第9話
岡恵梨香の母親は、恵梨香が生まれてすぐに亡くなった。
元気に退院をしたのまでは周知の事実である。けれど家に帰ってから、不審な動きを見せていたと言う者も居た。
いわく、恵梨香の母は突然フラフラと森へ入って行ったという。
その様子は明らかにおかしく、誰が見ても異常だった。靴も履いていなかった。さらに時刻は夜だった。子を産んだばかりの親がするには、甚だおかしな行動である。
そうしてそのまま戻らなかった。とある山奥の水場で、溺れて死んでいたからだ。
「えーりか。どこ行きよん?」
恵梨香がはたと我に返ったのは、ちょうど校舎を出たところだった。
先ほどまでは教室にいた。そこを出た記憶はない。いったいどうやって校舎を出たのか、その記憶だけが綺麗になくなっていて、恵梨香自身も不思議だった。
「あれ? うち、どこ行きよるんやろ……」
思ったままを言ってみると、恵梨香を呼びにやってきたいつもの三人が肩をすくめる。呆れてはいるけれど、決して嫌がっている様子ではなかった。
「もー、うっかりしとるなぁ! ほら、戻ろや。まだ授業あるん」
「次なんやっけ?」
「数学ちゃう?」
「まじー? 恵梨香課題やった?」
わいわいと賑やかな三人の後ろで、恵梨香はふと足を止めた。
「恵梨香?」
「あ、うん? なんやろ、うち今日ぼんやりしとるみたい」
「なんそれ、いっつもやん!」
広美が楽しそうに笑う。その顔を見て、恵梨香もなぜか安堵する。
漠然とした恐怖が胸にあった。なぜかは分からない。得体もしれないそれはただ、静かに恵梨香の内側を侵食している。
「ほら、行こ」
恵梨香の元にやってきた紗奈が、手を繋ぐ。小さい頃以来の出来事に、恵梨香は何度も目を瞬かせていた。
「どうしたん? 珍しいやん」
「たまにはええやろ? なあ沙織」
「そうそう!」
紗奈とは反対側にやってきた沙織が、空いている手を繋いで引っ張った。
「恵梨香はぼんやりしとるけ、うちらが手ぇ繋いどかんと、すぐに連れて行かれてしまうん」
「ずるーい! 私繋げんなったやん!」
「広美は安達くんがおるやん」
二人に手を引かれて、恵梨香は教室へと戻る。どうしてか、手を繋がれている間はぼんやりとすることはなかった。
数学の授業が始まると、恵梨香の思考はやっぱり揺らいだ。何を考えていたのかも分からない。自身では何も考えられない中、突然ガタンと立ち上がる。
「恵梨香」
一番に声をかけたのは沙織だった。いつもの三人はすぐに恵梨香に駆け寄って、何度も何度も呼びかける。教師は生徒のおかしな様子に困惑しているようだった。それに保健室に行く旨を伝えると、三人は恵梨香を教室から引っ張り出した。
「恵梨香、聞こえとん?」
「恵梨香―」
数度呼び掛けられて、恵梨香はようやく意識を戻す。
「まーたぼんやりしとった」
「あれ、ほんまに? うちなんかおかしいなぁ……なんやろ、気ぃ抜いたらな、意識が遠くに行ってしまうん。ほんで今なんよ」
「なんそれー」
笑いながらも、三人は意味深な目配せをしていた。
「どうしたん?」
「……なぁ恵梨香。絶対そっちに行かんとって。恵梨香だけはな、元気に生きて笑っとってほしいんよ」
やけに真剣な言葉だった。沙織が言うと、二人も頷く。
「恵梨香は一人にしとくにはちょーっと不安やけど、仕方ないやね。……神奈木さんと和泉くんがしゃんとしとるし、恵梨香も楽しそうやし」
「そうそう。……もう少しよ、恵梨香。もう少しだけ私らとおって。何も考えんと、私らの手、離さんとって」
少し前のように、左側を沙織に、右側を紗奈に繋がれた。やっぱり広美は繋げなかったけれど、今回不満はないらしい。
「どうしたん? 今日のみんな、ちょっとうちに甘すぎちゃう?」
「あとちょっとなんよ。ほしたらな、最強に強い神奈木さんが来てくれるん」
「……神奈木さん?」
はて、その名前に聞き覚えがあっただろうか。
不思議そうな恵梨香を無視して、紗奈がぎゅうと強く手を握る。
「……恵梨香。これからも頑張ってな。私らみんな、恵梨香のことずーっと応援しとるよ」
「あたしも! 恵梨香は意外とネガティブなところもあるけ心配やけど……誰も恵梨香のことお荷物なんか思っとらん。思っとったら、あたしが神奈木さん呪ってやるわ!」
「私もよ。……みんな恵梨香のことずっと好きやけ、自信持って胸張っとき!」
「……何なん? みんないきなり、どうしたんよ。照れるやんか」
沙織が握る手も強くなる。正面からは、広美に抱きしめられた。
そんな三人の背後に、光が降った。大きな光だった。眩しくて目も開けられなくて、恵梨香はとっさに目を細める。
『誠に邪魔な小娘どもよ』
「恵梨香! 聞かんでええ! 耳塞いで!」
広美が恵梨香の耳を押さえた。握る手は離されない。恵梨香には何が起きているのかも分からないけれど、みんなが光を睨み付けていることだけは分かった。
――恵梨香はアレを知っている。かつてどこかで会っている。
考えれば考えるほど分からなくて、手を離してしまいそうになるたびに、沙織と紗奈が必死に繋ぎ止めていた。
沙織たちが険しい顔をして、光に何かを叫んでいる。
しかし鋭い一閃が横薙ぎに動くと、三人の影が同時に揺れた。
「……え? 沙織? 紗奈? 広美?」
ゆらゆらと揺れて、三人が半透明に変わる。
消えてしまうと察した恵梨香は、とっさに手を強く握り締めた。しかし拳を握り締めただけに終わる。二人の手にはすでに触れられなかった。
「何なんこれ! ねえ! みんなどうしたん⁉︎」
違う。恵梨香は知っている。
忘れているだけで、現実はこうだった。
降って湧いたような思考に、恵梨香は一瞬動きを止めた。光になって消える三人は恵梨香を振り返り、それでも最後は笑顔を浮かべる。
「恵梨香、こっちに来たら許さんよ!」
「次夜泣きしたら枕元に立つんやけ」
「おばあちゃんになってから、楽しかったことたくさん教えてやね」
そうだ。みんな、死んでしまった。
恵梨香と和泉以外はみんな、あの日のバスの転落事故で亡くなったのだ。
「いやや! 待って! うちまだたくさん言いたいことあるん! みんなにありがとうって言えてないんよ!」
消える瞬間のその言葉が届いたのかは分からない。三人が光に吸い込まれると、それまで見えていたはずの校舎も跡形もなく消えてしまった。
『まさか我が子にまで邪魔をされるとは思わなかった。――貴様はまったく、悪運が強い。しかしだからこそ、その魂が美味いのだろう』
光が大きく膨らむと、恵梨香の思考はふたたび霞む。
しかし今度は抵抗をした。何が起きているかは分からないけれど、この光に従うのがいけないことだとはなんとなく理解ができた。それは、みんながこの光を敵視していたからかもしれない。恵梨香も良い気持ちにはなれなくて、必死に自分をたもつようにと堪えていた。
『……ほう。これはこれは、神ノの現人神か』
光の意識が恵梨香からそれる。その一瞬で思考がはっきりと戻った恵梨香は、その場から一目散に駆け出した。
真っ白な世界だ。右も左も分からない。行き先もない。けれどあの光から離れなければと、必死に足を動かしていた。
「神奈木さん……!」
言葉にすると、スピードが自然と落ちる。
そういえば、恵梨香はどうしてここに来たのだろうか。
(……うち、は……)
病室で、突然太郎が苦しみ始めた。それを救わなければと願ったけれど、何の力も持たない恵梨香には何もできなかった。
だから狐にお願いしたのだ。
病室いっぱいに光が溢れた。眩しくて目も開けられないほどの光だった。そしてそこから、男の人の声が聞こえた。
あの光は、何を言っていただろうか。
『良いだろう。……愚かな子よ。死に急ぐ貴様に、運命を教えてやろう』
力を貸してくれると言ったから、恵梨香は受け入れたのではなかったか。
『貴様の魂は我への供物だ。貴様の母もそうだった。貴様はまだ子をなしておらぬが、これを機にほかに美味い魂を探すのも良いだろう』
恵梨香にはその意味がよく分からなかった。
そういった顔をしていたからか、光は嘲笑うように『ほんに愚鈍な娘よ』と言葉を続ける。
『我は貴様の血筋の女のすべての魂を食らってきた。魂を失えば、輪廻の輪からそれる。二度と生まれ変わることはできない』
生まれ変われんかったらどうなるん。とっさに、恵梨香が聞き返した。
『何もない。すべてを失われる。思考もない。感情もない。感覚も、意識もない。貴様という存在は、永劫消え失せるだろう』
当たり前に訪れていた「明日」も、「あとで」もなくなる。
おはようもおやすみも消える。嬉しいも楽しいも悲しいも、何もかもがなかったことになる。だけどそれがなくなったことも分からない。分からない、ということさえも感じなくなる。無に溶け込む。恵梨香は、「無」になる。
途方もないそれに気付いた恵梨香は、ようやく心の奥に恐怖心を覚えた。
『貴様がその魂を我に寄越すのならば、ここに居る愚かな女を連れて行ってやろう』
けれど、恵梨香には何かを考えている時間はなかった。
恵梨香はこれまで役に立てたことがない。そんな恵梨香だけが今、苦しんでいる太郎を助けることができる。
覚悟を決めたとき、太郎が恵梨香の手を握った。
「岡さん……」
それは、引き止めているような仕草だった。表情は苦しそうだけれど、頑張って堪えているのが分かる。何かを言いたそうに、浅く呼吸を繰り返す口を必死に開いては閉じていた。
「…………大丈夫やよ、太郎くん。うち、やっと役に立てるんよ」
違う、と言いたかったのかもしれない。太郎は悲しそうに眉を下げていた。
「ねえ、うちのこと連れて行っていいよ。うちこれまで、ずーっと何もしてこんかったん。田舎でのんびり暮らしとるだけやった。こんな都会に来れてな、もうすっごい楽しいん。世界が広いことも知らんかったんよ」
光は何も言わなかった。けれど、嘲るような雰囲気だけはしっかりと伝わっていた。
「太郎くんが助かるんなら、うちを連れて行って!」
――そうして恵梨香は、女神の手をとった。
逃げ出した恵梨香の背後に、光が追いついた。特に焦った様子はない。恵梨香の様子に気付いたのか、今度は思考を奪われることはなかった。
「…………ごめん。うちが逃げるんは違う」
『ほう?』
「神様はうちの願い叶えてくれたんやろ? うち、この真っ白な世界に来たとき、女の人とおった。あの人が女神様やったんなら、神様は太郎くんを助けてくれたん。やのに……うちが逃げるんはいかんことやんね」
『命が惜しくなったのではないのか』
「……みんなが守ってくれたけ、逃げてしまっただけなん。忘れてたんよ。思い出したらおかしいって分かる」
恵梨香が振り向いた。その表情は、晴れやかなものだった。
「ええよ、神様。うちの魂食べてよ。生まれ変われんでもな、もうたくさん楽しいことあったん。いっぱい友達もできたしな、神様っていう存在ともお話ができたん! そんな経験あって、もうお腹いっぱいになった」
本音を言えば、はな子ともっと探偵ごっこを続けたかった。初めて出てきた都会でもっともっと遊びたかった。それなりに恋愛をして、大人になったら結婚をして家族を作って、そうして当たり前の幸福の中で生きていたかった。
(……やけど)
生きることを諦めたわけではない。恵梨香はただ、こうすることでしか役に立てなかっただけなのだ。
恵梨香の視界いっぱいに光が広がる。恐怖心はない。一瞬後には自身の意識がなくなっていると思えば不思議な気はするけれど、しょせんはその程度のことである。
大丈夫。一瞬で終わる。そう言い聞かせて、恵梨香がゆっくりとまぶたを下ろし始めた、そのときだった。
白の世界に一筋、黒の一線が走った。
果てしなく続く白にうんと長く伸びたそこから、一気に黒が広がっていく。やがてぐにゃりと渦巻くと、空間すべてが歪んむように、足元からすくわれた。
平衡感が失われる。恵梨香は立ってもいられなくなり、両手をフラフラと動かしながらも膝をつく。光が揺れると、恵梨香を取り込もうとする動きはなくなった。
「岡さん!」
声が聞こえた。遠くから、聞き慣れた声だった。
「……神奈木さん?」
姿は見えない。目の前は依然として、白と黒が渦巻いているだけである。けれどたしかに聞こえる声に、恵梨香は必死にあたりを見渡す。
どこにもいない。声は聞こえる。気配もある。
すると突然、困惑する恵梨香の腕を、真っ白でほっそりとした手が捕まえた。
見たこともないほど美しい手だった。手首にはいくつものバングルが重なり、しゃらしゃらと音を立てている。
それは、渦巻く黒から飛び出していた。
手が引っ張る。恵梨香を引きずり込もうと、とてつもなく強い力で誘っている。
「い、痛い!」
抵抗はしたけれど、恵梨香はあっさりと渦の中にのみ込まれた。




