世界─外─存在
誰かの内面にまで踏め込むことのできない人間。
表面をなぞるだけの人間。
私は、世界の外側に存在している。
昼中の講義室、私は隅っこの席で、教授が黒板に白のチョークを走らせているのを、ぼんやりと眺めていた。筆圧が強いせいで、床に白い粉や細かい欠片がはらはらとこぼれ落ちている。ふと視線を窓の外にやると、幾重にも重なった木の葉が陽の光に反射しながら風に揺れているのが見えた。
やがてチョークの音がやみ、私は正面に向き直った。するとそこには、「世界─内─存在」という言葉が、やけに傾斜のついた字体で現れていた。
「世界─内─存在」とは、哲学における専門用語で、「実際に世界の内側にあって、周囲の様々な存在者と関わり合いながら存在している」という人間のあり方を表した言葉なのだそうだ。私たちは、実際に世界の中にいて、周囲の存在と常に関わり、関心を持ちながら生きている。
なるほど、なんだか当たり前のことをやけに小難しく言ったものだ、と思う。人間は一人で生きていくわけではなく、誰かと関係しあいながら生きていく。至極当然のことだ。私は小さく欠伸を噛み殺した。
昼前最後の講義が終わると、教室内は、待ち望んでいたかのごとく一気に騒がしくなった。友人と学食に向かう者や、ノートとペンを手に教壇に駆け寄る者。授業時間という特定の枠組みを失ったそれぞれの人間が、それぞれの志向性のもとにばらばらに散っていく。
私は講義で板書したルーズリーフを整理する格好をしながら、出入口の人だかりが緩和されるのを待っていた。とびら前のスペースは雑談にふける男女のグループに占拠されていて、何人かの学生が顔を俯かせながら、体をくぐらせるようにその前を通り抜けていった。
私は時計を見た。時刻は正午を回ったところ。午後にも講義が控えているため何かしら食事は取らなければならないが、この時間の学食は決まって雑然としており、わざわざそこに足を運ぶのにも気が引けた。私は少し迷ったあげく、結局学内の小さな売店に向かうことに決め、教室を出た。廊下にはいくつもの人集りがあって、私はその間を縫うようにして歩いた。
売店に到着すると、店内は人の影もまばらで、私はおにぎり二つと冷えたペットボトルの緑茶を手に取り、それをレジに通した。もらったレシートをポケットにしまい売店を出ると、店の前はやはり大勢の人で溢れかえっていた。手元のものを食べるために、思い当たるだけのベンチを廻ってみたが、どれも人で埋め尽くされていて座れそうになかった。手首の時計を覗くと、次の講義が始まるまでまだ時間に余裕がある。私はふと思いつき、少し離れたところにある所属サークルの部室に向かうことにした。
部室に向かう道の途中、私の進むのとはと反対の方向に歩く沢山の人々とすれ違った。この時間、学内は多くの人やグループで入り乱れる。その一方で昼間から一人で歩く私は、言い訳のしようもなく一人で、なんだか自分が奇妙な生き物であるように思えた。皆、それぞれの交流のうちに存在していて、私はそうでないのだった。
とはいえ私は、その人間関係を俯瞰的な視点から見てみれば、けっして独りきりの人間というわけではなかった。例えば、今ここで手元の端末を使って何人かにメッセージを送ったならば、高い確率で一人以外での食事が実現するだろうことが推測できたし、実際に、私には友人や知り合いと呼ばれる関係性の人間が平均的な程度には存在するのだった。しかし、そのようなメッセージを彼らに送る気にはなれなかった。私にとって、それはあまり魅力的な選択肢ではなかった。
しばらく歩くと、敷地の少し外れたところに、それはあった。サークル棟。各サークルの部室がところ狭しと連なるこの建物からは、やけに薄暗い印象を受ける。私の目指す部屋は、この建物の三階、演劇同好会と登山サークルの部室に挟まれて位置する。
「文学研究会」と書かれたコピー用紙のぶら下がった扉を開けると、そこでは少し埃っぽい空気のなか、すでに数人の部員が昼食を片手に雑談を繰り広げていた。
「おつかれー」
彼らは私に気づくと挨拶をして、いくつか言葉を交わしたのち、再び元の会話に戻っていった。私は空いている適当なパイプ椅子に座り、さっき買ったおにぎりを取り出した。包装のフィルムを剥きながらぼんやりと彼らの会話を聞いていると、どうやら今度開催する読書会の計画を練っているらしかった。企画はまだ始動したばかりらしく、どの本を読むかも決まっていないようだ。彼らのうちの一人が、アリストテレスの「ニコマコス倫理学」を読みたいと言ったが、数分後にはその意見は忘れ去られていた。
私の所属する「文学研究会」は、その厳格そうな字面に反してかなり自由な集団だ。本を読みたい人は読み、読みたくない人は読まない。私は、この雰囲気をなんだか好ましく感じていた。
私は何となしに、この部屋の一角を占めている大きな本棚を眺めた。ところどころ塗装の剥げた木製のそれには、種類ジャンルを問わず、様々な雑誌や書籍が押し込まれるように並べられている。特に色あせた文学全集と月刊漫画誌が隣り合って同じように埃をかぶっている様子からは、かなり雑多な印象を受ける。また、これらの本は、どれも少なからず変色や茶色いしみが見られた。これは、この部室に入り浸っている人間ならよく知っていることだが、夕方になると向かいの窓からの西日が直射してくるためだった。私は、この繁雑とした空間もまた嫌いではなかった。
そうしていると、しばらくして、彼らが私の名前を呼ぶのが聞こえた。
「ねぇ、読書会だけど、どう? 参加する?」
どうやら、テーマ本を何にするかがようやく決まったらしい。詳しく聞くと、選ばれたのは、直近の有名文学賞で受賞候補に選ばれた中編の純文学作品だった。
瞬間、私はその魅力的な側面と億劫な側面の両方を一斉に感じ取った。そして、一瞬迷ってから、「予定があえば参加しようかな」と返事をした。私は、こうした物事に対して発生するふたつの態度を、常に有していた。この二つは、どちらかに完全に振り切れることは決してなく、遍くすべての物事に対して存在した。そして、その両側面の感情を自身の内側に発見するたびに、私は自らに対する薄っすらとした嫌悪を感じるのだった。
気がつくと、次の講義の時間が近づいていた。ふと彼らの手元を見ると、もう既に昼食は片付けられており、皆一様にかばんを手に持つか肩にかけるかしていた。私も昼食のごみをゴミ箱に投げ入れ、かばんの持ち手を片方の肩に沈ませた。
「そういえば──」と、一人が思い出したように口に出した。
「さっき話してて、五限の後、この部屋でちょっとした飲み会を開くことになったんだけど、来る?」
私は自分の内側の感情をなるべく吟味しないように努めながら、「行こうかな」と返した。
午後の講義室。窓の外では、青空が広がっており、その下を白い雲が途切れることなく流れ続けていた。私はその光景を眺めながら、先の授業での「世界─内─存在」という言葉を反芻していた。人間の本来あるべきあり方。周囲との関わりのなかに存在するというあり方。
──私は幼い頃から、優しかった。誰にでも公平に、分け隔てなく接することができた。また、争いごとも好まなかったし、特定の誰かに対して強い嫌悪感や攻撃性を示すようなこともなかった。私はその優しさをいわばアイデンティティとし、自らの拠り所としていた。自分の優しさを信じて疑うこともなく、それを胸のうちで誇ってさえいた。私の根幹に存在する、ある性質に気付くまでは。
その性質に気がついたのはいつだっただろうか。いつか、不意に私は内省をし、自らを支えていた拠り所を残すところなく瓦礫に変えてしまった。
私はただ、極端に他者への興味が薄いのだった。私の優しさは無関心の裏返しだった。いや、そもそも優しさという言葉は適切でなかった。それは寛容さだった。私がそれまで誇っていたのは、無関心ゆえの寛容さだった。誰かの内面にまで踏め込むことのできない人間。表面をなぞるだけの人間。この性分は、外面的には特段の問題とならなかったが、もっと深層の大切な部分で大きな問題を抱えていた。そしてその問題は、不意に姿をあらわし、私の存在を根底から揺るがそうとした。
周囲の存在と関係しあい、その存在に関心を持ちつつ生きていくのが人間であるならば、私は人間にはなり得なかった。また、この世界に存在するということが、そのようなあり方を前提にするのであれば、私はこの世界に存在しないのかもしれなかった。
これまでも似たような発想にいたった経験はあったが、そうした発想が「世界─内─存在」という一つの単語の形を取ることによって、はっきりとした輪郭を持って私の前に現れたのだった。
不意に、私の意識を連れ戻すかのように携帯が鳴った。着信を開くと写真が送られてきていて、無造作に缶チューハイの入ったビニール袋と、それを掲げてやけに楽しそうに笑うサークルメンバーが映っていた。やがて間延びしたチャイムが鳴り、今日の講義が終わった。私はそそくさと、部室に足を向かわせた。
部室での飲み会は想定よりも盛り上がり、時間が気にされ始めた頃には、終電がすぐそこにまで差し迫っていた。実家暮らしなど家まで距離のある人たちが、慌てて帰宅の準備を始め、次々に部屋から飛び出していく。一方で大学近くで一人暮らしをしているメンバーなどは、ぬるくなった缶を未だに口に傾けていた。私は終電までの少し時間で、空き缶や飲みかけの缶などを片付けながら、彼らと会話を交わしていた。先ほどよりも音数は減り、会話途中の空白も時折目立ったが、私はかえってこの時間に居心地の良さを感じるのだった。
後片付けを済ませた私たちは、歩いて最寄りの駅にまで向かった。ときどき吹く頬をかすめる風が、ひんやりとしていて心地よかった。沿道では、コンビニや一部の居酒屋を除いて、ほとんどの建造物が息を潜めるように黒くひっそりと佇んでいて、その間を私たちはくぐり抜けるように歩いた。駅に近づくと街灯の明かりが増え、人もいくらか見かけるようになったが、やはり変わらず街は押し黙ったように静かだった。やがて私たちは、視界の先に駅が見えてきたあたりで解散をした。各々が自宅に向かって散らばっていく。静寂に馴染むまで、耳の奥を音の名残が何度も反響していた。
その事実に気づいたのは、改札を前にしたときのことだった。
改札口をくぐり、そこで何も表示されていない黒色の電光掲示板を目の当たりにし、私はようやく今置かれている状況を理解した。私は、終電を逃してしまった。何らかの要因で、時刻表を見間違えていたのだろう。無人となった改札口は異様な雰囲気をまとっていて、駅の奥に吸い込まれるような感覚をおぼえた。
逃すつもりのない終電を逃したという事実は、甚く心に堪えるものがあった。私は少しの間その場に立ち尽くしていたが、電光掲示板はあいも変わらず暗色のままで、状況は何も変わらなかった。
そして、私のその隣で声をころして笑う人間がいた。横に立っているのは同じサークルのメンバーで、同学年の男だった。彼は声を抑えようとしていたようだったが、くの字に曲げた身体が小刻みに揺れていて、私が帰宅手段を失ったことがよほど可笑しいとみえた。彼の笑声は夜の静寂にとけるように消えていったが、近くを通る何人かには聞こえていて、彼らはいぶかしげに私たちを一瞥していった。一連の言動に、私は思わず眉をひそめた。
やがて彼は急に体勢を戻したかと思うと、私に向き直った。
「うち近いけど、来る?」
彼は私を真正面から捉えて、そう言った。そして、次の瞬間にはひとりでに歩き出していた。私は拍子抜けし、しかし他に行く当てもなく、彼の後をついて行かざるを得なかった。彼から半歩ほど後ろを無言で歩く。彼は無駄の省かれたコース取りでいくつかの角を曲がり、そして、一棟のマンションの前に辿り着いた。彼は習慣づけられているであろう仕草で正面玄関に入り、いくつも並んだ銀色のポストのうちの一つを確認し、中に入っていたビラを指先で掴むと、裾にあった階段を上っていった。集合住宅特有のだいだい色の照明の下、足音を響かせて歩く。やがて一つのドアの前で立ち止まると、彼は鍵を開け、そのまま私を招き入れた。
「おじゃまします」
私は小声でそう呟きながら、恐るおそる体を扉の内側に入り込ませた。玄関は、スニーカーが三足で埋まってしまいそうなサイズ感で、私は彼に続いて靴を脱ぎ、フローリングに足を踏み入れた。小さいキッチンを通り抜け部屋に入ると、そこには、生活感がありながらもそれなりに整頓された空間があった。
「それ、ここらへんに適当に置いていいよ」
かばんを両手で持ちながら、部屋をおどおどと見渡していると、彼は隅の方の空いたスペースを指さして、荷物を置くように促した。
「ハンドソープはシンクのとこにあるから、あとは適当に過ごしておいて」
そう言うと彼は、せかせかと室内に干してあった洗濯物を回収し始めた。私は言われたとおりにシンクに向かい、泡で出るタイプのハンドソープで手を洗った。手に泡をつけてから、水道のレバーを捻らなければならないことに気づき、手を洗い流したあとで、手を拭くためのハンカチがかばんの中に入っていることに気づいた。
部屋に戻ると、彼は一人掛けのソファの上で日に焼けた文庫本を広げていた。
「適当に、そこにかけていいよ」
彼はこちらに視線を向けると、空いている座椅子を首で示した。椅子にかけた私は特にすることもなく、しかし部屋を仔細に眺めるのも失礼にあたるように思われて、結局彼に話しかけてみるほかなかった。
「今、読んでるのは?」
そう問いかけると、彼はパタリと本を閉じてから、表紙をこちらに示した。私はその表紙と古ぼけた外見に見覚えがあった。
「あ、それ部室にあった──」
「あぁ、そう。少し借りてる」
どうりで。最近見かけないと感じていたところだった。部員のひとりが、この本を「どこにもない」と探していたことを思い出す。そのことを伝えようかとも思ったが、何となくやめておいた。少しして彼はもう一度本を開き読み始めたが、集中力が途切れたのか、本を開いたまま机に伏せて置き、台所に向かっていった。それからコンロの着火音と、しばらくしてやかんの笛の音が聞こえ、戻ってきたかと思うと彼は片手にカップラーメンを持っていた。彼はそれを机の上、本の隣に置いた。
「なにかたべる?」
彼の問いかけに対して私が首を横に振ると、彼は興味がなさそうにスマートフォンをいじり始めた。カップと蓋のあいだから白い湯気が漏れ出ていて、食欲をそそるような強い香りがあたりに充満してくる。しばらくすると彼は蓋をあけ、箸を手に取りそれを容器に突っ込むと、掻き出してきた麺を勢いよく啜った。スープが、机の上、本の隣に何滴も飛び散っていた。
私は何をするでもなく、ただ自分の指とか、目の前に重なっている雑誌の表紙の文字だとかをぼんやりと見ていた。手持ち無沙汰な様子が伝わったのだろうか。彼は部屋の隅にある小さな本棚をゆびさした。
「そこにあるの、勝手に読んでていいよ」
そこにあったのは二段造りの背の低い本棚で、床に直接置かれているため、本を眺めるためにはしゃがんで視線を低くする必要があった。背表紙の並びを見ると、恋愛小説や推理小説などの大衆文学がほとんどで、そのほか近代小説が数冊ほど並んでいた。この類の大衆文学は、普段わざわざ好んで手に取るジャンルではなかったため、私には新鮮に映った。試しに一冊、名前を知っている作家の本を手に取ってみると、カバーの折り返しの部分が折れていることに気がついた。本はなるべく丁重に扱いたいと考える私にとって、その光景はまた異なる性質のものに感じられた。
彼は食べ終わったカップラーメンをシンクに流し、そのまま部屋に戻ってくると、口を開いた。
「なんとなく家に呼んだけど、君のこと全然知らないや。えっと、そもそも何学部なんだっけ」
「文学部。えっと、そっちは何学部だっけ」
「経済学部」
私は会話を続ける。
「あぁ、そうなんだ。実はあんまり話したことなかったから。経済学部ってどんなことを勉強するの」
私の問いかけに、彼はつまらなそうに「経済学」とだけ答えた。たった数回のラリーだったが、やけに体力を消費したように感じられた。
「でもそんなに興味があるわけじゃない」
静寂を嫌ったのか、彼が話を続ける。
「まぁ、大学なんてそんなもんだよね」
そしてまた会話が途切れる。部屋で稼働している空気清浄機の音が耳鳴りのように聞こえた。
そのとき、部屋の外から、学生のはしゃぐ声が聞こえた。酒が入っているのだろう。近隣住民のことなど全く頭に入っていないような声量だった。彼らの騒ぎ声は、相対的にこちらの静寂を目立たせるように働いた。
「やかましいな」
ぼそりと、彼がそう呟いたのが聞こえた。私は学生のはしゃぐ声よりも、彼が学生らに攻撃性を見せたことの方に小さな嫌悪を感じた。私は、どちらの擁護をしたいわけでもないが、彼のものとは異なる立場の意見を示したいと思った。そしてそれを実行した。
「まぁ、さっきの自分らもあんな感じだったかもしれないしさ」
私はそう言った。
しかし彼は言葉を続ける。
「いや、少なくとももうすこし気を配るべきだ」
「あぁ、そう」
彼はなおも続ける。
「あんなのが学生の典型だと思われると困るんだよな」
「いや、まぁ、そこまで言うこともないと思うよ」
私も食い下がった。
「恥ずべきことをしているという事実を、もう少し自覚するべきだと思うね」
「でも誰にだってそんなときもあるんじゃないか。もう少し寛容になってあげてもいい」
私はなぜか、学生らを擁護しなければならないと感じていた。
すると、ふいに彼はこちらを見て、首を傾げた。そして、彼はひと呼吸を置き、まるで何か状況を正確に伝えるときのように、私の顔を正面からとらえて、ゆっくりと言葉を紡ぎだした。
「この際断っておくけれども、君のそれは、優しさではないように思うよ。君は誰に対しても寛容な態度を取るけれど、それは、少なくとも僕の推察する限りでだけれど──」
私は息を呑む。
「それは本当は、君が他者に対して本気になれていないだけなんじゃないのか」
私はそのとき、心の底から彼のことが苦手だと思った。これまでもその予感のようなものはあったけれど、それがいま、確信に変わった。意識的に、もしくは無意識的なのかもしれないが、こちらとの距離感を考えずにこちらの不安定なところに土足で踏み込んでくる彼のその態度が、心底苦手だと思った。
彼は続ける。
「まぁ、それが的を射ていたとしても、そうでなかったとしても、どちらでもいいよ。でも僕には、君がそのように映っている」
私の微弱な呼吸音だけが聞こえる。異様に口が乾く。
「でもそれは、悪い側面だけでもない。どんな理由にせよ君が寛容で、それが優しさの形を持って外側に顕れていることに変わりはない。少なくとも、僕のまわりでは君を評価する声は多い」
私は立ち上がり、目をあわせないまま、彼にトイレを貸してもらえないかと問うた。彼は、玄関を入ってすぐ左の扉がそうだと答えた。私は感謝の単語を述べて、俯いたままその扉に向かった。彼の顔は見なかったが、おそらく、特別なことなど何一つないというような、そんな表情をしていたと思う。
トイレから戻るまでに時間を要してしまった。私は部屋に戻ると、「コーヒーでも買いにコンビニへ行かないか」と彼に提案した。彼はそれに賛成した。部屋の外に出ると、夜風は冷たかった。私たちはそこで、それぞれブラックコーヒーと、シュークリーム二個と、スナック菓子をいくつか買った。コーヒーは、私はホットで、彼はアイスだった。代金は、宿泊代として私が支払った。彼は「ありがとう」と感謝を述べた。
それから私たちは部屋に戻って、動画配信サービスを部屋のテレビで起動した。映画を見て、そして惰性で話題の恋愛リアリティー番組を見た。一本目の映画の評価は私たちの間で異なっていたが、恋愛リアリティー番組は、気づけば二人ともスマートフォンをいじっていた。彼は番組の途中でリモコンを操作し番組を中断させたが、その際の彼の人差し指にはスナック菓子の油がべっとりとついていて、液晶の明かりに反射して指先がてかてか光っていた。あらためて、私は彼のことが得意でないと思った。
やがて、カーテンの向こう側がほんのりと明るみはじめ、じきに瑞々しく生命力にあふれた朝日が、カーテンの隙間から飛び込むようにして部屋の中に入ってきた。私たちはあくびをしながら、その様子を眺めていた。その間私たちはほとんど会話を交わさなかったが、時折彼は、先ほど見た映画の主題歌が本編の核心部分を解釈違いしていたと繰り返し、都度私は、主題歌はさほど悪くなかったと主張した。
そしていつの間にか、今日という日が本格的にはじまろうとしていた。
私たちは共にマンションを出て、駅前のファストフード店で軽い朝食をとった。そして、私は授業のために大学に向かうことを決め、彼は授業には行かず友人との予定のために駅の方面に向かうと言った。私はそんな彼を駅の前まで見送った。何の言葉もなく去っていく彼の後ろ姿を見たとき、そこではじめて彼がスニーカーのかかとを踏んでいることに気がついた。彼は改札を通ると、人込みに紛れてすぐに見えなくなった。
朝日がくらくらするほどに眩しい。
私は彼が苦手だ。朝が来るまで彼と過ごしていて、その認識はけっして変化することがなかった。しかし、この夜から朝にかけて、たとえぎこちなくても、たしかに私は実存していた。それは彼という存在を介して成し遂げられたのであり、そのことは疑いようがなかった。
世界の内側から迎える朝は、いつもより少しだけ美しかった。
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