四十一.×××よ、こんにちはⅤ
放課後になった途端、宿舎に戻った悠は、カバンを部屋の端に放り投げると、備え付けのベッドの上に身を預けた。マッドも薄いベッドは、今にも壊れそうな音を立てたが、なんとか悠の体を受け止めた。
散々な、一日だった。
朝から、白いリボンに追われるし、火ノ根のおかげでなんとかなったものの、そのあとはずっと気を張ったままだった。
また、いつ現れるかわからないものに、改めて恐怖が沸く。やっぱり家に戻ったほうがいいのだろうか。
でも、今は考えることすらだるい。大きく息を吐くと、そのまま目を閉じた。このまま寝てしまいたい。けど、それはできない。忌々しげに時計を見た悠は、重い体を持ち上げると、事務所へ行く準備を始めた。
体はしんどい。けど、こういうのは慣れだ。
顔を洗い、気合いを入れると部屋を出た。
二日目だから仕事も慣れた、というわけでもない。悠は与えられた仕事はもちろん、人の名前と役職を優先的に覚えることにした。
ただ、普段一方的に授業を受けているのとは違い、こちらからも動かなければならない。それがとても疲れる。
そんな悠に気を使ってか、よくお茶を入れてくれと頼まれる。昨日もそうだったが、お茶を配ったあとは、君も休憩しなよ、と言われるのだ。
僕、役立ってないのかな――。
給湯室でやかんに水を入れながら思う。
まだ二日目だし、当たり前と言えばその通りなのだが、悠にはそれが気になって仕方がない。役に立たないのは、嫌なのだと思う自分が必ずいる。
コンロに火をつけ、ぼんやり火を眺める。昨日はよく、眠れなかった。毎日、家族そろって食事をするような家ではなかったが、人のいるといないじゃ全然違う。
一人部屋に戻ってきたときの、あの冷たい感じ。これも慣れなのかもしれないが、どうにも慣れそうにない。
そうしているうちに、瞼は重たくなって、うつらうつらとまどろんでしまった。
「おーい。危ないだろ」
肩を思いっきり揺すられ、首が回った。
何事かと目を開ければ、どういうわけか昨日見た男子生徒が肩を揺すっている。
「火」
その一言で、飛び起きた悠は慌ててコンロの火を消そうとした。けど、どういうわけか火はもう消えている。
「やかんがピーピー言ってたからさ、勝手に入って来たけど、別にいいよな?」
別にいいも何も危うく一大事になるところだった。そういえば、今日も窓口の人は席を離れていたのだろうか。
「で。弟にオレのこと、聞いたのかな?」
そう言って、男子生徒――山崎薫はにっこり笑った。
面影はある。ただ、山崎は裏のない笑顔を見せるのに対し、山崎兄は何か企んでいるような笑顔だと思った。
「……ええ。まあ」
昼飯時に山崎から聞いた。兄がいることは知っていたが、まさかこの高校のしかも寮にいるとは思いもしなかった。
「兄貴、ちょっと変わってるんだよなー。寮に入りたいって親拝み倒してあの頭のいい高校の試験、合格しちゃうし。しかも特待生で。弟のオレ、ちょっと肩身が狭かったけど、まあ、比べちゃいけない奴なんだよってわかったから。ありゃ妖怪だわ」
そう言って、手に持っていたおにぎりを口に入れた。
「……山崎、兄さんに僕のこと話したことある?」
「え? んー話したことあるかもしれないけど、どうして?」
「いや、別に」
山崎の様子から察するに、特別詳しく悠の事を話したわけでもなさそうである。
だとしたら、この目の前にいる山崎兄は、どうして顔を見ただけで俺のことがわかったのだろう?
「初対面のはずなのにって顔、してるなー」
そう言って笑われれば、さすがの悠も頭に来る。
「一応ここ、生徒立ち入り禁止なんでそろそろ出て行った方がいいと思いますよ」
「つれないなー。オレを追い出そうとするなんて」
そう言いつつも、薫はその場から立ち去った。あまり絡みたくなかった悠は、ほっと胸をなでおろしたのだが、甘かった。
「オレが君の正体に気づけたワケ、教えてあげようか?」
窓口からこちらに身を乗り出してきた薫を見て、悠は思わず眉間に皺を寄せた。
「あ、いつもここにいる田口さんならあまり気にしなくていいよ。じっとしていられる性分じゃないみたいでよくいないから」
……それはそれで、どうなのかと思うのだが。
「まだわからない?」
別に誰も教えてほしいとは言っていない。――まあ、教えてくれるのなら、それでもいいけど。
「その首から吊るさっているのは、何かなー?」
ああ、なるほど。言われてしまえば何て簡単なことに気がつかなかったんだろう。
彼は、この名札を見てわかったのだ。ご丁寧にフルネームで書かれている名札を見て。
「弟の友人がどうしてこんなところにいるのか知らないけど――」
動き一つ一つに目が離せない。まるで舞台役者だと思った。
「あまり、大きな声で言わない方がいいみたいだ。あっ、オレは口が堅いから安心して」
できるかっ! そう心の中でツッコんだ悠は、薫が窓口からいなくなると、ため息を吐いた。
良さんはもちろん、小梅たちにも黙ってここにいるのに。
――ここじゃあ一苦労だ。
◇
一方その頃。由緒正しくも廃れつつある神社では、悲鳴が上がっていた。
「お、落ち着いて、うめ――」
「気安く名前で呼ぶな!」
そう言ったあと、小梅の拳を食らった野良のうめき声が上がった。
「ああ、もう。どこ行っちゃったの?」
「……友達の、家で泊まって、るんじゃ?」
「それだったら、電話してくれるもん。ユウ君は!」
半狂乱になる小梅を野良が必死でなだめようとするものの、うまくいかないでいた。
「よっしーも奏も薄情すぎる! うち、外探してくるから留守番してなさい!」
「え! ちょっ! ちょっと待ってよ!」
だが、小梅には野良の言葉を聞く耳は持っていなかった。玄関の閉まる音を聞いた途端、野良はうなだれた。
◇
どこ行っちゃったの?
もう二日も帰ってこない。いつも欠かさずそばにいた小梅にとってこれは一大事であった。
どうしよう、もしこのまま……。
そのとき、目の前を白く小さいものが横切った。
雪――?
確かに最近肌寒くなってはきたが、雪にはまだ早いんじゃ、そう思って空を見上げたときだった。
「なっ」
小梅は自分の目を疑った。
枯れ桜の愛称で呼ばれる桜の木には、数多の花――。四分咲きほどではあったが、その身を彩っていた。
「……そんな。なんで?」
ユウ君――。
駆け出そうとしたときだ。ぐいっと手首を引っ張られ、足を止められた。
「何?」
大人でも竦み上がるような、刃物のように底光りする目で睨めば、手首を掴む人物はにかっと口角を上げた。
「ああー怖い、怖い。睨んでも何も出ねえぞ?」
「……離して。国見」
「いやだね」
「離せ!」
国見は微動だにしないまま、頭を左右に振った。
「ダメだ。冷静を欠いているお前は、何しでかすかわからねえからな」
人さえ殺しかねない。
「小梅、あいつならまだいるぞ」
そう言えば、小梅は冷や水を顔面から浴びせられたような呆けた顔をした。
ひらりと、目の前を桜が舞う。
枯れ桜が桜を咲かせた。それも一気に、だ。満開になるまではそう時間もかからないだろう。
さて、あいつはどんな選択をするのかね。
国見はくすりと笑うと、掴んでいた手を放した。
◇
夕飯時、食卓には珍しく良明もいた。ただ、奏の姿はない。
いつもなら笑顔の絶えない食卓なのに、ここ数日は重い空気が漂っていた。小梅なんかは、感情を削ぎ落されたのかと疑いたくなるくらい、表情がない。まるで人形のようである。
もちろん、その原因は悠にある。
「ユウはどこにいるか、知ってるか?」
うるさすぎる秒針の音を遮るように、良明が言う。小梅は頭を左右に振ってそれに答えた。
「そうか……」
肩を落とす良明の姿は、いつもよりずっと老け込んでいるように見えた。そんな良明にかける言葉もわからないまま、小梅の気持ちも重くなる。
「――奏も、どうしたんだろうな」
呟きにも似たその言葉に、小梅は何も返せないまま、ただ箸を口に運んだ。




