第3話
和泉は早速、転入早々というのに学校を休むこととなった。和泉に異論はなかったのだが、はな子は恵梨香の様子を気にしていた。いわく「うちも連れて行って!」とごねるのではないかと思っていたからである。しかし恵梨香はそんなはな子の気持ちも知らず、満面に笑い「んじゃあうち、お友達百人作ってくるわ!」と元気に学校に向かった。
信じられない光景を見たと言わんばかりの顔をしていたはな子は、恵梨香を見送ってもなお、しばらくは腑に落ちない顔をしていた。
「それで、今日はどのあたりに向かうの?」
移動は電車となるために、はな子と和泉はホームに並んで立つ。
恵梨香が学校に向かった少し後、二人も家を出た。その頃にもはな子はまだ腑に落ちない顔をしていたから、和泉がつい「そんなにごねて欲しかったの?」とからかえば、今度は怒ったような表情を浮かべたはな子が、和泉の足を強く踏み抜いた。
その右足が、和泉は今もまだ少し痛い。右足を軽く動かして痛みを逃がしながら、なんとなく電光掲示板を見る。電車が来るまであと五分。午前九時前のホームにはスーツを着た男女が多く、二人の前後には列が続く。
「ここから電車で二時間くらいのところに行く予定」
「え、でも昨日はもっと早く帰ってこなかった?」
「そりゃ、昨日は母が車出してくれたからね。今日は予定あるって」
そんなことを言いながら、はな子は地図アプリを起動して和泉に見せる。
表示されていたのは限られた地域だった。ひと目でそこを理解した和泉ははな子からスマートフォンを受け取り、少し操作をして周辺を確認している。
「なに、気になることでもあるの?」
「いや……僕、昔東京に住んでたって言ったことあると思うんだけどさ、ここ、僕が生まれた場所だ」
「東京っていうにはあまりにも田舎すぎない……?」
食い入るようにスマートフォンの画面を見ながら、和泉は懐かしそうに目を細めた。ストリートビューで近隣を見て回っているらしく、時々「うわ、この駄菓子屋さんまだある」「そうそう、ここを曲がったらスーパーがあって」と口に出していた。
「あ、そっか。昨日十蔵さんがダムの跡地って言ってたの、そういうことか。そうだね、ここ埋め立て地だったんだよね。ダムだったことは知らなかったけど」
「……和泉、その体質だったなら、この土地は声がうるさかったんじゃない?」
電車が遠くに見えた。到着時刻に遅れはない。はな子は乗車準備のため、和泉からスマートフォンを取り上げた。
「確かにうるさかったかも。……子どもの頃はそれがみんなに聞こえてないって知らなくて、全部伝えちゃってたし……うまくいかないことが多かったな」
「いいの? 同級生に会うかも」
電車が停まる。自然と左右に分かれる列を見て、二人はそれに従って移動した。和泉は少しばかり気まずい顔だ。しかし後ろめたいような顔ではなく、どこか晴れやかに見えた。
「別に気にしないよ。僕はもう、神奈木さんの耳になるんだって自信を持てるようになったから」
「……それならいいけど」
ぎゅうぎゅうの電車内に、二人は詰めて乗り込んだ。
時間が経つにつれ、人が減っていく。特にビジネス街の駅を抜けたところで、二人はようやく電車に腰掛けることが出来た。
本来学校に居る時間帯に電車に乗っていることが不思議で、和泉は何気なく「神奈木さんって勉強とか大丈夫なの?」と聞いてみた。すると「私は頭がいいからね。和泉は休んだ分、私が教えてあげる」と言われ、和泉の背筋も自然と伸びる。きっとはな子はスパルタだ。それが容易に想像できた。
電車が目的の駅に近づくにつれて、和泉にとっては懐かしい光景に近づいていく。ようやく着いた頃には、電車の窓から見えるホームがそれまでと変わらなくて、和泉は眩しげに目を細めていた。
「ほら、降りるよ」
「……うん」
この地に良い思い出はない。それでも和泉にとっては懐かしいものである。
和泉ははな子の背に続き、ホームに降りようとしたのだが。
一歩。ホームに足を置いた時だった。
ずしりと、和泉の足に重力が加わる。まるで縫い付けられたとも思えるほどで、次の一歩が踏み出せない。
近くに居るはずのはな子の気配も声も、一瞬で遠のいた。
「……和泉?」
まるで和泉の時だけが止まったかのように一点を見つめ、ピクリとも動かない。
普通の状態ではないとひと目で分かった。気付いたはな子はすぐに周囲を見るが、何も居ない。ここに取り残されていた強い思念だろうか。はな子は訝しげにもう一度呼びかけるが、やはり和泉は反応しない。
「お客様、どうされました? 電車が出ますので、ホームにお入りください」
和泉の片足はまだ電車の中にある。不自然な姿勢で動きを止めた和泉を見て、駅員も怪訝な顔をしていた。
「あの……」
「すみません、すぐに行きます」
はな子はポケットからお札を取り出すと、それを和泉の額に貼り付けた。
瞬間、和泉の目が驚きに見開かれ、一時停止していた動きが突然再開された。和泉はつんのめって転びそうになったが、なんとかバランスをとって体勢を整える。
ようやく電車が出発した。遠ざかるそれを、和泉は不思議そうに見送っていた。
「……今、何が起きたの?」
「それはこっちのセリフなんだけど。あんたに何が起きてた?」
和泉は自身の額に貼られたお札を取ろうと、額に手を伸ばす。しかしすぐにはな子に捕まった。
「何が起きてたのか聞いてんの」
「……何って……なんだろう、なんか足が重たくなって、動けなくなって……」
「なにか聞こえた?」
和泉の目が、先ほどのはな子同様に周囲を窺う。少しばかり怯えている。小さく「何かいる?」という震える問いかけには、はな子は首を横にふった。
「おかえりって、言われた。……おかえり、フジマルって……」
「……フジマル? 何それ」
「僕にも分からないけど……」
「今は何か聞こえる?」
はな子の言葉に、和泉は素直に「聞こえない」と呟いた。
やけに訝しげな顔をする二人の近くには、いつの間にか、迷惑そうに次の電車を待つ人がまばらに立っていた。
一旦駅を出た二人は、ひとまず怪異化の進む家庭に向かうかとそちらに足を進める。
駅から出ると、額に貼っていたお札ははな子の手で剥がされた。
「何か聞こえたらすぐに教えて」
「うん。でも今は神奈木さんが居るからか、何も聞こえないよ。……神奈木さんは? 何か見える?」
スマートフォンの液晶を見ながら、はな子は目的地に向けて歩いていた。スマートフォンにはピンが刺さった地図が表示されており、はな子が動くたびに丸い点が移動している。
はな子は和泉に目を向けなかった。
「この地域、おかしいくらいに見えないんだよね」
そしてポツリと、小さく告げる。
しかし普段見えない和泉には、何が「おかしいくらい」なのかが分からなかった。
「おかしいくらいってどういうこと?」
「……霊ってのはね、どこにでも居るんだよ。通常その辺を歩いてるレベルで居る。悪霊の方が少ないから、害のない霊の方が多い。妖怪やら怪異やらに関しては条件さえ揃えば居るから、歩いてるだけでもたまに見るはずなんだけど……この街には何も居ない。昨日来た時もそうだった」
はな子の目がちらりと上目にどこかを見た。けれどもすぐにスマートフォンの画面に視線を落とす。
「そうなんだ……だけどおかしいな。僕がここに住んでた時にはすごく声が聞こえたのに」
「……強い何かが来たんだろうね。それこそ、霊や妖怪すら逃げ出すような何かが」
「……そんなことあるんだ」
「私だってそうでしょ。私と一緒に居ると、和泉は悪いものの声が聞こえなくなる。その原理と同じ。だけどこの地域に居る何かはおそらく、私とは違う理由で避けられたんだろうけどね」
目的の家が近づいてきたのか、はな子はスマートフォンをポケットに入れる。
「……だけど、何も居ないならどうして僕が連れてこられたの……? 僕、声を聞くしか出来ないんだけど」
「いや……まあ、何か聞こえたらとも思ってたんだけど、それよりもあんたには見てほしいものがあって」
なんだそれ、という疑問が素直に顔に出ていたのか、和泉を一瞥したはな子はふっと強気に笑った。しかしその場で何かを言うことはなく「行けば分かるよ」と続ける。
「おかえりって言われたのなら……もしかしたら、あんたが鍵かも」
その小さな言葉の意味を和泉が理解したのは、目的の家にたどり着いた時だった。
やってきたのは一般的な一軒家だ。二階建てで、車は二台停まっている。子ども用の自転車が玄関前のスペースに置かれているために、家族で住んでいるのだろう。表札には『佐々原』と名前が刻まれているが和泉の記憶にはなかった。
同級生ではない。それに和泉はほっとしたが、そもそも人見知りであるために、結局はな子の背後に隠れるように立つ。
はな子がインターホンを押すと、中から「すぐに行きます」と女の声が聞こえた。この家の母親だろうか。和泉の緊張は、その声で少しばかり和らいだ。
やがて玄関が開き、女が顔を出す。はな子を認めて軽く頭を下げた女はすぐに、その背後に立つ和泉を見て息をのむ。
「……優希」
「ママ、ママ? 誰が来たの? パパ?」
女の後ろから子どもが現れた。女の脚にすがるように抱きついて、泣いていたのか目元が赤い。少年は怯えた様子で和泉を見る。すると女と同じように、少年も目を丸くした。
「……ぼ、ぼくだ……」
「僕が居る……」
和泉と少年は、互いに目を見合わせて動きを止めた。
そして互いの顔が似ていることに、しばらく呆然としていた。




