三十九.×××よ、こんにちはⅢ
本当のことを話すと、ここのところずっと、体調はあまり良くない。咳は止まらないばかりか、最近は水を飲むたびに焼け付くような痛みが走るし、体がだるいときもある。
それに、夏からだろうか。綻びはよく目にするようになったし、白いリボンも見かける回数が増えた。
けど、綻びは念じれば何とかなる。それに、白いリボンも厄介だが神社にいれば安全だ。それだけわかっているだけでも大分違う。だから、智明のところで働くにしても特に支障はないだろう。そう思っていたのだけど――。
「君、さっき頼んだものはまだかね?」
「おーい、ちょっと電話番してほしいんだけどー」
「新人くーん、ちょっときて」
体がいくつあっても、足りない!
智明の働きで、学校が終わってからアルバイトをすることになったのだが、そのアルバイト先が問題だった。
忙しい。忙しすぎる。
智明は幅広く事業を持っているが、その中でも住み込みができる仕事としてとある寮の事務仕事を当てられた。一見普通だと思うだろう。けど――。
その「とある寮」というのが問題だった。
「でさあ、今日藤崎がさあー」
「え、まじで!」
同い年だろう女子の会話がいきなりすぐそばで聞こえて、思わず身を竦めた。向こうからこちらは見えないのはわかっている。わかってはいても、すぐに慣れるものでもない。
そう、悠が住み込みで働く寮、そこは華菜多も通う私立高校の寮なのだ。
一体、どうなっているんだよ。
華菜多には内緒だ――そう言った智明の顔が忘れられない。智明の経営人としての才能は底を知ることがないらしく、最近は幅広い事業を展開しているというのは知っていたけど、まさか、ここまで幅広いとは……。
兄弟でここまで差がひらくと、なんだか、虚しいというか、悲しいというか。
緑茶を注ぎながら、悠はそっとため息を吐いた。
「それにしても、寮だって聞いたときは結構楽な仕事だと思ったけど――」
とんだ大間違いだった。
有名私立高校の寮だからか、みんな勉強ばっかしてるんだろうなと思っていたのだが……ここに住む者は、一癖も二癖もある強者ぞろいだった。
「すんませーん」
窓口で、生徒だろう誰かが呼んでいる。
「すんませーん!」
さっきより大きな声で言うあたり、少し苛立っているようだ。受付担当者が対応するのだが、いないのだろうか。
受付は事務所からちょっと離れているせいか、他の職員が気づいた様子もない。
給湯室にいた悠は、再びため息を吐いた。受付窓口のすぐ近くには給湯室がある。そうなると、自然と対応するのは自分しかいない。
悠は、頼まれていた茶を置くと、恐る恐る窓口に向かった。
「……はい、なんですか?」
こんな感じでいいのか? と自問をしながらも声をかけてきた人物を見た。眠そうな目をした男子生徒だ。
「あの、家族に電話したいんで、これ」
そう言って渡されたのは、固定電話使用許可書だった。
私物の携帯電話を持っていても、長時間使用すればそれだけ料金もかかる。今は、無料で通話もメールもできるらしいが、そうでない者もいる。
「ああ、はい。どうぞ」
これならどうすればいいのかわかる。渡された書類にハンコを押したあと、受理した時間を赤ペンで書き足した。
そうすれば、生徒は設置されている固定電話のある場所に行くものなのだが、どういうわけか、その男子生徒はその場を動こうとしなかった。
……や、やり辛い。
自分たちと同い年の奴が寮の裏方として働いていると知られたら、それはそれは一大事だ。少なくとも、悠の学校だったらそうなる。
まあ、僕の高校には寮なんてもんはないけど――。
早く行け、と念じていれば、それが通じたのか男子生徒は窓口から電話のある場所へと向かった。ほっと胸をなでおろした悠は、記入された用紙に目を向けた。
「あー、僕より一個上なんだ」
学年の欄に三と書いてある。
「山崎、薫? 女みたいな名前だな」
途端、激しく咳き込んだ。喉が焼けるんじゃないかと思えるくらいの激痛と呼吸が上手くできないことで、一瞬、目の前が白くなった。
「ちょっ、大丈夫?」
お手洗いにでも行っていたのだろう、窓口担当の女性職員が、咳き込ながら背中を丸くしているのを見て、慌てて駆け寄ってきた。
大丈夫です、と言いたいのだが、喉をふさがれてろくに言葉もしゃべれない。
慌てる職員を視界の端に捉えた悠は、早く何とかしようとするが、自分の意思ではどうにもできないこともある。
息を吸うたび、体はそれを毒と認知し、吐きだしているようだとぼんやり思った。
「……あの、どうかしたんですか」
「え? ああ、うん。こっちでなんとかするから、大丈夫」
さっきの電話の許可書を出した生徒とは違い、女生徒の声が悠の耳に届いた。なんとなく、聞き覚えがあるような気がして、顔を上げたら目が合った。……後悔しても後の祭り。
「風早、くん? どうして?」
どうしてこう間が悪いんだろう。小さな窓口からは早々顔までは見えないはずなのに。
両手で口を隠し、驚くさまは育ちの良さを物語っていた。
アルバイト初日で知り合いにばれたことが相当ショックだったのか、同時に咳も止まった。
悠はまだ少しぼやける視界の中、しーっと口元に人差し指を持っていった。
――秘密だ、とわかったのか、女生徒は小さく頷くとその場を立ち去った。
華菜多に言わなきゃいいけど。
遠ざかっていく足音を聞きながら悠は思った。
まさか、一番最初にばれるのが愛美さんだとは思わなかったな。
緑水堂でアルバイトをする天野愛美の姿が強く印象に残っているせいで、すっかり彼女もここの生徒だと忘れていた。
「あのー、すんません」
どこか間の抜けた声が降ってきた。
「はいはい、どうしました?」
「電話、終わったんで」
窓口で職員の女性がそれに対応した。
さっきの人かと思いながら、床からゆっくりと立ち上がった。
もう、さっきの咳が嘘のように止まり、具合も何も悪くない。
最近、こう狐につままれるようなことが増えた気がする……。
すっかり冷えてしまった緑茶を片付けようと窓口に背を向けたときだ。一瞬だけ、さっきの男子生徒と目が合った。
「おとーとによろしく」
去り際に言われた一言。どこか面白いモノを見る目をしていた。
弟によろしく?
お茶を持ちながら、再び給湯室に入ろうとしたときだ。
「あー!」
「えっ、何! どうしたの?」
突然大きな声を出した悠に驚いた女性職員が、声をかけてきたが、悠にはそれどころじゃなかった。
「山崎の兄さんかっ!」
そう言って振り向いても、もう山崎の兄はいなかった。




