まあ、なんだし、上がって行けば?」
そう言って、背を向けたときだった。
「ねえ、久しぶりに瀧に行かない?」
突然の申し出に、ゆっくり振り返りながら少しだけ眉間に皺を寄せた。
「言っておくけど、あそこは神域で――」
「わかってる、わかってる。でも、子供の頃なんて行くだけじゃなくて今思えば罰当たりなこといっぱいしてきたじゃん。あの瀧で水遊びしたり、岩に登ったり、蹴ったり。あ、土を掘り返してタイムカプセルとか埋めなかったっけ? そんなに立派な物じゃないけど」
「……それ以上言うな。よく罰当たらなかったなって今心底思っているから」
過去の自分を叱りつけたい衝動に駆られていれば、目の前から小さな笑い声が聞こえた。
「……何がおかしい」
口元を小さく隠し笑う華菜多を睨む。ちなみに、華菜多はもちろん小梅も同罪の過去だ。
「いや、すっかり神社の子になったなあって思って」
「……なんだよ、悪いか」
顔が熱くなるのを感じながら、ぷいっと視線を逸らせば、また華菜多の笑い声が聞こえた。
まあ、言われてみれば、ずいぶんと瀧には行っていない気がする。
久しぶりに行くのもいいかもな。
◇
白龍の瀧は、限られた場合以外、立ち入りは禁止されているが、良明はそのあたり口うるさく言う人ではなかった。
そのせいか、よく小梅と華菜多の三人で遊び場として駆け回っていた。良明もそのことを知ってはいたが、気を付けろよとだけしか言ってこなかった。今思えば、放任過ぎる気もする。一歩間違えれば、大怪我をする可能性もあったのだ。
鎮守の杜は一般的には立ち入り禁止だが、身内ということで特別扱いだったのかもしれない。そんなんでいいのかとは思う。
それなりに年を取って、瀧が神社にとってどんな存在か知ってから、足を運ぶことも少なくなった。小梅はよく行っているようで、たまにどんな様子だったのか話してくれる。話からは、昔と変わらないままの印象だったが、どうなのだろう。
道なき道を歩きながら、記憶の中にある白龍の瀧を思い出していた。
俺が良明に引き取られたのは、八つのとき。そのときすでに三歳になる小梅は、風早家の一員だった。
正直、何でここに引き取られたのか、その前は何をしていたのか、はっきり覚えていない。八歳なら記憶があってもおかしくないんだが、ぼんやりと、霞がかかったかのような記憶しかない。
それに、思い出したいとも思わない。どうして良さんに引き取られたのかも、はっきりと覚えていないが、両親が亡くなったとかそんなんだろう。
初めてここに来たばかりの頃、どうやら幼い小梅を連れ、よくこの瀧に来ていたらしい。家から徒歩で二十分以上かかるこの場所へ飽きもせず通った理由 、それは今の僕にはわからない。
でも、初めて白龍の瀧を見たときは、その大きさに驚き、固まったまま見上げていたことは鮮明に覚えている。水量は多くないが、高さがある瀧だ。岩肌が黒いせいか、流れ落ちる水の飛び散るしぶきの白さが際立ち、星が散らばっているかのように見えた。あの光景は、成長した今も見ることができるのだろうか。
「叔父さん、どういうつもりで引き取っているんだろうね。慈善活動だったり?」
「だったら今頃大家族になっている」
少し遅れて下ってくる華菜多が、少し息を切らせながら言葉をかけてきた。
少し、早く歩きすぎたかな、とそばに立つ細い木に手をかけながら立ち止まる。そう言えば、昔は逆だったなとふと思う。どんどん先へと華菜多は下って行ったものだ。急な斜面であり、かつ木の根がごろごろとしている足場なのに、舗道の上を歩いているかのようにスイスイ前へ前へと行ってしまうのだ。
時の流れを感じていれば、再び華菜多が声をかけてきた。
「でも、叔父さん、困っている人を見捨てられないって人じゃん。案外ありえるかもよ?」
「そうか?」
でも、奏の場合養子とは言わなかった。もしかしたら、ただ預かっているだけかもしれない。
どちらにしろ、僕には関係のない話だ。
「いっつ」
しばらく歩いたときだった。
鋭い痛みが走り、手の甲を見れば、直線上に滲む赤色が見えた。
「血、出てる」
後ろをついてくる華菜多が、慌ててポケットから何かをとり出そうとする。しかし、首を傾げると、もう片方のポケットを探る。それでも目当てのものが見つからなかったのか、鞄の中をかき回していた。
「どうしたんだよ?」
「うん、ハンカチ貸そうと思ったんだけど、ないんだよね。……持ってきたはずなんだけど」
「いいよ。ハンカチじゃあ汚れるし。このくらいの傷、舐めときゃ治るって」
そう言って、にじみ出る血をなめた。久々に血をなめた気がする。鉄の味が舌の上に広がった。
血ってこんな味だったっけ?
「確かに入れたはずなんだけどな」
華菜多は不思議そうに呟いていた。
◇
白龍の瀧は、以前よりも鬱蒼とした場所になっていた。
瀧のまわりは平地なのだが、その平な場所がどこなのか、遠目からじゃあわからないほど草や木の枝が地を覆っていた。
「気を付けろよ」
振り返りながら、華菜多に注意を促す。
「荒れ放題じゃない?」
少し疲れた様子で華菜多が言った。
こんな有様では、休むに休めない。
神社の管理は良明の仕事だが、まさか、サボっていたのか? 森は放置する方針ではあるが、立ち入る可能性のある場所はきちんと手入れされる。ここ、白龍の瀧も祈祷などの儀式で使うことがあるからこんなにも草や木の枝が生えているはずはないのだ。
「変だな」
だから、僕は小さく首を傾げながら呟いた。
そのときだ。
「あれ? ねえ、ユウ。あそこに人がいるよ?」
華菜多の指差す方を見れば、確かに誰かいた。こんな場所に来れるのは、ここの土地勘がある者しかいない。良明かと思ったが、後姿からして違う。良明よりも背が高いし、それに若そうだ。
斜面から、草木だらけの平らな場所に足を乗せる。思っていたよりも、草木の丈は長くなかった。それを見た華菜多も悠のあとを追う。草のこすれる音を立てながら声をかけた。
「誰だ?」
その人影がこちらを振り向いた途端、何故か血の気の落ちるような、自分が今どこにいるのかわからなくなるような感覚に襲われた。でも、轟々と鳴り響く滝の音が僕を現実に連れ戻す。
「……なんで」
かすれた声が、口から飛び出た。自分でも、情けない声だと思った。
「なんで、お前がここにいるんだ」
整った顔立ちに黒い髪。それだけなら、周囲からもてはやされそうなのに、そのすべてを打ち消す、空虚な目。
そこにいたのは、奏だった。
「誰?」
華菜多の問いに答えてやれば、強張った華菜多の表情が緩む。
「なんだ。びっくりした」
ほっと胸をなでおろした華菜多に対し、悠は一層警戒を強めた。鋭い視線を目の前に向ける。
僕はここの場所を教えていない。おそらく小梅も教えていないはずだ。自力で来たとしても不思議ではないが、それにしても嫌な予感がする。
「どうしてここに――」
そう言いかけて、口を閉じた。
――音が、聞こえる。
瀧の音でも掻き消されないそれは「こちら」の音ではない。
ミシっと大きく軋む音がした。音が聞こえるたび、腹の底から吐き出したくなる何かが沸き起こる。そしてそれは、本能に強く訴えていた。
――逃げろ、と。
「なんだあれ……」
ふと視線を上げれば、空間に大きなヒビが入っているのが視えた。これは、たまに視る「例のやつ」だということはわかる。だけど、こんなに巨大で音の鳴るものは初めてだ。
ただ茫然と立ち尽くしていれば、その割れ目から白い煙のようなものが飛び出してきた。
瞬間、背筋に悪寒が走る。逃げ出したい衝動に駆られつつ、ぐっとこらえた。
こんなことは今までなかった。何をどうすれば一番正しいのか、とっさに判断できない。でも、これだけは言える。
「逃げろっ、華菜多!」
華菜多は何か言いたげに口を開きかけたが、悠の気迫に負け、何も言わず来た道へと駆けて行った。
幸か不幸か、白い煙のようなものは、まだ宙に漂っている。風に舞うリボンのようだが、そんなに可愛らしいものじゃないのは、本能が感じとっていた。
早くここから逃げないと。
「奏、お前も……」
そういいかけて目を見開く。どういうことか、奏の目は、白いものの動きに沿って動いていた。
「お前、……視えるのか?」
声色が固くなる。もう、ここには華菜多はいない。気兼ねなく聞くことができるというのに、やはり「視えること」に関する話をするのは、抵抗があった。
「……」
奏は何も言わず、見る者を不安にさせる瞳をこちらに向けてきた。
この男は本当に人間か?
まだ慣れないその瞳を見て、改めて悠はそう思う。だが、今はそれを考えている場合じゃないと目の前の事柄に目を向けた。
「いいから、お前も早く行けっ」
声を荒げ、華菜多が駆けて行った方向を指差す。あの白いものがいつまでもあそこにいるとは限らない。いくら気に入らない相手とはいえ、一応この神社に来た人間なのだ。不本意であろうがなかろうが、結ばれた縁を蔑ろにしてはならない。よく、良明に言われた言葉だ。
そして僕も、その教えには同感だ。
「早く行けっ」
きっと、僕は変人扱いになるんだろうな、と思ったとき、奏はすっと右手を上げると、ユウを指差した。
「その血、それを隠せばいい」
「は?」
突然しゃべったと思ったら、訳の分からないことを言う。悠は、はやる気持ちを抑えつつ、逃げる気配のない奏のところへ近づいた。もう、いっそうのこと首根っこを捕まえて引っ張って行こうと思った。
そのときだ。
「あと、あれには触らない方がいい。……持って行かれる」
何を、とは聞かなかった。何となく言いたいことはわかる。
――魂を持って行かれるのだ。
というか、なんでこいつはそんなことまで知っているんだ?
「これ」
こちら向かって宙を飛ぶ何かを慌てて攫む。放り渡されたのは、ハンカチだった。それも女物。
どうして? と思う暇もなく、さっと手の甲をそれで隠した。すると、白いものはヒビの中へ戻っていく。
「何だったんだ、あれ」
未だに状況が理解できない。
「……ここで死ねば死ぬ」
奏は訳の分からないことを呟いた。
でもそれは後でいい。
「なあ」
言いたいことはいろいろある。でもまずこれだけはここで聞いておきたい。
「これ、どこで手に入れたんだよ?」
奏から放り渡されたハンカチ。それは、まぎれもなく華菜多のハンカチだった。
◇
「見夢なんかあるはずない、か」
くわえていたせんべいがぱりっと音を立てて割れた。
「見夢は幻覚じゃないんだよ、ユウ君」
そういって、小梅は泣きそうな顔で微笑んだ。




