四十三.×××よ、こんにちはⅦ
それから何週間か経った。
朝晩の空気もツンっと鼻に来るほど冷たく、冬の訪れが間近に迫っていることを告げる。
だが、それでも変わらないものもある。
「最近ここにいるよな」
突然背後からかけられた声。だが、奏は無表情を貫き通した。
「毎日飽きもせずこんな五月蠅いとこ来ていて、らしくない」
顔を覗き込むようにして現れたのは、野良だった。
野良は、それでも反応を示さない奏に諦めをつけ、隣に座った。
「……最近、帰ってないんだってな。梅ちゃんが言ってた。なあ、どうしてここに来るのか、当ててやろっか?」
奏は相変わらず無言で答えた。ただ、ほんの少し視線を下げたのだが、それに野良は気づかなかった。
「ゆっくんの事でしょ? ……桜は冬が過ぎる前に満開を迎えそうだ。……ねえ、ゆっくんのこと、ちゃんと思うんだったら梅ちゃんたちに教えてあげてよ」
奏は瀧を一点に見つめたまま、人形のように反応しなかった。
野良は特に気にした様子もなく、ただ少し視線を下げると、あのさ、と言葉を続けた。
「オレ、聞いちゃったんだよね。奏と誰かが話してるの」
「……だったら俺じゃなくて、君が教えてあげればいい」
だが、野良はそれに対して頭を左右に振った。
「それじゃ、ダメなんだ」
「……何故?」
そう問うても野良はただ頭を振るだけだった。しかし、野良が答えなくても、奏はその理由をわかっていた。
うるさいくらいの沈黙が二人の間を流れる。
ああ、と奏は思う。
一分、一秒も惜しいこの世界で何も知らないまま過ごせたら、どれだけ幸せだったのだろう、と。
過去をやり直すことができたら? と問うたのはいつの頃だったか。すっかり毒されている己が許せない。だが、この甘い毒を断ち切るほど、俺は強い意思を持っているだろうか――。
気づけば、野良がこちらを静かに見上げていた。くりっと丸い黒目には、随分色(感情)を知った自分の顔が映し出されていた。
「なあ、本当はもう――」
「言うな」
他者から言われれば、それは事実であり真実だと突き付けられるのと同じである。
……そこまで、強くなれない。
野良は、それ以上何も言わなかった。そして、いつまでもそこから動こうとしない奏を置いて、いつの間にか姿を消していた。
カラスの一鳴きで我に返れば、夕日が目に映るもの全てを赤く染め挙げていた。
燃えているようだと思った。炎ほど激しくはないが、それでもその日一日を燃やし、終わりを導く色であることは変わりない。
後ろから視線を感じ、立ち上がりながら振り返った。
「随分と余裕、ね」
皮肉が込められた一言ではあるが、そのくらいで腹を立てるほど器は小さくはない。いや、むしろその一言を吐いた者が、随分苦心していたのを知っていたからか。どちらにせよ、奏は静かにその人物と向き合った。
「……いろいろ、考えた。けど」
あれを見たら、どれだけ強い決心をしても諭される。――お前の努力は無意味だ、と。
例えるならそう、広い海に落としたガラス玉を探そうとするのと同じくらい無謀なことだと言われたようなものだ。
奏は、時雨から紡がれる言葉を待った。
「私、貴方に協力する。――それで『終わり』が防げるのなら」
「そうか」
それだけ伝えに来たようで、時雨はさっさとその場から立ち去った。
奏も久々にあの場所に戻ろうと思ったのだが、さっきから足が一向に動こうとしない。根でも生えたのかと思ったが、そうではないことくらいわかる。
話は進んだ。これで野良の言うように、小梅たちにも悠の居場所を教えられる。
これは、喜ばしいことだ。
――だけど、胸は痛み、目頭は熱くなって頬を何かが伝えば、口からは空気のかたまりを吐くような、醜い音がもれた。
◇
その日はとてもよく冷える晩だった。
ただ、そのように寒い夜は空気も透き通っていると聞く。そのせいか、夜空にあがる星々がどことなく懐かしい気持ちにさせた。
「……風邪、引いてないかな」
ここより神社のほうがずっと冷え込む。良く見える星が、あの神社で見える景色を思い出させる。
奏は、小梅とうまくやってるのか。
そういえば、初めて奏があの家に来たとき、小梅は初めましてと言ったあと、首を傾げた。どこかで会ったことがあったのだろうかと思ったのだがすっかり忘れていた。まあ、小梅の思い違いだったのかもしれないが。
良さん、元気だろうか――。
そこまでいって思考か止まった。何も言わず、飛び出したことは少しだけ後悔している。
が、義務教育から離れているにもかかわらず、未だ良明の手を煩わせ、家計を圧迫していたのもまた事実。
前々から、それこそ奏がやってくる前から、そのことに負い目を感じていた訳ではない。
なのに、良さんは……。
悠は口をへの字に曲げた。
僕は何も知らずに勉学に励めばそれでいいって思っている。
そんなの、腑に落ちるわけない。
「ああ、もう。別にもういいだろ」
ただ、窓辺から夜空を眺めていただけなのに、どうしてあれこれ考えて、落ち込んで、不安になっているんだ、僕は。
「馬鹿馬鹿しい!」
さっさと布団に入って寝る。
そう思って、布団に入ったはいいが、冬が顔を見せ始めた晩の空気は、目を覚まさせるには十分だったようで、なかなか夢の世界には行けなかった。
◇
翌日。昨晩の冷え込みはやはり偽りではなかったようで、今季初の霜が降りた。よく晴れた日ではあったが、吹く風が肌を指すように冷たいせいで、悠は亀のように首をすくめながら外を歩いた。
悠は、寮の職員専用の出入り口から中に入ると、事務室で与えられた業務を黙々とこなしていた。
ただ、悠も休みならばこちらの高校も休み。寮の中も普段よりずっと人が多かった。そして、人が多ければトラブルもつきもので……。
「もう十分くらい待ってるのにまだ電話あかないの? 急いでるんですけど」
「部屋のトイレ、水漏れしてて」
「ガラスが割れましたー」
「あの、家族が来るんで、えっと手紙、書きたいんですけど」
などなど。挙げだしたらきりがない。ただ、ここで働いている職員たちは、もうそれなりに手馴れている様子で、てきぱきと指示を出しながら、窓口に集まる生徒を捌いていった。
それはもう、さすがとしか言えない。
「あ、こんにちは。所長」
お昼時間が終わったころ、慌ただしさが収まった時間に、所長こと風早智明が顔を出した。
「今日は終日こちらに?」
いないことの多い智明に代わり、責任者を務めている副所長が訊く。
「ええ。その予定です」
そう答えたのは智明ではなく、その後ろから駆けてきた秘書だった。
智明は甥っ子だからと特別扱いはしない。そのため、悠が智明と目を合わせることもなかった。
今日もこのまま終わるのかな、と思ったそのときだった。
「すみませーん」
聞き覚えるのある、間の抜けた声。
それよりも、さっきから廊下が騒がしい。
「すみませーん。おーい、風早くーん」
ご指名かよ。てか、田口さんは?
そう思いながら、事務所の中でも一番窓口に近い悠は、席を立ちながら窓口に出る扉を開いた。
一人の男子生徒が、カウンターに上半身を力なく預けながら、顔だけこちらを向けていた。――やはり、山崎薫だった。
こんなときに、田口さんどこ行ったんだ? と思って正面を見ればいた。けど、他の生徒を対応している。……窓口離れて。
仕方ない。
「どうしたんですか?」
「にゃー」
殴ってもいいだろうか。
「って鳴く生き物が、寮の中に侵入しましたー」
途端、顔色を変えたのは職員たちだった。
どうやら、事務所の中にいてもはっきり薫の声が聞こえたらしい。
「おい、今所長がいるんだぞ! どうしてこういうときに限ってそういうことがおきるんだ! ああ、もう! 何が何でもここには来させるな」
はいっと声をそろえる人を見て何をそんなに慌てる必要があるのかと思ったが、角からのぞく黒い尻尾らしきものを見て思い出した。
そう言えば、大の猫嫌いだったな、と。
智明の猫嫌いは仕事にも影響するらしく、寮はもちろん、この敷地内には動物が一匹たりとも入ってこない体制が整えられていた。……主に猫。
ここで悠はふと思い直した。
そういえば、さっき見た黒猫は……。
ぼうっと突っ立ているうちに、ぴょんと窓口のカウンターに姿を現したのは、真っ黒な猫だった。
「あ、猫だ」
薫がそう言った途端、あたりは騒然となった。かわいいと叫ぶ者もいれば、これから起こる出来事を見据えて叫ぶもの、捕まえようと躍起になる者といろいろである。
ちなみに侵入した動物を捕まえた者には賞金が出るというのだからどれだけの騒ぎなのかよくわかる。
とりあえず、智明は大急ぎで別の部屋に行くことになった。
猫が人を殺すわけでもないのに、と徐々に収まりつつある猫騒動の後始末をしながら大きなため息を吐いた。
そのときだ。
「ユウ!」
幻聴かと思った。ここに悠をそう呼ぶ者はいない。けど振り返ってそれが違いだと知った。
なんでここに……?
何か言おうと口を開きかけた途端、悠は駆け寄ってきた良明に思いっきり抱きしめられた。
「ちょっ、良さん! 痛い」
そう言えばより一層力強くなる。嫌がらせかと思ったが、良明の赤い目を見てそれが違うことを知った。
「バカ野郎。……心配かけさせやがって」
そう言う良明の言葉に嘘がないことは明らかで。目頭が自然と熱くなるのを抑えられなかった。
「……ごめん」
良明は何も言わず、ただ頭をくしゃくしゃに撫でた。
本当は寂しかった。こらえきれずあふれる涙は、簡単には止まらない。
まだ一か月しか離れていないのに、どうしようもなく、神社の敷地内にあって通学に思いっきり時間がかかる、あの家に帰りたかった。
夜空を見ては、無意識に家の縁側から見えるあの星空を探していた。けど、同じ空でも違った。ここから見える星の数は少なく、同じものは何一つ見つけることはできなかった。
良明に迷惑をかけたくない思いと、あのみんなで食卓を囲んでいた頃を取り戻したい想いがせめぎ合って、何が正しいのか、どうすることが一番いいのかわからなくなる。
「――帰ってこい、ユウ。お前が重荷に思うことは何もないんだ」
耳元でささやかれた言葉が、悠を押し潰そうとしていた重荷を取る。
――帰っていいのだろうか。本当の親子でもないのに……。
「子は親に迷惑かけていいんだよ。何、他人行儀になってるんだ? ……それともなんだ、お前俺のこと父親とは思ってないのか?」
「それはない!」
「だったら、一緒に帰ろう」
そう言って、良明は悠の頭を撫でた。
ああ、敵わないなと悠は唇をかみしめながら思う。
この人に俺は敵わない。
「良さん」
「ん? なんだ?」
――ありがとう。
そう言いたいのに、言葉が出てこない。
どういうことだ?
のどを抑えてもう一度試みたが、結果は同じだった。
「ユウ?」
異変を感じた良明の眉間に深い皺が寄せられる。
ああ、と悠は宙を仰いだ。どうやら、声が出ないみたいだ。




