四十七.刹那④
「ユウ君」
ずっと服を掴んでいた小梅が、その手を離し悠の前にやってきた。野良もだ。
「うちらね、ユウ君のことが――」
だが、すべてを言い終わる前に悠は小梅と野良を思いっきり抱きしめた。もう、誰もいなくなってほしくない。そう思うのだが、小梅と野良はやんわりその腕を拒んだ。
「ずっと、ずっと言わなきゃって思ってたの」
小梅は、スカートを持ていた両手をずっと握っているせいで皺になっていた。
「ごめんね、うちのせいでこんな――」
悠はしーっと人差し指を口の前で立てたあと、小梅の頭を優しくなでた。
謝ってほしくなかった。
「さて、私たちもそろそろ行きましょう」
日子の一言で小梅は嗚咽をかみ殺しながら日子のそばまで行った。野良も同じように日子のもとへ向かうが、途中で引き返すと悠のもとまで駆け寄った。そして――。
「また会おう。……絶対」
それだけ囁くと再び日子のもとへ行き、三人は国見のとき同様世界から消されるようにいなくなった。
◇
「行こう」
奏はそう言って、悠を白龍の瀧まで連れて行った。
ここがすべての始まり。
「君は見夢をこことは違う別世界だと思っていたようだけど、本当は違う」
もう、とっくに気がついているはずだ。
「――理想郷と謳われる見夢は、この世界。そして君はその創造者。そして君が見夢と認識していたものが、本来君が生きる世界。……つまり現実」
胸の奥が裂かれるように痛い。けれど、これが役目。ふと最後に謝ってきた少年の顔が浮かんだ。
「……綻びはこの世界の歪み。野良はこれを伝ってここに来た。そして白帯は、死神の類だと思ってくれて構わない。……現実ならば憂鬱になる元だろうあの白帯は、ここでは死神。君がここで死ねば永遠に目覚めることはないんだから」
だが、奏の精一杯の言葉は、悠には届いていなかった。
ぼうっと瀧を見つめる悠の目は虚ろで、今この瞬間を拒否しているのがわかる。
最初、悠を救ったのは奏だった。
このままだと消える命を水の中から引っ張り出したのは、「願い」があったから。だが、それはただかろうじてつなぎとめたに過ぎない。
「ユウ」
おぼろげな目が、こちらを向いた。
「君には選択肢が二つある」
苦虫を噛み潰したような顔をしていることを悠はもちろん、奏自身も気づいていなかった。
ここでの出来事が走馬灯のように流れる。
だが、わがままを言ってはいけない。
奏は息を深く吸い込むと言った。
「一つは、現実――君が本来生きる世界に戻ること。ただ、戻ってしまえば、君にはここでの記憶はなくなる。それに、君自身が強く戻りたいと思わなければ戻れない。失敗すれば、現実の君が目を覚ますことは二度とない。そしてもう一つは……このままここに残ってこの世界と共に消えること」
ここに来たばかりころ。奏が目を開けたとき、例の少年が目の前に立っていた。連れて帰ろう、そうすることが僕の役目だ、とただそれだけ思って彼の腕を持とうとした瞬間だった。
――記憶を、僕の存在を、その使命を奪われたのは。
そう、そのときは彼に敵うはずもなかったのだ。だって彼は――。
「君は気づいているだろうか」
ずっと寄り添っていた、小さな女の子の姿が脳裏をよぎる。
「小梅は俺たち――もともとここの住人じゃない者には渾名をつけなかった。……おそらく彼女なりの線引きだったんだろう」
そして僕も、今の今まで気づかなかった。けど、君が教えてくれた。
「もちろん、彼女は君にも渾名を付けていたんだ。ユウ――いや」
その瞬間、奏が水の中から引き上げ、記憶を奪い、ハンカチを渡したあの少年の笑った顔が見えた。
「悠」
ばれちゃったか、と悪戯気な笑みだけ残し少年は消えた。あとには、憑物が落ちたようにすっきりとした表情を浮かべる悠が立っていた。
この世界の創造主。俺が引き上げたこの場所で、君は事実を、現実を忘れ、無意識に作った世界を現実と思い込んだ。
けれど、それだとうまくいかないことも多い。そこで人格を二つに分けた。
創造主としての少年とこの世界の真相を知らない少年に。
ああ、と悠は空を仰いだ。でも、もう青い空はどこにもなかった。




