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刹那に色を  作者: はるの そらと
春ノ章 ユウ
10/50

九.目は前にしかついていなかった(三)


「まだ、お前には聞きたいことが山ほどある」

 再び睨みを利かせ、悠は言う。

「人が透けて見えた。他のやつには見えていない。これも、ヒビと同じ――『あちら側』のことなのか?」

 しばらく黙っていた奏だが、煙を吐くように息を吐き出すと、切れ長の目をこちらに向けた。

「ほうっておけ」

「じゃあ、問題はないんだな?」

 ほっと胸をなでおろした瞬間だった。

「キミには問題はない。ただ、透けた人間が消えるだけ」

 その瞬間、自分だけ地に呑みこまれていくような感覚がして、思わずよろめいた。

 ……消える? 山崎が? どうして――。

「なんでだよっ!」

 胸ぐらをつかんでも、奏は顔色一つ変えない。

「……別に不思議なことじゃない。ただこの世界にとって不要になっただけだ。そのうち誰もがその人間の事を忘れる。もともといない人間として扱われる。ただそれだけだ」

「……ただそれだけ、だと?」

 風に乗って、水しぶきが頬に当たった。

「そんな簡単に言うな!」

 かすかに震える怒声は、虚しく瀧の音に食われた。

「……ただそれだけって、何なんだよ」

 こんなこと、今までなかった。

 何か、何かが少しずつおかしくなっている。

 平凡でありきたりな毎日。それを嫌だと思ったことはない。

 それなのに、だ。

 世界は、僕の望みなんか無視して動く。

「……どうすれば、いいんだよ」

「綻びを結び直せばいい」

 突然降ってきた声に、悠は顔を上げた。

「世界が不要としているわけではないなら、どこかにある綻びを直せば済む話だ」

「綻び?」

 奏はすっと目を細めると、唐突に森の奥に向かって指を指した。つられて悠もその指先を見る。すると、卵から雛が還るかのように空間にヒビができた。

 あれが「綻び」なのか? それじゃあ、いつも視えていたあれらもそうなのだろうか。

「あれをどうすれば直せるんだよ?」

「綻び」がわかってもそれを直す術を知らなきゃ意味がない。

 奏は思案するような素振りで空を仰ぐと、そのまま言葉を放った。

「……念じればいいだろう」

 それを聞いて、ぽかんとアホみたいな顔をしたのは言うまでもない。

「念じればいいって――適当なこと言っているわけじゃないよな」

 山崎の存在がかかっているんだ。いい加減なことを言われたらたまったもんじゃない。

 だが、奏は悠の言葉を無視して話を進めた。

「影響を与えている綻びは、おそらく一か所。それを結び直さなければその人間は消える。――時間は、一週間、といったところか」

 淡々と伝えられる情報。悠はただそれを聞き、信じて行動する以外何もできない。

「……どうして」

 呟きに近い声が、口から洩れる。

 知らないことを次々と――。

 自らの声を耳で受け取った瞬間、悠はぐっと両手のひらを握りしめ、奏を見て叫んだ。

「どうしてお前は知っている!」

 奏は一瞥しただけで、その問いには答えなかった。


   ◇


 残された時間は少ない。

 誰かに助けを求めたくても、求められない状況に、悠は一人うなだれた。

 それでも、山崎を救う方法があるのなら――。

 再び顔を上げた悠の瞳には、決意の灯が宿っていた。

 翌日の早朝。まだ日も昇らない時間に、布団を出た。手や足先はまだ冷たい。山の中腹あたりに位置するためか、麓の気候よりもずっと涼しい。吐く息も、心なしか白い気がする。

 だが、そんなことに構っていられない。

 悠は、上着を羽織ると、そっと玄関の戸を開け、外に出た。

 境内に響き渡る、玉砂利の音がやけにうるさく聞こえる。身を清めるための手洗い場の水音と共に、瀧の落ちる音もかすかに耳に届いた。

「聞耳」とは、何なんだろう。

 人には視えないものが視える。それは認める。けど、「あれら」から音を聞いたことは一度もない。それなのに、「聞耳」というのか?

 あいつは、わからないことだらけだと言っていたが、それ以上にわからないことだらけなんだよ、僕は。

 玉砂利の一つが、うさぎのように前へ跳ねていく。その様子をぼんやり目で追えば、ふと視界の隅に何かの影を捉えた。

「何でこんなところに黒猫がいるんだ?」

 悠が首を傾げれば、黒猫は森の中へ姿を消した。この境内で猫を見かけるのは初めてだと、光明が差し込む前の朝霧の中、悠は思った。


   ◇ 


「ユウ君、どこ行ってたのさ!」

 戻って早々、怒りを露わにした小梅が、玄関で待ち構えていた。

 まだ朝は冷えるだろうに、と裸足姿の小梅を見て思う。

「ちょっと境内の中で散歩」

 本当は「綻び」を探しに出たのだが、そんなこと、口が裂けても言えない。結局、境内の中にそれらしきものは見当たらなかった。

 気長に探せるほど時間はない。明日は、町の方へ行くか。

 どこか遠くに思いを馳せながら、座って靴を脱げば、いきなり背中が重くなった。

「いきなりどうしたんだよ」

 まだ、結っていない黒髪が、頬や首に当たってくすぐったい。

 ぽんぽんっと頭を撫でてやれば、首に回された細い腕がきつく締められた。

「ったく。本当どうしたんだよ。らしくないぞ?」

「……だもん」

「え?」

「ユウ君は、小梅が守るんだもん」

「何だよ、それ」

 そう言って笑ってみせたが、小梅が腕を緩める気配がない。仕方なく、何も言わないまま、ただ優しく小さな頭を撫でてやった。


   ◇


 悠は学校に、良明は買い物に出かけている午後。小梅は一人居間でくつろいでいた。

 誰もいない家の中は、耳鳴りがするほど寂しい。

 誰もいないことをいいことに、寝転びながら日子からもらった和菓子を頬張っていると、小梅はいきなり立ち上がった。普段と違い、鋭い目つきのまま、庭へと続く縁側に出る。

 その足音からは、怒りが伝わる。

「何の用だ!」

 縁側に出た小梅は、庭に向かって叫んだ。

 だが、小梅が怒鳴るその先に、人影はない。

「お前まで来て、迷惑なのわかってる? 早く帰って!」

 そう言って手に持っていた和菓子を放り投げてしまった。

 しまった、と思ったときには時すでに遅し。

 うさぎの形をした愛らしい和菓子は、そのまま森の方へと姿を消した。

「馬鹿!」

 目に涙を溜め、小梅はぴしゃりと戸を閉めた。

 森へ飛んで行った小さなうさぎ。ほのかに甘い香りを放つそれは、小さな手によって拾われた。

 ――森が、静かに騒ぐ。



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