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××の足音


 ――助けて。

 精一杯に叫んだつもりが、ごぼり、と大きな泡となって消えた。同時に口からなだれ込んできたものが、肺に残ったわずかな空気を奪い、絶望の奈落へと叩き落とす。

 目の前がかすみ、体からは力が消えていった。

 ――父さん、母さん。

 両親の顔が浮かんだあと、視界は真っ暗になった。


   ◇


 荒い息が木霊する。

 鳥も虫も風もない、何もかも呑み込んでしましそうな漆黒の森の中で、一陣の風のごとく草木を揺らす者がいた。幾度となく足を捕られ、転びそうになりながらも、前へ前へと足を運ぶ。

「まだ、来るのか」

 何が追いかけてきているのか、どうして逃げているのかわからない。けれど、逃げなければならないと本能が告げていた。

 あれに捕まってはいけない、と。

 黒以外何も見えない森を一瞥したあと、行く先もわからないままただ走る。道を選ぶ暇なく走ったせいか、顔も腕も傷だらけ。頬についた傷からは、血が伝った。

 足を止めたい。口の中は乾き、かすかにだが血の味がする。体を駆け巡る酸素が足りないと、心臓が強く胸を叩く。

 だが、ここで立ち止まればどうなるのかなんて、火を見るより明らかだ。

 もう少し、もう少しだけ――。

 自分を騙し騙し走れば、耳元でゴポゴポと水の音が聞こえた。まるで自分が水の中にいるかのような、そんな錯覚になる音に疑問を抱きつつ、ただ駆ける。

 そのときだ。

 いきなり地面が消えたのは。

 否。水の中に落ちたのだ。

 何故こんなところにあるのか、考える間もなく、純粋に体は酸素を求め、必死にもがく。だが、白く揺らめく水面に向かって、手を伸ばしても、届かない。口から出る泡が、自らの命のように思えた。

 ここで、死ぬのか――。

 薄れゆく意識を手放そうとしたとき、何かが腕を掴んだ。

 このまま引きずり込むつもりか。

 そう思った。けど、違った。

 力を振り絞って、瞼を開ければ、白く細い、大きな手が上から腕をつかんでいる。

 水圧が顔にかかる。苦しいが、同時に、目を閉じていてもはっきりとわかる光を感じた。その光にどこか安心感を覚えた。

 水面から顔を出した途端、口いっぱいに酸素を吸い込んだ。全身で呼吸をしようと、体が空気を求める。力強く打つ脈が、まだ生きていることを教えてくれる。焦点を戻しつつある目、そして冷静さを取り戻した耳で捉え たのは、真っ白な、滝。

 漆黒の中に映える、一本の光に見えた。


   ◇


 春遠い四月上旬。

 山間の小さな町にとって、都道府県ごとの桜開花予報は当てにならず、まだ肌寒い日々が続いていた。それでも確かに春の足音は聞こえており、山は若葉色に染まりつつあった。

 人口二万人ほどの小さな田舎町。大型ショッピングモールや映画館などのしゃれたものもなく、町の大通りにある商店街と小中高校、あとは一時間に一本通る電車しかない、時代から取り残されたような場所だ。

 そんな寒い期間が長い場所でも、暦の上では春。四月は学生にとっても真新しい学期の始まりでもある。

 もう少し暖かければ、屋上で昼飯を食べたのに、と教室の片隅、ストーブの近くで弁当を広げながらそんなことを思う。

「俺? もちろん金持ちになる! 金さえあれば何でもできる! 人、物、権力、地位、それに――女もだ!」

 もしも願いが一つだけ叶うなら、という誰でもしたことがあるだろう話題。

 山崎は何の迷いもなく答えた。

「山崎らしいわ。でも、金で解決できないことも山ほどあるぜ?」

「なんだよ、川野。どうせ妖怪ぃー、幽霊ぇー、守護霊ぇーとか言うんだろ?」

「……何故わかった?」

 神妙な面持ちで川野が答えれば、山崎が勢いよく噴き出した。それはもう、マーライオン顔負けの噴き出しだ。

 大丈夫か、と川野が視線だけ送る。

 むせたあとに聞こえたのは、腹の底からの笑い声。

 ひーひー笑っていれば、案の定またむせた。もう、見慣れた光景である。

 川野はそんな山崎を一瞥すると、こちらに向き直る。

「風早は?」

 話を振られた瞬間、箸で挟んでいた卵焼きを弁当箱の中に落とした。

「え? ああ、うん。そうだな……」

 願いが一つだけ叶うとしたら、か。

 ぼんやりした顔で天井にある蛍光灯を見つめてつぶやく。

「思い浮かばないなあ」

「なんだよ、それ。お前それでも健全な男子高校生か」

 その返事に、山崎はつまらなさそうに言う。そんな山崎を川野が宥めつつ「でもさ」と言葉を紡いだ。

「風早ってさ、欲がないっていうかリアリストというか。――絶対見夢世界とか信じてないだろ」

「まあ、そうだな」

 見夢(みむ)。誰もが負の感情を抱かない世界と言われている。

「そんな世界、あったらこの世の問題すべて解決だろうし。どっちみち、ただの都市伝説だろう」

「いや、案外あるんじゃね?」

 風早の言葉を否定したのは、オカルト好きの川野ではなく山崎だった。

「だって、突然消える奴がいるんだぜ。何の前兆もなく。そいつらは、見夢に行ったから帰らないんだって」

「じゃあ、なんで俺たちは見夢に行けないんだ?」

 行ける人間と行けない人間がいるなんて、不公平だと愚痴る川野。

 川野にとって、見夢の不可思議さには魅かれるものがあるのだろう。

 思えばことあるごとに見夢の話をしている気がする。

「見夢に行くには、ある特定の条件をクリアしないと行けないんだ」

「ある特定の条件って?」

 山崎は、腕を組んだ。

「俺もわからん」

 笑い声が溢れる昼休み。

 川野や山崎には言えなかったが、実は叶えたいことが一つだけある。

 それは、穏やかな毎日がずっと続くこと。

 彼らに話せば、必ず笑われるだろう。山崎なんかは絶対「高校生の台詞とは思えない」と腹を抱えるだろう。しかしたら、授業どことじゃなくなって、早退するかもしれない。

 小さくため息を吐きながら、ちらりと黒板上にかけられている時計を盗み見る。正確には時計の左横だ。

 そこに拳一個入りそうなヒビが入っていた。真っ暗なその先から何か突然出てきそうで凝視できない。

 学校の校舎にあんな大きなヒビが入っていれば、問題になるだろう。だけど、騒がれることはなかった。

 答えは簡単だ。そのヒビは、他人には見えていない。

 一体何なのか、知る術もなく無視する毎日だが、よくないものだというのは、嫌でも肌で感じられる。あれが見え始めたのはつい最近。

 今までの日常が一気に遠いものになってしまった。


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