第11話
——はな子はハッと目を開けた。
瞬きほどの、ほんの一瞬のあとである。
すぐにあたりを見渡して、今の状況を確認する。
そこは先ほどまで居た滝のほとりである。倒れていた場所も変わらない。滝以外には森が広がって、水の叩きつける音だけが聞こえてくる。
周囲にはなぜか二人が居なくて、はな子は一人ポツンとそこに居た。
(……どういうこと?)
どこか違和感を覚える。だけどいったい何がそう思わせるのか……はな子は立ち上がって違和感を探るけれど、はっきりとした確証は得られない。
訝しげにあたりを見渡していると、ガサガサと草の揺れる音がした。振り返った時には遅く、そこから一人の女が現れた。
はな子のことは見ていなかった。近くにいるのに視線も寄越さないその様子は少々おかしくて、すぐに「見えていない」のだと理解する。
女は着物のようなものを身につけていた。薄っぺらで汚れていて、足は傷だらけで、履き物はなかった。
『助けてください。どうか、お救いください』
女はぶつぶつと小さくつぶやきながら、恐る恐る歩みを進めていた。祈るように胸元で握り締められた手は、微かに震えている。
はな子は静かに見守っていた。違和感のあるこの世界でははな子には何もできないのだと、なんとなく分かっていたからである。
女ははな子に一瞥もくれないまま水辺のほとりにやってくると、迷うことなく水に浸かる。そうして勢いの凄まじい滝に打たれて、しばらく動かなくなった。
『どうか。どうか――』
はな子の耳にはずっと、その言葉ばかりが浮かんでいた。
するとふたたび草が揺れて、男たちがやってきた。一人や二人ではない。複数人がやってくると、滝にいる女を呼び戻す。
必死に叫んでいた。少し怒っているようだ。女は暗い面持ちで滝を出ると、男たちは女を押さえつけるようにして日本酒を大量に飲ませている。
『こいつを捧げりゃあ、うちの村は助かるんだ。さっさと殺しちまおう』
『ああ、これ以上は苦しみたくねぇ』
男の手が女の喉を強く掴んだ。女は抵抗なく受け入れて、身を委ねているようだった。はな子はそれを見ていられなくて、ふっと目を逸らす。
これは生贄を捧げる行為ではない。ただの殺人だ。追い詰められすぎて、男たちの気が触れてしまったのだろうか。
やがて男たちは、役目を終えたようにその場を離れた。はな子がそちらに目をやると、動かなくなった女が横たわっていた。
『まったく騒がしい。騒がしく、臭い人間どもだ』
不機嫌そうな声が聞こえた。それは、恵梨香を連れて行こうとしている神様と、まったく同じ声だった。
『この神域で人間を殺すとは、なんと愚かなことか』
目に見えないところで独りごちる神様の隣で、突然ずるりと、女の体から魂が抜ける。半透明になった女が、実体から起き上がったようだ。
『貴様、邪魔だ。どこへなりと行け。我は人間が嫌いだ』
『神様でございますか?』
『さっさと消えろ』
姿が見えないために、女はキョロキョロと忙しなく探している。
『あなた様が望まれるのであれば、私はすぐに消えましょう。しかしお願いです。この魂を捧げてでも、お願いがございます。どうか、どうか村の飢饉だけはお救いください』
ひれ伏すように、女が頭を下げた。
滝壺の上空に光が現れた。女はそれに気がついて、見ないようにと目を閉じる。
『あのような扱いを受けて尚、貴様は村のために捧げるか』
声から少し、トゲが抜ける。はな子たちと対峙していた時でさえ苛々とした声音だったから、その声はなんだか不思議なものに聞こえた。
これからいったい、どうなるのか。
はな子はなんとなくこれが「この場所の記憶」であることを察しながら、注意深く観察を続ける。
『良いだろう。貴様の望み、叶えてくれよう』
それは、神様にとっては暇つぶしのようなものだった。少なくともはな子にはそう思えた。気まぐれか、酔狂か。たった一人の人間のために何かをしようと言い出すなど、普通の神様にはありえない。この神様は、やっぱり昔から変わっていたらしい。
女はいたく喜んでいた。それでは魂を食らってくださいと、ふたたび滝の中に入ろうとした。
『貴様はまだ熟れていない。その時ではない。まだそこにおれ』
しかし神様に拒否されて、水に浸かることすらできなかった。触れようとすれば、弾かれてしまう。女は残念そうにしながらも、神様に「いつになれば熟しますか」と問いかけた。
『愚かな人間よ。さようなことを我が知るか』
――やはり、神様の暇つぶしだっただけのようだ。
もしかしたら、困らせてやろうと思っただけなのかもしれない。あるいは、人間が嫌いだと言っていたから、ほんの少しの嫌がらせか。とにかく、神様には手を貸すつもりはまったくなくて、だけどアドバイスもなく、女は放置されることが決まったようだった。
けれど女は諦めなかった。「熟す」という意味はやっぱり分からなかったけれど、女なりに奮闘を始めた。
迷い込んだ人間がいれば、それとなく導いて山から出してあげた。人間が動物に襲われていれば助けたし、木の実を取りにきた者がいればたくさんある場所を案内してあげた。
善行をなせば、神様の好む魂になれるかもしれない。そんなふうに思った末の女の努力である。しかし神様は意地悪で、最初以降女の前に姿を現すことはなかった。
そんな時だ。女を殺した男たちが、ふたたび滝のほとりにやってきた。
魂だけとなっている女の姿は見えないようだ。女は、滝の奥の窪みにある、神様の祠を綺麗にしていた。
男たちは、動かなくなった女の実体に歩み寄る。そうして二人で足と肩を持つと、女をどこかに運び始めた。
女はそれを見送っていた。もはや何をされようとも、自分に何かが出来るわけでもない。女はやや落ち込んだように、神様の祠を磨き続けた。
『見せしめに、惨たらしく燃やされるぞ』
クスクスと楽しげな声が聞こえた。気がつけば滝の向こう側に、光が降りていた。
『貴様を捧げても村が救われなかったから、貴様は化け物なんだそうだ。かわいそうになぁ、殺されるばかりではなく、まさか焼かれようとはな』
『村は……救われなかったのですか』
『我が救ったとでも思ったか?』
その問いかけに、女は緩やかに首を振る。
『私が未熟であるのがいけないのです』
だけど神様は、最初から救ってやるつもりなんかなかった。ちょっと女をからかっただけだ。それなのに女は神様を信じきって、自分が至らないために神様が村を救わないのだと思い込んでいる。
それは神様にとって、まったくおかしな話だった。
だけどなぜかいつものように、嘲ることはできなかった。
神様が滝のほとりによく現れるようになったのはその頃からだった。けれど何をするでもない。せっせと善行をなす女を見て、嫌味を言うばかりである。
それでも女は嬉しそうだった。そして神様も、どこか楽しそうだった。
はたから見れば二人はとても仲良しで、そしてある日、とうとう神様が宣言した。
『我は人間が嫌いだが、貴様のような者ならば悪くはない。――貴様の魂を食らってやろう。そうして、貴様の一族の者に幸福をもたらそう。長く続く血筋をすべて我に捧げよ。我に永劫の時を誓え』
女は迷わずうなずいた。神様は女の魂を食らい、女と永遠とも言える時を過ごすこととなった。
神様は宣言どおり、女の一族の魂をすべて食らっていた。
男児にしか望まれなければ、その次に生まれた女を食らう。神様はそうしてずっと女の血族を見守り、取り込み続けていた。
(なるほどね)
はな子はやけに冷静に突っ立っていた。
あの神様にも、女に対する情だけはある。決してはな子たちには向けられないけれど、きっと恵梨香のことは、女の末裔であるために欲しくてたまらないのだろう。
神使をつけてまで執着したのは、ある意味やはり「そこまで好きだった」からなのか。神様に言えば認めることはなさそうだが、はな子からすれはその表現が一番腑に落ちた。




