二十五.嘲るように笑う日常(6)
「……なあ、今日もついて来てるんですけど」
「気にし過ぎ。次移動教室だからだろ」
口元に手を当てこそこそと話す山崎は、うわさ好きのおばちゃんみたいだった。
「なあ、神山ってお前に気があるの?」
「さあ?」
「はぁー。モテる奴は言うことが違うぜえ」
「僕はモテないぞ」
軽く睨みつけてやっても、山崎はそれすら気づいてないようだった。
モテないものは、モテない。近くに本物のイケメンがいれば、嫌でも自分がどんなに魅力のない人間か思い知らされる。
「ったく、川野はまだ戻ってこないのかよ」
便所と言って教科書やらノートやらを持たされている悠は、後ろを振り返った。が、川野がくる気配は微塵もない。そのまま廊下に掛けられているアナログ時計に視線を移して、悠は言った。
「山崎、走るぞ」
一瞬理解できなかったようだが、校内中に響くチャイムの音で、その意味がわかったようだ。
向かう教室は化学室。教室のある校舎とは別の校舎にある。
「あのセンコー、遅刻するといろいろめんどうだからなー」
「同感」
全速力で廊下を走り、ドアを壊す勢いで飛び込めば、もう大方の生徒は各々の席で談笑していた。机に落書きしている者もいる。
「ギリギリ、間に、合った」
大きく肩で息をする二人は、ふと教室端にいる見知った顔に目を止めると、大股で近づいて行った。
「何呑気に座ってるんだよ」
山崎が川野の頭を軽く叩く。
「先行ってるなら初めから言ってけ」
「悪かったって。ちょっと捕まっててさ」
小声で謝る川野に、山崎はむくれ顔のまま聞き流した。それなりに怒っているらしい。
「面白い話してやるから、機嫌直せよ」
「……どうせオカルト話だろ」
わかりきってるんだよ、と目で訴える山崎に川野は動じもせず、むしろ不気味な笑みを浮べた。
「否定はしない。けど、お前も絶対食いつく話だ」
山崎も食いつくオカルト話、か。
悠には見当もつかない。
「見夢だよ、見夢」
途端、喉を締め付けられる錯覚を感じた。
「見夢がどうしたんだよ?」
ちょっとやそっとの話じゃ動じないぞ、と山崎の声音は言う。
川野はそれでも余裕を見せたまま。一体どんな話をしたのかと気が気ではない。
「見夢の行き方がわかった」
「マジかよ!」
身を乗り上げる山崎に対し、悠は言葉なく、ただ大きく目を見開いた。
二人の反応に満足したのか、川野は得意気な顔を二人に向けた。
「なあ、今度試してみようぜ」
川野がそう言った瞬間だった。
いきなり教室中に響き渡った破裂音に、全員の視線が一点に集まった。
時雨が机を思い切り叩いたのだ。一気に静まり返った教室の中で、悠は時雨と目が合った。
その眼は、怒りよりも憂いを湛えていた。
「どうした? 神山」
教室に入ってきた化学教師は、その場を包む不穏な空気を察したのか、静まり返った教室内でただ一人立ち上がっている時雨に声をかけた。
だが、時雨はその問いには答えず、ただ一点を睨むだけだった。
悠は即座に目線を逸らすと、今まで感じていた既視感の正体が不意にわかった気がした。
時雨は、どことなく雰囲気が似てるのだ。
――まだ、風早家にやってきたばかりの頃の、奏に。
小さく咳をして、悠は窓の外を見た。
相変わらず、雨は降り続いていた。
「風早、風邪でも引いたのか?」
川野が小声で話しかけてきた。教室中を包んでいる妙に緊迫した雰囲気は大分薄れ、あちらこちらで話し声がささやかれていた。
「夏風邪は、引くと厄介だっていうからな」
気を付けろよ、と直接言わないあたりが川野らしい。その意図をくみ取って、悠は頷いた。
風邪なのかわからないが、黒龍の谷の一件以来、喉の調子が悪い。
喉に手を当ててみれば、普段触らない場所だからか、違和感しなかった。
途端、激しく咳き込んだ。
大丈夫か、と心配する川野と山崎の声に応えようとするが、息を吸えばその分激しく咳き込む。
視界が涙で滲んだ。絵具のついた筆を、水のバケツに付けたかのようなあいまいな線の世界で、息苦しさから逃げるためか、悠の意識は見夢に向いていた。
見夢に行こう――そう川野は言った。
魔界でも異世界でもあの世でもない、見夢という世界。それは、いつから人々が口にするようになったのかわからない。けど、都市伝説の一種である見夢は、テレビでも特集を組まれたことが多々ある。その中で見夢に行ってきたと話す人間が必ず出てくるが、それは全部嘘だと悠は知っていた。
けど、本当に「あちら側」が見夢なのかはわからない。だが、確信にも似た勘ではあった。
そして奏に会い、自分の世界はまたもや一変。
よくよく考えてみればおかしな話じゃないか。
突然消えた人は見夢に行く……暖かな日差しが差し込む教室で、いつの日か川野が言った言葉がひっかかる。
そうだ。山崎が消えると奏に言われたときだ。
――この世界にとって不要になっただけ。そのうち誰もがその人間の事を忘れ、もともといない人間として扱われる。
そう奏は言っていた。つまり、見夢に行った人間を僕たちが知る術はないのだ。
となると、だ。見夢は皆が口々に言う理想郷ではない、ということになる。
――願いが叶うなんて、嘘だ。
見夢という世界は、人間を騙し嵌めるための大きな罠じゃないのか?
見夢に行こうという川野を止めなければ。
だが、咳は止まるどころかひどくなった。体を小さく丸め、何とかしようと必死になっているときだった。
嫌な気配が、背中にひしひしと伝わる。
両手で首回りを触られているような気がして、体を起こせば、涙で滲んだ視界に、白い煙のようなものが視えた。風が吹けば揺れる水面のような視界で、時折はっきりと見える世界。その瞬間、悠は勢いよく立ち上がった。
「おい、風早。どこに行く!」
教師の怒鳴り声を背中で受け止めながら、悠は廊下を走った。




