四十.×××よ、こんにちはⅣ
翌日、職員専用の宿舎から学校へ行った悠は、教室に入ると真っ先に山崎の席まで行こうとした。
けど――。
「……だれも、いない」
それもそうかと、時計を見て気がついた。悠は山の中腹にある家に居るときと同じ時間帯に宿舎を出たのだ。時計の針もホームルームが始まる一時間前を指していた。
仕方なく、自分の席で時間が経つのを待つ。
一か月いや一年の大半をこの教室で過ごしているというのに、ただ誰もいないというだけでこんなにも違うものなのか――。
一分経つごとに動く長針の音が、こんなにもうるさいなんて知らなかった。毎日、遅刻ギリギリの時間に来る悠にとって、教室は常に誰かいるものだった。
ふと、入学初日のことを思い出す。これから三年間、この場所で過ごすんだと、漠然とした期待と不安をその胸にしまって見上げた校舎。
なんだかんだやっているうちに、あっという間に一年は過ぎ、今はもう二年の秋。この調子ではまばたきする間に冬が来て、気がつけば、最後の一年となりかねない。
この時間がずっと続けばいいのに――。
机に突っ伏し、悠は両腕の中に顔を埋めた。
家出同然で家を出てきたことに、負い目がないと言えば嘘になる。
でも、やっぱり良さんからはきちんと聞きたかった。
反抗期、かもな。
別にアルバイトをした金で、伯父から借りた金を返そうとは本気で思ってない。
正直、自分でも何がしたいのかわからなかった。感情に振り回されている。そう言うのが一番しっくりくる。
……小梅、絶対怒ってるだろうな。
泣きながら、罵倒する姿が浮かぶ。悠は唇をきつく結んだ。
何時だろうか、と顔を上げればまだ十分ほどしか経っていない。
人知れずため息を吐く。悠の目にはあの「綻び」が視えた。消えろと念じれば、簡単に消えるあれは一体何なんだろう。
この世界の理で図っていいものかはわからない。けど、幻ではなく存在があるのなら必ず意味があるはずだ。
それは見夢にも言える。皆、見夢を理想郷だと思っているかもしれない。けど、今なら断言できる。見夢は「綻び」や白いリボンがある場所。とても理想郷だとは思えない。
「何なんだろうな、一体」
ぽつりと呟いてから、思いっきり伸びをした。慣れない環境でまだ疲れも残っているらしい。欠伸をしたら、左目から涙がこぼれた。
片目だけ滲んでいるせいか、視界の隅が白くぼやけた。貧血でも起こしたときみたいだなと呑気に思っていたのだが、その正体に気づいて思わず息をのんだ。
何だよ、あれ。
視界の隅にあった白。それはあの白いリボン、それも十本ほどもある。
気づけば、体が勝手に動いていた。全速力で廊下を駆けるが、後ろを確認している暇はない。階段を転げ落ちる勢いで駆け下りたあと、下駄箱から上履きのまま外へ出ようとすれば、誰かの肩に思いっきりぶつかってしまった。
「ごめん!」
倒れる相手に手を差し出すこともできないまま、悠は走った。
スカートを軽く払い、立ち上がると、その後ろ姿を人形のように美しい女生徒が見つめていた。
◇
時雨は奥歯を噛み締め、眉間に皺を寄せた。
事態は悪くなる一方だ。
私がしていることは、地に落ちた水をすくい上げようとしているだけなのかもしれない。
けど、時雨は頭を左右に振った。一本に結わえた髪が大きく揺れる。
一瞬でもそんなことを思った自分を叱咤した。
大丈夫。絶対、守ってみせる。
そう決意するものの、今、この状況に救いの手を差し伸べることができないのもまた事実だった。
◇
「ったく、退屈だぜ」
そう言う主は、公園のベンチで寝そべっていた。それならそうと、早く戻ればいいだけなのではとは思っても、口に出すことはない。
全ては、主の言葉のままに――。
そのとき、遠くからこちらに向かって駆けてくる足音の振動を捕まえた。他とは違い、重みのあるその気配は、誰のものか言われなくてもわかった。
主もとっくに気づいているらしい。口元が笑っている。
さて、主はどうするのだろうか。
じっとその様子をうかがっていれば、突然大声で笑い始めた。
「あいつは寓話の主人公か?」
別に驚くこともない。いつもの事だ。
主は首や耳、腕に付けた装飾品を鳴らしながら起き上がると、こちらを向いた。
「火ノ根、片付けてこい」
ああ、やっぱり。そう言うと思った。
火ノ根は、静かに頷くとその場から消えた。
「暇つぶし、暇つぶしっと」
そう言って男――国見は、再びベンチの上に寝そべった。木でできているため、体中が痛く寝心地は最悪だが、一言も不満はもらさなかった。
仰向けになった国見の目には、サングラス越しに空が見えた。ただ、その色は黒い。
「……もう、時間もねえな」
呟いた言葉は、空を飛ぶ鳥にさえ聞こえなかった。
◇
これで何度目かになる命を懸けた追いかけっこ。まわりから見れば、愉快な物かもしれないが、当の本人は必死だった。
こっから家までどのくらいかかると思っているんだよ。
息を切らしながら、悠は絶望すら感じていた。一本だけならまだ、撒きながら神社まで行くことができるだろう。現に経験はある。けど、数本はない。一本道で挟み撃ちにされれば終わりだ。
どういう経路で行こうか考えを巡らせているときだった。
足がもつれて転んだ。
しかも、運が悪いことに足首をひねったらしい。立ち上がれば、右足に痛みが走った。
嘘だろ……。
けど、ここで立ち止まる悠ではない。
「その心がけは、立派だと思うよ」
突如聞こえた声に、あたりを見回せば、小さく息を吐く音が聞こえた。
「主の命だ」
そう言って現れたのは、火ノ根だった。
目を疑うとは、こういうときのことを言うんだろう、と目の前の光景を見ながら悠は思った。
風のごとく突然現れた火ノ根は、あっという間に悠を追いかけてきた白いリボンを捕まえた。……獲物を狩る虎のように、その小さな口で。
兎がほうれん草を食べているみたいだ。
「お前、アレに触って大丈夫なのか?」
全てを飲み込み、袖で口を拭く火ノ根に聞く。
「……害があるのは、お前だけ」
相変わらず、フードで顔を半分隠したまま、淡々と答えた。
「僕だけ……?」
「そう」
どうして?
そう思っても聞くことはできなかった。もう、火ノ根は立ち去ったあとだった。




