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刹那に色を  作者: はるの そらと
秋ノ章 良明
39/50

三十八.×××よ、こんにちはⅡ


 良さんが、働いてない……?

「え、じゃあ今までどうやって僕たち生活して――」

「私が毎月援助していたんだよ。そのうち返すから、と泣きつかれたから仕方なく、ね」

 そう言って智明はメガネをかけ直した。

 智明と良明は血のつながった兄弟にもかかわらず、昔から何かとそりが合わなかったという。神を信じる良明に対し、智明は現実的思考の持ち主で、宗教というもの全てを胡散臭く思っているらしい。事実、この神社のすべてを弟である良明が継いだこと、そして実業家として成功させ、今は指折りの資産家であることがそれを裏付けている。

「まったく、あいつは何を考えているんだか」

「ちょっと探してみます」

 そう言って悠はその場から駆け足で離れた。

 伯父から離れたかったのもあるが、それより今は、頭を冷やす時間が欲しかった。

 重い身体を引きずるようにして玄関の戸を開けたのは、すっかり日も暮れたあとだった。

 見つからないようだし、帰るよ、と言った智明を見送った後、ようやく家の敷居をまたぐことができたのだが、心は晴れない。

「……ただいま」

「おう! お帰り。ずいぶん遅かったのな」

 居間から満面の笑みを向けてきた良明を見た瞬間、腹の底で沈んでいたものが、一気に沸騰したかのように喉まで押し寄せてきた。

 わざと大きな音を鳴らしながら廊下を歩くと、悠は良明の目の前まで迫った。

「なんだ、なんだ?」

 と、呑気な声のせいで、さらに言いたいことが喉まで押し迫る。だけど、口を開けばそのすべてが濁流のように流れるだけで、相手には伝わらないことを悠はよく知っていた。

 悠は、鋭く息を吐くとまっすぐ良明を見た。

「……今日、伯父さんに境内であった」

「そうか、元気そうだったか? 智あ――」

「お金借りてるってどういうこと?」

 途端、良明が止まった。

「あいつ、お前に何言っ――」

「全部聞いたよ。良さんがこの二年間、働かないで伯父さんから金借りてたこと。……どうして言ってくれなかった? お金に困っているんだったら、高校やめて働いたって――」

「ダメだ」

 いきなり怒鳴った良明に悠は思わず口をつぐんだ。それに気付いた良明は、おどおどと挙動不審な行動をしたあと、小さく息を吐いた。

「これは俺の問題で、お前たちに迷惑をかけるつもりは一切ない。だからこのまま、今まで通りの生活を続けてほしいんだ」

「……ユウ君、よっしーもこう言ってるし」

 悠と良明のやり取りを、居間で目を丸くしながら見守っていた小梅が間髪入れず、こちらに加わった。

 すぐに納得できるわけもなく、悠はそのまま自分の部屋へ閉じこもった。

 空腹だったのに、今はどうでもよかった。

悠はそのまま、敷きっぱなしの布団に身を投げ出すと、瞳を閉じた。

 ふと目を開ければ、部屋の中はもちろん、居間に明かりがついていれば廊下を渡って襖から差し込む光もなかった。

 もう、寝たのか――。

 壁に掛けられた時計を見て、思わず強く目をこすった。

 もう、二時かよ。――感覚としては三十分くらいのつもりだったんだけど。

 そう思いながら重い身体を起こした。制服のまま寝たせいか、体の節々が凝っている。ぐっと伸びをした後、ネクタイを外した。欠伸をかみ殺しながら、制服から寝巻に着替えていれば、部屋の仕切りとしてある布が水草のように揺れた。

 別に珍しいことじゃない。いつものことと言えばそうである。だけど、悠はその布の向こうに普段とは気配を感じた。

 あいつ、いるのか?

 なんだかんだ言って、聞きたいと思うことも山ほどあるのに、きちんと話をすることもままならない。まあ、今まで会話のキャッチボールが成立した記憶がないのだけど。それよりも、だ。ここ最近奏の様子が変だ。灯篭流し、いや、山崎と川野が泊まったときくらいからか。さっきの絵馬殿のように変なことを言い出したかと思えば、何かを考え込んでいるのか、じっととある一点を見つめながら、数時間過ごしていることもある。それよりも、家に寄り付かなくなった。奏の姿を見たのを数日見ないこともよくある。前は、そんなことなかったのに、だ。

 悠は躊躇なくその仕切りの布を持ち上げた。布はくしゃりと歪み、悠と奏の間にあった境界線は簡単に壊れた。

 悠は、布を持ち上げた瞬間、奏と目が合ったことに一瞬だけ驚いたが、顔には出さなかった。奏は、始めからそこに悠の目があるのをわかっていたという顔で、こちらをじっと見たまま、動かなかった。

 何なんだ、あいつ。

 その目を受け止めつつ悠は思った。背筋に寒気が走るのは、まだ寒さの残る春先のことを思い出させる。

「……無情だな」

 悠は何も答えなかった。

 奏に聞きたいことが山ほどあったにもかかわらず、何故か目の前にいる人間は、いつもの奏ではないように思えた。

 初めて会ったときを思い出す、冷たく人形のように無感情の目が、そこにはあった。

「いつか葉が色づき枝から離れるように、人のときもいつかは終わる」

「何が言いたいんだ?」

 暗闇の中でもわかるその眼は、何かを語っているようにも見えた。が、結局その真意はわからないまま、奏は静かに立ち上がると部屋を出て行った。

 時計に目をやれば、午前二時半を指していた。途端立っていた足から力が抜けた。再び倒れ込むように寝転べば、伸びたままだった両足を抱え小さく丸まった。

 体が、震える。

 寒いわけじゃない。だけど、震えが止まらない。胸の奥の奥、自分の手では届かないところで、得体のしれない感情が暴れまわって痛い。

 ショック、だったんだなと暗闇を見つめながら思う。目を閉じると良さんの顔が浮かんで離れない。

 家族、だと思っていた。

 悠は抱えた両足を強く引き寄せた。

 血のつながりがないことは知っている。

 でも――。

 家族なんだから、そういう大事な話はしてほしかった。頼ってほしかった。

 悠は、深い皺が何本も刻まれるほど、きつく目を閉じた。早く、何も考えなくて済む、夢の世界へ旅立ちたかった。


   ◇


 星がきらめく。

 言葉にすれば、ただそれだけのこと。だけど、きらめいている、それを言葉ではなく実際に見て感じることができるのは、なんて幸せなんだろう、と思う。

 息を吹きかけるように吹いた風が、髪を攫う。同時に涙のように冷たいしずくが、頬に当たった。

 もう、これで何回目なんだろう。

 伏せた目に映るのは、光り輝く星ではなく、草の生えた大地だ。木の幹に背を預け、両腕で頭を抱え、視界を遮っても、刻み込まれるように鳴る瀧の轟音からは逃れられない。

 終わりが見えない。それはいつしか恐怖になっていた。だが、それでもこうして続けているのは、本心からだから。――たとえこれが植えつけられた感情だとしても、本心だと言い切る。

 朝日が顔を出す前に戻ろうと、立ち上がったときだった。

「よく、続けられるものだな」

「貴方には、関係ない」

 そう前にも言ったはずだ。振り返った時雨は、気配もなく現れた奏を睨みながら答えた。

「そう警戒しなくていい。俺とキミの望みは一致している」

「違う」

「どこへ行く?」

「貴方たちの言葉に耳を傾ける必要がない」

「……本当に、そうだろうか」

「……何が言いたい?」

「別に。ただ、俺は思う。キミは俺と協力せざる負えない存在なのだと。――だから俺はいつでもキミを歓迎しよう」

 時雨は鼻で笑った。

「そんなこと、絶対にありえない」

 そう言って、奏一人残し、その場を後にした。

 だが、胸のうちはかすかに揺らいでいた。


   ◇


 それから三日後。

 風を切るようにして石階段を駆け上がったあと、ゴールテープを切る勢いで、神社の境内へ身を投げ出した者が一人。

 悠だ。

 勢い余って倒れ込んだ悠は、横たわったまま起き上がろうとしなかった。

「な、なんとか、なった、か」

 全身が息を吸うように大きく上下する。

 火照った体に、石の冷たさが心地よい。心臓が強く胸を叩き、耳元では血の巡る音がよく聞こえた。

 白んで見える世界に、色が戻りつつある。目を閉じてしまいたい衝動に駆られながら、悠はじっと空を眺めた。

 目を閉じた瞬間に、今さっきまで追ってきたあれが現れるのではないかと思ってしまう。

 つい、昨日の晩のことだ。あの白いリボンから逃げ切る方法を聞いたのは。

 こちらにとっては生き死に関わること。真剣に聞いたのに、奏は明日の天気を答えるようにさらりと端的に答えた。

「ここまで戻ればそれでいい」

 まったく、あいつはどうしたんだ。

 白いリボンについて他にも聞こうとした途端、部屋から出ていくとそのまま外へ行ってしまった。

 始めからそういう男だったと言われれば、そうだったのかもしれない。けど、何かが今までとは違うのだ。――そう強いて言えば、雰囲気。

 そのとき、足音が聞えた。ゆっくりと体を起こして音のする方をみれば、こちらを見下ろす智明と目が合った。

「どうしたんだ?」

「いや、――別に」

 とっさに上手い嘘を付けるほど、口は達者でない。必死に考えを巡らせていれば、智明は一人で合点したようだった。

「お前も、華菜多と同い年だもんな。若いんだからそういうこともあるか」

 ……華菜多、お前普段家で何やってんだよ。

 それは、ともかく。

「今日は良明いるか?」

「智明……さん」

 おじさん、と簡単には言えなかった。悠は、伏せ目を上げると、正面から智明と向かい合った。

「僕、働きます。働いて借りていたお金、返します。……だから」

 ぎゅっと唇を一文字に縛ったあと、悠はその口を開いた。

「仕事をください」

「私のところに働く、と?」

「はい」

「私は良明ほど甘くはないぞ?」

「覚悟はできてます」

「そうか」

 それだけ言うと、智明は悠に背を向け鳥居の前まで行ってしまった。

 やっぱり駄目か、と思ったそのとき。

「君の好きにすればいい」

 それだけ言って、智明は階段を下りて行った。

 ――好きにすればいい、か。

 悠はちらりと社を見たあと、そのあとを追いかけた。



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