十四.手探りな日常
奏には未だにわからないことがある。
どうしてここにいるのか、ここはどこなのか、そして、自分が何者なのか――。
わからない割に、何故か知っていることも多々ある。「綻び」から出てきた、アレもそうだ。
そして同時に、目が覚めたときから胸のうちで騒ぐ声。
その声は言う。
――ここで心の内を見せるな、誰とも馴れ合うな、と。
◇
「黒龍の涙」と悠の口からきいたときに走った痛み。それは、「知っている」と体が訴えた痛みだ。
ただ、「黒龍の涙」が何なのかはわからない。
だが、片手を顎に添えたとき、脳裏に真っ暗な情景が浮かんだ。いや、真に暗闇ではない。微かに何かが落ちるのが見えた。と、同時に水の跳ねる音が耳に届く。
「黒龍の涙は、ここより上にある洞窟の中でしか採れない、湧水のことだ」
悠の言葉で我に返った奏は、なんとなくどういうものかわかる気がした。
「ここには、二匹の龍がいる。この神社の主神は白龍の瀧だけど、影のように存在するもう一匹の龍が黒龍、つまり洞窟だ」
ここよりさらに登ったところに、その入り口があるらしい。
「白龍の瀧はよく行くけど、黒龍の谷――その洞窟のことをそう言うんだけど――ん、まあ、ほとんど行かない」
野良が首を傾げた。その眼は「どうして?」と問いかけている。悠は、かすかに口角を上げると、言った。
「洞窟だけど、『黒龍の谷』と言われるくらい急斜面が多い。というより、もう崖みたいなんだ。それに中は昼でも真っ暗。白龍の瀧も本当は立ち入り禁止だけど、黒龍の谷の方が、それ以上に危険な場所だ。だから僕や小梅でも、黒龍の涙を採りに行くとき以外は行かない。足滑らして死ぬかもしれないし」
「そんなに危険なところなのか?」
こてんと首を傾げる野良の頬を小梅がひねった。
「もう、黙って」
冷ややかな目線に、野良が固まった。
「ちょ、小梅」
悠が小梅をなだめようとしたときだ。
「なんだ。みんな揃ってるじゃない」
四人の視線が、一斉に向く。
「これ、運ぶの手伝ってよ」
大きな鞄をいくつも持った華菜多がそこにいた。
「……その荷物」
躊躇するように悠が呟けば、華菜多は静かに笑った。
「私のよ」
その笑顔が、怖い。顔は笑っていても、目は冷ややかだ。
これ以上聞かない方がいいと判断したのか、悠はそれ以上何も聞かなかった。
だが、そうはいかない者が一人。
「なんか、かっちゃん、山にでも籠りそうな荷物だね」
ただ単に純粋なだけなのだろう。だが、野良の一言は悠と小梅を凍りつかせるには、十分すぎた。
「もういいから、あんたは黙って。できることなら一生しゃべらないで」
いち早く我に返った小梅が、再び野良の口を掴みながら言う。眼光だけで野良は怯んだ。
「ねえ、叔父さんいない?」
華菜多の言葉に、小梅が頭を左右に降った。
「よっしー、朝から社にこもって祝詞をあげてるから」
「そうなんだ……ねえ、ウメちゃん。あたしが泊まれる部屋ってあるかな?」
「は? 華菜多、お前……」
「私はウメちゃんに聞いてるの。ユウは黙って」
悠は長いため息を吐くと、わざとらしく頭を抱えてみせた。
「お前さ、なんで家出なんてしたんだよ……」
悠の様子から、華菜多の家出が初めてではないことを奏は察した。
華菜多は、殺気立つ視線を悠に向けたかと思いきや、みるみるうちに目に涙がたまった。
「もう、あんな家帰らない!」
心配そうな表情で華菜多を見上げる小梅。奏も野良もただなりゆきに任せるしかなく、ただ立っていれば、華菜多から鋭いほどの視線を向けられた。
「お父さんなんか大っ嫌い!」
◇
どうもこうも、あの黒猫の件が原因らしい。
「もうあんな人、知らない」
かなり頭に来ているらしい華菜多を横目に、悠がこっそりため息を吐いたのを、奏は見逃さなかった。
どうやらここに来て、いきなりいなくなった猫の悪口を言ったらしい。もしかしたら、家族になっていたかもしれない猫だったのだ。華菜多の堪忍袋の緒を切るには十分だった。
「元気ならいいんだけど。でも、いきなりいなくなったのも事実だから」
さっきまでの勢いがいきなりなりをひそめ、視線を伏せる華菜多。なんだかんだ言って一番野良猫を気にかけ、世話していたのは華菜多だったのだ。
猫は自分の死期が近づくと、自ら姿を消すという。
もしかしたら、死んでしまったのではないかと思っているのだろう。そんなとき、娘の気持ちも知らず、不用意な言葉を吐いてしまった、というところか。
再び、ため息が吐かれた。
「お前さ、まさかその黒猫が見つかるまでうちに居座るわけじゃないよな?」
華菜多は、下を向いたまま何も答えなかった。どうやら、悠にとってはそれだけで十分だったようだ。
「前も飼ってたインコが逃げたからって、泣きべそかいてうちに居座ったけど、結局見つからなかったじゃないか。また同じことを繰り返すのか?」
そのとき、小梅が悠の腕を掴んだ。
「ユウ君、いいすぎ」
静かに忠告する小梅の、真剣な眼差しを受け、我に返ったのか、改めて華菜多を見ると俯いたままで表情はわからないが、肩がかすかに震えていた。
「華菜――」
「うるさいっ! そんなの、私が一番わかってるよ!」
悠の言葉を遮って、ぽろぽろと涙をこぼす華菜多が叫んだ。
「でも、私は、あのときとはもう違うの。ただ、来るのを待つだけじゃあダメだって、わかったの」
そう言って、走り去った華菜多。それをめんどくさそうに追いかける悠。だが、内心はそんなに面倒ではないのだろう。その目がありありと語っていた。
突然いなくなってしまった二人を追いかけるように、小梅と野良の二人も駆けて行った。
そんな小さな二つの背中を見送りながら、呆然とただ立ち尽くす人影が一つ。
奏は頭を殴られたかのような、いや、体中が「知っている」と言わんばかりに、言葉無く何かを伝えようとし電流を流したような、そんな衝撃が貫いた。
華菜多の叫びが、頭の中で繰り返される。
――来るのを待つだけじゃあ、ダメだ、と。




