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刹那に色を  作者: はるの そらと
春ノ章 ユウ
11/50

十.目は前にしかついていなかった(四)


 奏のいう「綻び」は、いつも同じ場所にあるとは限らない。風に舞う木の葉のように、その場に留まるとは限らないのだ。

 もちろん、これは悠の経験上の話で実際は特殊なケースなのかもしれない。とにかく、その場に留まる「綻び」もあればそうじゃないものもある。

 今、視えているものもそうだ。黒板上、ちょうど真ん中に「綻び」がある。女の英語教師が、教科書に書かれている英文を読み上げるたびにそれは動く。

 音に反応するのか?

 視えることを嫌がって、それほど深く観察したことはなかったが、こうしてみると、いろんな発見がある。これは、今までこの現実を避けてきた自分が悪い。

「じゃあ、この一文を――風早、読んでくれる?」

 授業に集中していたわけではないのに、当てられるなんて……。

 悠は、しぶしぶ立ち上がるときっぱりとした声でこう言った。

「わかりません」


   ◇


「部活のマネージャーに一年が二人入ったんだけど、部内じゃあどっちが可愛いかで割れてさー」

 購買で買ったパンを片手に、山崎がいつもと変わらぬ様子で言う、記憶にも残らないどうでもいい話。

 ケラケラと楽しそうな山崎とは対照的に、悠の内心は焦っていた。

 山崎がパンを持っていることはわかる。だが、肝心の手が悠には見えなかった。

 急がないと――山崎は消える。

 突き付けられた信じがたい現実が頭をよぎる。そのせいか、箸はまったく進まなかった。

「隙ありっ!」

 気付けば、弁当箱に入っていた卵焼きは山崎の手の中。そう思えば、あっという間に口の中へ消えてしまった。咀嚼され呑み込まれていくさまをぼんやり眺めていれば、頭に痛みが走った。

「何するんだよ」

 頭の側面をさすりながら、デコピンをしてきた川野に目を向ける。だが、川野の深刻そうな目を見て、怒りがしぼんだ。

「風早、ここ最近変だぞ?」

 川野とのやり取りを見た山崎は、ぽかんとその様子を眺めている。山崎が、くわえたストローからズズッと音を立てた。

「お前の思い過ごしだろ」

 川野の方を見ながら、何事もない顔で返す。

 演技をするのは得意だ。――何せ視えないものが視えることをずっと隠してきたのだから。

 別に得意にならなくてもいいことなのにな、と少しだけ感傷に浸る。そうして、再び川野の方を見たときだ。

 いつもならすぐに納得するはずの川野の表情が、未だに変わっていなかった。

 どことなく疑われている気がして、体の中心に鈍い痛みが走る。

「風早、お前さ」

 次に口から出てくる言葉に、恐怖を感じつつ悠は無表情で川野の言葉を待った。

 ――否定か、疑惑か、はたまた嫌悪か。

 耳をふさいで逃げ出したい、そんな気持ちと必死に戦いながら、川野を見る。

 川野は、小さく息を吐くと悠の肩に片手を乗せた。

「悩んでるなら、相談しろよ? オレたち、ダチなんだから」

 予想外の言葉に、目を丸くすればポンポンと肩を叩かれた。

「まあ、風早がオレらを友達と思っているならなー。悩み過ぎると禿るって聞くし。オレ、禿げた風早、見たくねえわ」

 深刻な表情から一転、おちゃらけた様子で話す川野の言葉を聞いて、案の定というべきか、山崎が腹を抱えて笑い出した。

「ハ、ハゲ。ハゲた風早って、ブブッ」

「まあ、スキンヘッドでもイケメンな奴はいるし。……風早は坊主でも似合うだろうから、思いっきり悩んでもいいかもな。――でも」

 再び川野が真剣な表情で悠を見た。

「オレたち、いつでも相談に乗るから」

 喉まで出かかった熱い思いの名を、悠は知らない。ただ、知っていても形にしてしまえば、それは陳腐なものにしかならないことだけはわかった。

 ――ありがとう。

 素直に言いたいけど言えない言葉を胸に、悠は二人から視線を逸らした。

 相談に乗ってほしいとは思う。けど、それができないことは、誰よりも悠自身が一番よくわかっていた。

 視線の先に「綻び」が現れる。

 それを見て、思わず顔をしかめた。


   ◇


 手に、額に、頬に、水しぶきは躊躇なく飛んできた。目の前にある瀧を見上げながら、奏は一人思う。

 だが、すぐに足元へ視線を向けてしまった。

 耳に届くのは、瀧の音だけ。そんなときだ。背後から茂みを揺らす音が聞こえたのは。

 奏は、無表情のままゆっくり振り返った。誰もが嫌う目をじっと向ける。すると、一匹の猫が現れた。

 猫はそのまま奏の足元まで来ると、一声鳴いた。漆黒の体は、どことなく黒光りしている。野良猫にしては、綺麗な猫であった。

「みゃあ」

 立ったままでいれば、再び猫が鳴く。そのやり取りが、繰り返された。

 何度目のことか、数えるのが億劫になる頃、ようやく奏はその場にかがんだ。黒猫は嬉しそうに、手にまとわりつく。

 そして、どこからともなく和菓子をその手に載せると、森の方へ姿を消してしまった。

 奏の手に載せられたもの、それは小梅が投げた、うさぎの姿をした和菓子であった。


   ◇


「ユウ君、最近帰ってくるの、遅くない?」

 夕飯が並ぶ食卓で、唐突に小梅が尋ねてきた。

「そうか?」

 何食わぬ顔で返せば、小梅はじっと悠の方を見た。晩飯当番だった悠は、フライパンを片手にその視線を無視した。けど、正直やり辛い。

「どこかで道草してるの?」

 頬杖を突きながら、聞いてくる小梅に悠は笑って答えた。

「まあ、そんな感じ」

 ふーん、と納得していない小梅の声が耳に届く。でも、嘘は言っていない。「道草」をしているのは事実なのだから。

 朝早く起き、家を出るようになってすでに三日。山崎に起きる現象は、未だ止まらない。最近は、消える部分も増え、それが焦りへとつながっていた。

「綻び」を見つけたら消すようにはしている。

 奏の言うことに半信半疑ではあったが、確かに「消えろ」と念じれば「綻び」は無くなった。どういう仕組みなのかはわからない。人間には理解できない理が、そこにあることは間違いないだろう。

 そしてまた、血眼になって探すうちに、わかってきたこともある。

 一つは音に反応すること。そして、もう一つは、「綻び」によって好む音が違うということだ。

 静かな場所に響く音に吸い寄せられて現れる「綻び」もあれば、逆に耳をつんざくような騒音を好む「綻び」もある。

 奏の言う「聞耳」とは、ここに由来するのかもしれない。だが、小梅が言った「聞こえないものが聞こえること」という言葉も気になる。

 でも、今はそんなこと――どっちでもいい。

「聞耳」なんて言葉、自分には関係ない。それより今は、「綻び」直しに専念しなければならない。だが、意外とその数は多く、時間内に見つけ出せるか、自信がない。

 それでもやるしかない。――友人が消えることを防ぐには。

 そんなことを思っているときだった。

「あ、奏。もう帰ってきたんだー。今日は早いね」

 振り返れば、確かにそこには無表情な青年が立っていた。

「よっしー、今日は遅くなるって言ってたから、三人でご飯だね」

 笑顔で話す小梅とは対照的に、奏は相変わらずの無表情で食卓に並べられた料理を見ると、小梅に視線を移した。

 そして、すっと片手を差し出した。

 差し出された手に乗るものを見て、小梅が驚きの声をあげる。

「どうして……どうしてこれを持ってるの?」

 ちらりと見えたそれは、うさぎの形をしていた。

 何なんだ?

 首を傾げる悠を無視して、小梅が声を荒げた。

「もう! これだから嫌いよ!」

 奏の手の上にあったものを掻っ攫うと、小梅は台所を出て行った。

 何か事情を知っているのかと、奏の顔色を窺ったが、そこからは何も読み取れなかった。


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