【短編】ゴーストライター ~嘘つき作家と、笑う父~【一話完結】
父が、認知症になった。
医師には比較的軽度の症状だと言われたが。
実際その後私生活を送る上で、そこまで大きく変わったかと言われればそうでもない。
深夜徘徊とか、トイレの世話だとか、その他諸々。
色々と覚悟していたが、あまり変わらなかった。
本当に認知症なのか? 医師の診断ミスなのでは?
一緒に暮らす父を見ながら、そんな事を考えた。
しかし。
「すまない、大人用のオムツを買って来てもらえないだろうか」
父は、申し訳なさそうに呟いた。
自室で仕事をしている時に、漏らしてしまったんだそうだ。
そこで初めて、自分は認知症なのだと自覚したらしい。
尿意を感じた覚えがない、洩らした覚えもない。
でも、現実は違った。
だからこそ、本人も自覚した上で俺に言った。
「すまない……本当にすまない。俺は、どうやら本当にボケてしまったらしい」
仕事中は固い顔ばかりしている父が、俺や俺の妻の話を聞く時には思いっきり破顔する父が。
見た事も無い程悲しそうに、辛そうに。
俺に向かってそう呟いたのであった。
――――
父は、物書きを生業にしている。
今までに何本もの本を世に残し、男手一つで俺を育ててくれた。
そんな父に恩返しがしたくて、結婚してからも一緒に過ごす事を提案した俺。
妻も事情を話せば承諾してくれたし、父も渋々ながらも首を縦に振ってくれた。
だから、今まで一緒に過ごして来た。
ずっと幸せだった、皆で笑って過ごして来たはずだったのに。
でも、その日から父の笑顔は極端に減った。
どこか申し訳なさそうな顔で、極力俺達と関わろうとしなくなってしまった。
自分からデイサービスや老後施設などのチラシを持って来た事もあったし、自らがこの家を出て行った方が良いと思っている様子を見せる父。
それを、俺達は拒んだ。
「本当に手が足りないと思った時だけで良いよ、ウチも裕福って訳じゃないし」
「金は俺が自分で出すから……どうしても駄目か?」
「本当にお義父さんが辛いと感じるなら止めません。でも、私達は迷惑なんて思っていませんよ? 一緒に居たいんです」
「そうは言っても……自分が情けなくて仕方ないんだ。それに、これからお前達に子供だって出来るかもしれないし。邪魔者にはなりたくないんだ……」
もう、何度目だろう。
こんな家族会議をしたのは。
毎度同じ議題になるのは、決して父が認知症だからじゃない。
いつだってそう思っているからなのだろう。
見た事も無いほど弱々しく、悲しそうに頭を抱える父。
随分と小さく感じるその姿を見ると、胸の奥が苦しくなる。
だからこそ、俺達だけでも笑顔で接する事にした。
「父さん、前の話。前に見せてくれた、今書いてるって言ってた作品見せてよ。俺、あの続きが見たいな」
そう言って笑いかければ、父は首を傾げた。
「前に書いていた話……? どれの事だったかな……すまん、ちょっと分からなくて。あ、でも新しい話を書いたんだ! きっと今度はお前の好きそうな話になっていると思うんだ!」
「そうなんだ、じゃあそれが読みたいな」
「分かった! 今持ってくるから待ってろ!」
小説の話をする時だけは、いつだって父は子供みたいに破顔しながら声を上げる。
今日はこんな話を書いた、こういう話を書こうと思うんだがどうだろう?
父が語る物語は、いつだって俺の心を躍らせてくれた。
感想を言えば泣き、笑い。
この先の物語をどうするかなんて話し合った事は数えきれない程。
認知症になってからも、父は小説の話をする時だけは前と変わらない様子だった。
でも。
「これだ! 読んでみてくれ!」
「うん、ありがと。今夜にでも読んで、感想は明日で良いかな」
「あぁ、もちろんだ。じっくり読んでくれ。俺は続きを書いて来るから」
笑みを浮かべる父親をリビングで見送ってから……ため息が漏れた。
「そろそろ、本当に考えるべきなのかな」
「そう……かもしれませんね」
今しがた父から受け取った、“新しいお話”の第一話。
コレを、俺はもう何度も受け取っていた。
同じ文面、同じ描写。
同じキャラクターに、同じストーリー。
ここの所何日も続けて、父はこのお話の“最初”だけを俺に見せている。
自身が同じ行動、同じ文章を綴っている事にも気づかずに。
しかし、コレを指摘してしまえば父は余計に俺達から離れたがるだろう。
もう、仕事さえ出来ないと思い知らされれば。
父は、俺達の重荷になるという意識に潰されてしまいそうな気がする。
「どうしたものかな……」
ペラペラと、何度も見た第一話を読み返していく。
もうその文字列を暗記出来てしまう程に、幾度となく読んだ文章。
いつもと同じ流れ、同じ結末。
今回だけは、用紙の端にインクでも溢したのか。
汚れが残っていた程度で、それ以外に違いは無い。
「……あれ?」
「どうしたの?」
そこで、初めて違和感に気付いた。
心配そうに覗き込んでくる妻に空返事を返してから、もう一度父の作品を読み返した。
何度も、何度も。
読み返せば読み返す程に、違和感ばかりが膨れ上がっていく。
「何で、一言一句違わずに同じモノが書けるんだ?」
「え?」
驚いた様子の妻も、父の原稿に目を通し始める。
それこそ以前に渡された“第一話”まで全て引っ張り出して、見比べていく。
そして、妻もまた目を見開いた。
「こんなの異常よ、あり得ないわ。お義父さんは、完全にこの“第一話”を頭の中に思い描いている。それこそ、一言一句。隅々まで完全に“一つの物”として記憶している。ただ一点、コレを描いたという事実を忘れて、ひたすらに最初だけを描き続けている」
妻は、介護士だ。
だからこそ、父の様な症状の人達を多く見ている。
その彼女が驚愕する程に、父の作った物語は異常だったのだ。
俺だって小説家と言うモノを深く理解している訳じゃない。
それでも、だ。
一文字も違えず、同じ文を一から十まで作り上げることが人には可能なのだろうか?
今時の小説家の様にパソコンなどを使えば、コピーペーストで何とでも出来るかもしれない。
でも父は、紙に描くのだ。
その物語を。
古い人間、だからこそこの結果は異常だ。
この事に気付いた瞬間、俺は父の部屋に走った。
襖を勢いよく開き、机に向かう父の背中を見つめた。
「どうした、今仕事中だ」
この人は、いつもこうだ。
物語を描くその時だけは、低い声を上げながらこちらを振り返ってもくれない。
コレが、俺の知っている父の背中。
この歳まで俺を育ててくれた、頼もしい背中なのだ。
だからこそ。
「父さん、コレ読んでもらって良いかな?」
そう言って先程の原稿を差し出してみれば。
「お前が書いたのか? 珍しいな」
そんな事を言いながら、父は“自分の描いた世界”を静かに読み始めた。
真剣な表情で、ただ静かに。
「どうかな」
最後まで読み切った父の姿を見て、声を掛けてみれば。
「驚いたな、俺も今同じような物語を書いていた所だ。やはり親と子は似るのかな? 続きはどうするつもりだ? こっちはもう考えてあるぞ?」
そう言って、父は嬉しそうに笑った。
やっぱり、彼の中でこの物語は完成している。
いつだってそうだ。
父は物語の終わりを見てから筆を進める。
物語の最後を決めて、その途中経過を描くためにペンに走らせるだけなのだ。
「凄く不躾なお願いだけどさ、この続き書いてみてくれない? 父さんだったらどう描くのか、見てみたいんだ」
「ここからの続きで良いのか? どうしたって俺の書き方になるぞ? それにこれはお前の物語だろう?」
「いいよ、全然良い。お願いできる?」
「ハハッ、こんな歳になって初めて変なお願いをして来るようになったな。いいよ、明日には渡せるようにしておく」
満面の笑みを浮かべながら、父は新しい用紙に物語を綴り始めた。
隣から覗き込んでみれば、間違いなく“第二話”。
認知症になってからしばらくして、ずっと同じ物語を書き続けていた父が初めて“次”のお話を描いた瞬間であった。
コレがどういう影響を及ぼすかなんて分からない。
症状が良くなったり、悪くなったりとかその結果までは見えない。
でも、この物語は父の中で完結しているのだろう。
だったら、最後まで見届けたい。
父が描く物語は、いつだって周りを虜にした。
だからこそ、男手一つでも不自由なく俺は過ごさせてもらった。
それくらいに、強い背中なのだ。
それくらいに、憧れた背中なのだ。
だったら、一度描くと決めた物語があるのなら。
最後まで見せて欲しい。
この物語がどんな終わりを迎えるのか、どんな姿に変わるのか。
それを描くのが俺の父さんで、俺の憧れた小説家なのだから。
――――
「続きを書いてみたんだ、どうだ?」
「うん、ありがと。読ませてもらうね、感想は明日でも良いかな?」
いつも通りの会話をしてから、父は自室へと帰っていく。
あれからと言うもの、物語は着実に進んでいた。
毎度毎度、自分が書いてみたから続きを書いてみてくれと頼んで原稿を渡す毎日。
日に日に増えていく原稿をその場で読み、続く物語を紡ぐ父。
非常に歪で、順調な執筆作業。
それでも、だ。
「ここ最近のお義父さん、調子良いよ。元気だし、認知症っていうのが信じられないくらいしっかりしてる。その……小説以外は」
「ん、なら良かった」
妻の一言に、どうしても思ってしまう事があるんだ。
父は才能があった。
昔から頑張っていたし、若くして妻を亡くし、それでも俺を育ててくれた。
物書きという才能と努力で、こんな歳になるまで戦ってきたのだ。
白髪ばっかりになって、認知症にもなって。
それでも、まだ戦っている。
いや、俺が無理矢理戦わせているんじゃないのか?
そんな風に思う事もあったが。
「俺が話を書けなくなる時は死ぬ時だ。そん時は、お前が続きを書いてくれよ?」
俺が父に憧れて、小説を書こうと奮闘していた時期。
父は笑みを溢しながらそんな言葉を言い放った。
だからこそ怖かったのだ、父が文字を書かなくなるその時が。
仕事を失うってだけじゃなくて、話を書けなくなった瞬間消えてしまいそうで怖かったのだ。
だからこそ、書いて欲しかった。
書き続けて欲しかった。
現に今も、新しい話を書き続けている時の方が、体調も普段の生活も問題なく過ごせている。
コレが正解なんだと言い聞かせながら、いつまでも父に“仕事”を押し付けている様で。
死ぬまで働けと言っている様で、苦しくなるのだ。
あぁ、神様。
アナタという存在が居るのなら、何故こんな仕打ちをするのですか。
夢を追って、夢を叶えて。
今まで頑張って来た父に対して、何故こんなにも不幸ばかり授けるのですか。
認知症という病気を患って、それでも戦い続ける父が今でも唯一忘れてしまうモノ。
“自らが生み出した作品”。
何故、こんな仕打ちをするのですか。
作家にとって、それは掛け替えのないモノだというのに。
もしもアナタが目の前に現れてくれるのなら、俺は。
父を守る為にアナタを殺してしまうかもしれません。
――――
「凄いなぁ……お前、いつの間にこんなに書ける様になったんだ」
「いや、そんな事……それでさ、さっき言った通りこの続きを書いて欲しいんだよね。ホラ、父さんならどう描くのかなって気になっちゃって」
随分と厚くなった原稿用紙の束を見ながら、父は嬉しそうに微笑んでいた。
まるで慈しむ様に、その紙束を撫でる。
「中学生の頃だったか? お前が最後に話を書いてくれたのは。面白かったのになぁ……途中で止めてしまうんだもの。勿体ない」
「いや、昔の話は良いよ。俺の書いた話なんて、ろくなもんじゃなかったし」
無性に恥ずかしくなって視線を逸らしてみれば、父は嬉しそうに笑った。
「いいじゃないか。人が描く物語なんて、どこかで誰かには笑われるもんだ。それでも、自分が描いた話を喜んでくれる人が居る。それだけでも、嬉しいって思えるものさ。それに、この小説。よく書けている……驚いたよ。成長したな、いっぱい頑張ったんだな。凄いぞ」
「……俺は頑張ってないよ」
頑張ってない、俺は途中で諦めたんだ。
父の様な文才は無く、物語を描く難しさに筆を投げた。
だからこそ、今では普通の社会人として生きているし、父の跡を継げる様な立派な人間でもない。
そんな俺を、褒めないでくれ。
コレは貴方の書いたお話だ、全部父さんの描いた物語なんだ。
俺は話を合わせているだけ、ズルしているだけなんだ。
だから、俺を“認めないでくれ”。
「ここまで描いたんだ、最後まで自分で書いたらどうだ? 俺は、お前が最後まで描いた物語が読みたいなぁ」
「そんな事言わないでよ父さん、やっぱりその……そう、行き詰っちゃってさ。お手本っていうか、そういうのが欲しいなって。ホラ、父さんも言ってたじゃない。物語は描き始めるより、終らせる方が難しいって」
そんな言葉を紡いでみれば、父はヤレヤレと言った表情で机に向き直った。
「今回だけだぞ? しかし、そのまま使う様な真似はするな? 俺の文章を見て、お前の想像する終わり方と比較して、隅々まで考えろ。俺が想像出来る程度の物語って事は、他の読者だって想像出来るって事だ。だったら、もっとよく考えてアッと驚かせる終わり方にして見せろ。この話は、それくらいに面白い。本当に、驚くくらいに面白いよ。良く……頑張ったな。大きくなった、本当に。俺は嬉しい」
「……」
机に向かう父の背中に、何も言葉が出なくなってしまった。
やはりこんな方法は間違っていたのだろうか。
未だに父が描く第一話を毎日読み返していれば、こんな気持ちにはならなかったのだろうか?
コレは、父さんの作品だ。
俺の作品じゃない。
だからこそ、褒められる度。
父が嬉しそうにする度に胸が締め付けられる。
ごめん、ごめんなさい。
俺は、嘘つきです。
「こんなに描けるようになったんだなぁ……凄いぞ」
「……うん、ありがと」
「中学生の頃だったか? お前が最後に話を書いてくれたのは。面白かったのになぁ……途中で止めてしまうんだもの。勿体ない」
「……うん、そうだね」
何度も、何度も同じ会話をしながら父は物語を紡いでいく。
この物語の、終着点へと向かって筆を進めていく。
あぁ、いつからだろう。
父がこんなにも細くなったのは。
後ろから見ていても分かる。
俺なんかよりも、ずっと細く小さくなったように感じる。
それでも、ペンを動かしている時の父の雰囲気は変わらない。
いつだって真剣で、何よりも今描いている“世界”に目を向けている表情。
「父さんは、変わらないね」
そんな一言を溢してみれば。
「変わったさ。ずっと一人で書いていたのに、嫁が出来た。お前が生れた、お前にも嫁が出来た。俺は、幸せだ」
原稿から視線を外さずに呟いた父の言葉に、思わず喉の奥がグッと苦しくなった。
――――
「外線一番でーす」
「はーい」
事務の女の子が声を上げて、こちらを指さして来た。
俺が勤めているのは小さな会社。
給料も、仕事量も平均と言った所だ。
それでも、ブラック会社がブラック企業がと色々な所で嘆かれている中、ウチの会社は割と平和な方だった。
多くも少なくも無い手取りに、忙し過ぎる訳でも暇でも無い程度の労働環境。
先輩後輩、上司部下の区分も緩く、毎日とりあえず仕事をしている様な雰囲気。
俺が勤めているそんな会社に、珍しく俺宛に電話が入ったらしい。
何だ何だと受話器を取って見れば。
「――病院の者です。――さんでお間違いありませんか? 彼方のお父様が、事故に合いまして……その、お亡くなりになられました」
「……は?」
――――
会社を早退して病院に向かえば、そこには父が眠っていた。
静かに、ただ静かに。
交通事故だったそうだ。
しかも、父が赤信号を横断したという典型的な認知症の老人の事故。
霊安室で静かに眠る父の隣に、見知らぬスーツの男性が立っていた。
「この度は、ご愁傷様でした」
「……あ、はい」
もはや頭が真っ白で、彼の言葉が半分も頭に入って来ない。
何で? どうして?
昨日まで、あんなに元気にしていたのに。
それなのに、何故?
話を聞く限り、事故が起きたのは父が出掛けそうな場所では無かった。
たまに散歩に行ったり、買い物に行ったりはしたが。
普段通る道ではないのは確かだった。
なんで、なんで今日に限ってそんな所を歩いていたのか。
何を目的として、どこに向かって歩いていたのか。
それすら分からぬまま、父は帰らぬ人となった。
「父さん、何で今日に限ってそんな所に行っちゃったの?」
父の頬に手を当ててみれば、冷たい感触が返って来た。
「今日さ、給料日なんだ。だからちょっと贅沢して、美味しいモノでも食べようかって話してた所なのに」
父の体からは、独特な匂いがした。
随分昔に嗅いだことのある、母の遺体と同じ匂い。
「父さん、もう……帰って来てくれないの?」
不思議と、涙は零れなかった。
心にポッカリと穴が開いた様な虚空感だけが広がり、どうして良いかわからない感情で埋め尽くされていた。
俺は間違っていたのだろうか?
認知症になった父を、いつまでも家に置いておく事が間違いだったのか?
専門の施設に預けていれば、こんな事にはならなかったんじゃないのか?
いくつもの思考が浮かんでは消える中、すぐ近くに立ったスーツの男性が一つの封筒を差し出して来た。
随分と大きく、厚い封筒。
その表面は、真新しい血の跡が残っていた。
「私は、貴方のお父様の担当編集者です」
「……はい?」
その封筒を手に持ったまま、彼は涙を浮かべて言葉を紡いだ。
「本日の昼頃、久しぶりに先生の方からご連絡がありました。“見て欲しい作品がある”と言って」
その封筒を差し出して来た男性は、グッと唇を噛みしめながら言葉を続けた。
「認知症になってしまったから、契約を打ち切って欲しい。そう言われたのはずっと前の事です。でも、私は独断で拒みました。もしも本当なら、せめて契約期間ギリギリまで先生の支えになれればと思って。知っていますか? 書籍は刷った部数によって印税が決まります、だから重版されれば作家は喜ぶんです。しかし電子書籍は別です。売れた分だけ、実績分だけお金が入って来る。紙媒体より一度に入って来る金額は少なくとも、買ってくれる人が居れば、いつまでもお金になる。だから、最後まで諦めて欲しくなかったんです。新作が描けなくなった作家だったとしても、待っている読者は多かったから」
そう言って彼は、俺がいつまで経っても受け取らない封筒をさらに強く押し付けてきた。
「そんな先生が、私に電話してきたんです。見て欲しい作品がある、息子が描いた小説だって。その完成原稿を、今から届けるから待っていろと。それはもう嬉しそうに語っていました。これからは、息子の担当を引き受けてくれないかとまで……仰っておりました」
「違う……違うんだ」
思わず、ガタガタと体が震えた。
違う、違うんだよ。
それは父さんが書いた小説だ。
それは父さんが描いた物語だ。
俺じゃない、俺は嘘をついて、父さんに書かせていただけなんだ。
そうした方が、父さんが楽しそうだったから、俺達も“楽”だったから。
認知症に陥った父親の苦しみと向き合うより、しっかりと目的を持っていてくれた方が生活しやすかったから。
だから、俺は逃げたのだ。
だというのに。
「本当に、楽しそうでした……とても、嬉しそうでした。息子が描いた作品を見ろって、これならそこらの作家になんか負けないって。それはもう自信満々に言い放つ勢いで」
止めてくれ。
本当にやめてくれ。
俺はそんな大層なモノじゃない。
物語を最後まで描けず、結局逃げ出した人間なのだ。
認知症の父に“役目”を押し付けただけ、騙し続けていただけ。
今になって、この身に伸し掛かる罪の重さ。
俺は、何も分からぬ父に対して、彼の作品を奪っていたのだ。
盗作も良い所だ、本人が描いた話をそのまま本人に渡していたのだから。
“俺が書いた”と嘘の言葉を吐きながら。
思わず、喉の奥から胃液が込み上げて来た。
「その上でお尋ねします。この作品を、世に出したいと思っていますか? 先生はこれを私の元へ届ける為にこちらへいらっしゃり、事故に遭われた。そこまでして出版社に持ち込もうとした作品を、先生がどうしても世に残そうとしたこの作品を、私は読んでみたい。叶うなら、先生の希望通り出版したいと考えています」
担当さんに無言の返事を返しながら、静かに封を開いた。
そこから出てくるのは、前日まで何度も見ていた小説。
父の残した最後の作品。
それを、一枚一枚目を通していく。
完結まで描かれた物語。
これは、間違いなく父が描いた話だ。
世に残したい、父の最後に綴った話として世間に知らしめたい。
そういう気持ちは確かにある。
だが。
「これは……父の」
そう言葉を紡ごうとした。
しかし、まだ続きがあったのだ。
間違いなく物語としては完結している。
だというのに、まだ続きがある。
ページを捲ってみれば、そこには。
「……」
「どうしましたか?」
「……これは、間違いなく“俺の話”です」
父の話のその後に、俺が昔描いた物語が続いていた。
拙く、滅茶苦茶な文章だったソレが。
こんなモノ、まだ取ってあったのか。
この時、初めて気づいた。
父が最後に書いていた物語は、昔俺が描いていた物語の前編なのだ。
登場人物に深みを持たせ、コレからのストーリーに納得させられる様に描いた。
俺の為の物語であった。
「なんてもん書いてんだよ……父さん」
思わず、涙が滲んだ。
最後の最後で、何でこんなの書いているんだよ。
俺が書いた話なんて、どうしようもないくらいにつまらない話だっただろうに。
それでも父は、昔の俺が描いた世界に意味をくれる話を書いた。
それだけで完結しても良いと思われる物語を描き、俺が書いた話に繋げてみせた。
ここからはお前が描けといわんばかりに。
「では、よろしいですね? 貴方の作品という事で、審査させて頂いて」
「……はい。この物語の続きを描くのは、間違いなく俺の仕事です」
そう答えてみれば、父さんの担当さんは静かに笑って見せた。
本人も、父の最後の作品だと気づいているのだろう。
はっきり言えば、許される事じゃない。
文字通りゴーストライターになってしまう訳だから。
それでも、本の出版には契約が必要。
生きている人間の存在が、絶対に必要なのだ。
だから。
今日この日を境に、俺は本当の“嘘つき”になると決めたのであった。
――――
父の最後の本は出版された。
俺の名前で、父と子という関係を表沙汰にしながら。
父の影響で出版できたとか、七光りみたいに言われる事もあった。
でも実際そうなのだ、反論のしようもない。
しかし、あくまでも俺個人に対しての批判。
本の内容に対しての批判は、驚くほど少なかった。
「物語を描く事を止められない人が居たんだ、それこそ最期まで。多分俺には、そんな事は出来ない」
それでも再び物語を綴る事を選んだ。
誤字脱字なんて未だにびっくりする程出て来るし、物語が矛盾を生んでしまう事だって何度もあった。
「やっぱり、父さんは凄いな。才能云々の前に、技術が底知れないよ」
今日も届く読者のコメントを見ながら、俺はキーボードを叩く。
新しい物語を作る為に、昔描いていた物語を完結させるために。
そのきっかけが、父の“作品”を盗む事だったとしても。
父の作品を“残す”為に、俺は作家だと嘘をつき続ける。
俺は物書きだ。
しかし最初の“作品”に敵った事は、一度も無い。
そんな、弱小作家だ。
あぁ、やっぱり。
俺の父さんは凄い人だったんだなって、今だからはっきりと感じる。
だからこそ、書き続けるよ。
父さんの作品を盗んだ俺は、その罪と共に。
せめて父さんが描いた作品を終わらせる所までは、どうにか描いてみようと思うんだ。
それが最期まで父さんを騙し続けていた罪と罰。
そして、感謝と尊敬を込めた俺の意志。
例え許される事はなかったとしても、決して誰にも言えない秘密だったとしても。
大噓付きは今日もまた、物語の続きを描くのであった。




