九.目は前にしかついていなかった(三)
「まだ、お前には聞きたいことが山ほどある」
再び睨みを利かせ、悠は言う。
「人が透けて見えた。他のやつには見えていない。これも、ヒビと同じ――『あちら側』のことなのか?」
しばらく黙っていた奏だが、煙を吐くように息を吐き出すと、切れ長の目をこちらに向けた。
「ほうっておけ」
「じゃあ、問題はないんだな?」
ほっと胸をなでおろした瞬間だった。
「キミには問題はない。ただ、透けた人間が消えるだけ」
その瞬間、自分だけ地に呑みこまれていくような感覚がして、思わずよろめいた。
……消える? 山崎が? どうして――。
「なんでだよっ!」
胸ぐらをつかんでも、奏は顔色一つ変えない。
「……別に不思議なことじゃない。ただこの世界にとって不要になっただけだ。そのうち誰もがその人間の事を忘れる。もともといない人間として扱われる。ただそれだけだ」
「……ただそれだけ、だと?」
風に乗って、水しぶきが頬に当たった。
「そんな簡単に言うな!」
かすかに震える怒声は、虚しく瀧の音に食われた。
「……ただそれだけって、何なんだよ」
こんなこと、今までなかった。
何か、何かが少しずつおかしくなっている。
平凡でありきたりな毎日。それを嫌だと思ったことはない。
それなのに、だ。
世界は、僕の望みなんか無視して動く。
「……どうすれば、いいんだよ」
「綻びを結び直せばいい」
突然降ってきた声に、悠は顔を上げた。
「世界が不要としているわけではないなら、どこかにある綻びを直せば済む話だ」
「綻び?」
奏はすっと目を細めると、唐突に森の奥に向かって指を指した。つられて悠もその指先を見る。すると、卵から雛が還るかのように空間にヒビができた。
あれが「綻び」なのか? それじゃあ、いつも視えていたあれらもそうなのだろうか。
「あれをどうすれば直せるんだよ?」
「綻び」がわかってもそれを直す術を知らなきゃ意味がない。
奏は思案するような素振りで空を仰ぐと、そのまま言葉を放った。
「……念じればいいだろう」
それを聞いて、ぽかんとアホみたいな顔をしたのは言うまでもない。
「念じればいいって――適当なこと言っているわけじゃないよな」
山崎の存在がかかっているんだ。いい加減なことを言われたらたまったもんじゃない。
だが、奏は悠の言葉を無視して話を進めた。
「影響を与えている綻びは、おそらく一か所。それを結び直さなければその人間は消える。――時間は、一週間、といったところか」
淡々と伝えられる情報。悠はただそれを聞き、信じて行動する以外何もできない。
「……どうして」
呟きに近い声が、口から洩れる。
知らないことを次々と――。
自らの声を耳で受け取った瞬間、悠はぐっと両手のひらを握りしめ、奏を見て叫んだ。
「どうしてお前は知っている!」
奏は一瞥しただけで、その問いには答えなかった。
◇
残された時間は少ない。
誰かに助けを求めたくても、求められない状況に、悠は一人うなだれた。
それでも、山崎を救う方法があるのなら――。
再び顔を上げた悠の瞳には、決意の灯が宿っていた。
翌日の早朝。まだ日も昇らない時間に、布団を出た。手や足先はまだ冷たい。山の中腹あたりに位置するためか、麓の気候よりもずっと涼しい。吐く息も、心なしか白い気がする。
だが、そんなことに構っていられない。
悠は、上着を羽織ると、そっと玄関の戸を開け、外に出た。
境内に響き渡る、玉砂利の音がやけにうるさく聞こえる。身を清めるための手洗い場の水音と共に、瀧の落ちる音もかすかに耳に届いた。
「聞耳」とは、何なんだろう。
人には視えないものが視える。それは認める。けど、「あれら」から音を聞いたことは一度もない。それなのに、「聞耳」というのか?
あいつは、わからないことだらけだと言っていたが、それ以上にわからないことだらけなんだよ、僕は。
玉砂利の一つが、うさぎのように前へ跳ねていく。その様子をぼんやり目で追えば、ふと視界の隅に何かの影を捉えた。
「何でこんなところに黒猫がいるんだ?」
悠が首を傾げれば、黒猫は森の中へ姿を消した。この境内で猫を見かけるのは初めてだと、光明が差し込む前の朝霧の中、悠は思った。
◇
「ユウ君、どこ行ってたのさ!」
戻って早々、怒りを露わにした小梅が、玄関で待ち構えていた。
まだ朝は冷えるだろうに、と裸足姿の小梅を見て思う。
「ちょっと境内の中で散歩」
本当は「綻び」を探しに出たのだが、そんなこと、口が裂けても言えない。結局、境内の中にそれらしきものは見当たらなかった。
気長に探せるほど時間はない。明日は、町の方へ行くか。
どこか遠くに思いを馳せながら、座って靴を脱げば、いきなり背中が重くなった。
「いきなりどうしたんだよ」
まだ、結っていない黒髪が、頬や首に当たってくすぐったい。
ぽんぽんっと頭を撫でてやれば、首に回された細い腕がきつく締められた。
「ったく。本当どうしたんだよ。らしくないぞ?」
「……だもん」
「え?」
「ユウ君は、小梅が守るんだもん」
「何だよ、それ」
そう言って笑ってみせたが、小梅が腕を緩める気配がない。仕方なく、何も言わないまま、ただ優しく小さな頭を撫でてやった。
◇
悠は学校に、良明は買い物に出かけている午後。小梅は一人居間でくつろいでいた。
誰もいない家の中は、耳鳴りがするほど寂しい。
誰もいないことをいいことに、寝転びながら日子からもらった和菓子を頬張っていると、小梅はいきなり立ち上がった。普段と違い、鋭い目つきのまま、庭へと続く縁側に出る。
その足音からは、怒りが伝わる。
「何の用だ!」
縁側に出た小梅は、庭に向かって叫んだ。
だが、小梅が怒鳴るその先に、人影はない。
「お前まで来て、迷惑なのわかってる? 早く帰って!」
そう言って手に持っていた和菓子を放り投げてしまった。
しまった、と思ったときには時すでに遅し。
うさぎの形をした愛らしい和菓子は、そのまま森の方へと姿を消した。
「馬鹿!」
目に涙を溜め、小梅はぴしゃりと戸を閉めた。
森へ飛んで行った小さなうさぎ。ほのかに甘い香りを放つそれは、小さな手によって拾われた。
――森が、静かに騒ぐ。




