四十六.刹那③
「あのお嬢ちゃん、時間稼ぎに行ったのか」
声のした方を向けば、普段と変わりない様子で良明が現れた。
「この世界の守護者でありながら世界を守れない。……その代り、お嬢ちゃんはお前の幸福を願ったんだな」
しみじみとした様子で良明が姿を見せた。
その目には、普段からは想像できない、覚悟の色がうかがえた。
「……オレも、そろそろってことかな。それじゃ、お嬢ちゃんがくれた時間を大事に使わねえと」
「まったく、貴方って人は――」
日子があきれ顔で言えば、良明は、悪戯が見つかった子供のように笑った。
「イレギュラーな存在ってのもあったほうが面白いだろ? あの和菓子のメッセージだけで通じたときは、まあ驚いたが。ああ、こうしている時間ももったいないな」
そう言う良明の視線を追えば、神社の中も徐々に白に侵食されている。
「ユウ、そんなに泣くな、男だろ」
そう言う良明も涙で顔がぐちゃぐちゃになるほど泣いていた。
「オレはいいんだよ。まあ、立ち話で申し訳ねえが一つ話を聴いてくれ」
桜が舞うこの場所が、全部夢だったらいいのにと願わずにはいられなかった。
「ある冬の日、家族三人が湖のある山の別荘へ遊びに来た」
良明の声はとても心地よく届くが、心はざわつき耳をふさぎたい気持ちでいっぱいになった。けど、もう逃げる場所なんてどこにもない。
「その日の夕方、森の中にいた少年は一匹のうさぎと出会い仲良くなった。――そのうさぎは人語を理解し、また話すこともできた。――まあ、そのうさぎは神の使いで普通のうさぎじゃなかったからなんだけど。な、小梅」
「……うちはこうなるまでよっしーのことに気づけなかったよ」
「まあ、そうふてくされるなって」
風が吹いたのか桜吹雪が勢いを増す。どうやら白くなった世界でも音だけはまだ、かろうじて残っているようだ。
「うさぎと仲良くなった少年は、今度は黒猫とも友達になった。うさぎとも顔見知りだった黒猫は二又というあやかしだった。でも、三人にとっては種族や住む世界が違うことなど関係なかった。それに、うさぎと黒猫にとってみれば、久々にできた友人。いつの間にか、ずっと一緒にいたいと思う存在になっていた。でも、それは叶わない。少年は、ここから遠く離れた場所に行かなければならないからだ。そこで、うさぎは少年にこう言った。『みんな寝てしまったら、湖畔で会おう』と。うさぎは、少年にただ他の場所では絶対に見られない、一生記憶に残る星空を見せてあげたかっただけで、決して悪意があったわけじゃなったのだが、少年は湖に落ちた」
……そのあとどうなったのか、知っている。
その少年は、いきなり冷たくて真っ暗な世界に驚いて、息を吸ってしまうんだ。でも、入ってきたのは空気じゃなくて水。どうなっているのか訳がわからなくなって、そのままもがき続けていたら、いつの間にか森の中。後ろからよくないものが追いかけてきたから、必死で走っていたら、突然水の中に落ちて――。そうだ。引っ張られたんだ。白い腕に。
それで、それからどうなったんだっけ?
「ユウ」
はっと我に返った悠の前には、今にも消えてしまいそうな良明が立っていた。
「オレは本当の親じゃない。それにこの創られた世界の住人だ。……自分の存在に散々悩んだ時期もあったけど、オレはこの世界でお前に会えて、親として生きることができて、本当に良かった。――だから、お前にはオレの最期の望みを叶えてほしい。きっとあのお嬢ちゃんも同じだろうけどな」
そう言って、良明はいつものようににかっと笑う。
頼むから、そんなこと言わないでくれ。
――最期だなんて、思いたくない。
両手を爪が食い込むまで握り、ずっと俯いている悠の頬に良明は手を添えると、まっすぐ目を合わせてこう言った。
「生きろ、ユウ。何があろうと強く、自分の信念を持って」
良明の顔をもっとちゃんと見たいのに、涙のせいでおぼろげな輪郭しかわからなかった。
『こんなの、嫌だよ』
子供のように泣きじゃくる悠を良明は思いっきり抱きしめた。それこそ、力いっぱい、自分の存在を残すかのように。
「愛してる。お前はオレの自慢の子だ。胸張って行け」
途端、体を包んでいた温もりが消えた。
後には声にならない泣き声だけが残った。




