第2話
はな子が動くのは早かった。
二人が東京にやってきてほんの二日で荷ほどきを済ませたために、容赦無く「終わったなら行くよ」と家から連れ出した。
当日は歓迎パーティーがおこなわれたから、ようやく落ち着いた頃である。
はな子はさっそく病院へとやってきた。看護師たちがはな子を見て頭を下げる。そんな看護師の一人に呼ばれたのか、奥からやってきた老年の医師が心配そうに現状をはな子に伝えた。
「太郎くん、もうこれ以上は処置のしようがありません。延命処置は出来うるものはすべてしています。今来てもらえて、本当に良かったです。このことは、十蔵さんにはすでにお伝えしています」
はな子の表情がきゅっと固くなる。和泉と恵梨香も、いつもの強気ではないはな子を見つめて、真剣な顔をしていた。
「いつもなら、ここで私が無理やり祓ってた。そうしたら太郎は嘘みたいに良くなるの。でもキリがない。太郎はすぐにまた体調を崩す。入院する。結局恨みを持たれる数が増えて、どうにもできないくらいになってる」
エレベーターの中は静かだった。はな子の言葉に、二人は思っていたよりも深刻な状況だとようやく理解した。
どこか他人事な部分もあったのかもしれない。目の当たりにしてしまえば、、自分たちの役割のプレッシャーを感じてしまう。
エレベーターが到着しても、誰も何も言わなかった。前を歩くはな子について歩く二人は、歩むたびに緊張感を高めていく。
「ここ……入れる?」
はな子の目には、その病室はあまりにも眩しい。個室であるそこの扉をスライドさせても、はな子には中に居るはずの太郎の姿は見えなかった。
「わあ! めっちゃ綺麗や!」
口を開いたのは恵梨香だった。目をキラキラと輝かせて、病室の中を嬉しそうに見ていた。
はな子には見えない。綺麗かどうかも分からない。そうして恵梨香が一歩病室に踏み入れると、今度は和泉が耳を塞いでしゃがみ込んだ。
「うわあああ!」
ひどく怯えた様子だった。入っていった恵梨香の様子も気になるが、今は目をギュッと閉じて小さくなっている和泉が心配である。
「和泉? どうしたの?」
「岡さん! 行かないで! 行っちゃダメだ!」
個室の並ぶフロアなために、人は少ない。その中で和泉の声は廊下いっぱいに響き、看護師が心配そうに駆け寄ってきた。
「どうされました? 落ち着いてください」
「岡さん! お願い、戻ってきて! 岡さん! はや、」
和泉の言葉が、不自然に途切れた。その目が緩やかに持ち上がる。はな子はそんな和泉の表情を、見逃すまいと静かに見ていた。
「どうしたん? 看護師さんびっくりしとるよ」
気が付けば、恵梨香が二人の前に立っていた。
「……岡さん?」
「そうやよ。……呼んどったやろ」
「岡さん、一回出て。和泉は何を聞いたか教えて」
はな子の言葉に、恵梨香は一度病室を出た。和泉も先ほどよりは落ち着いた様子だ。しかし立ち上がるには力が入らなかったのか、和泉はとっさに近くにあったはな子の手を握る。
はな子は思わず手を引きかけた。それでもそうしなかったのは、和泉の指先が震えていたからだ。
「……ごめんね、神奈木さん」
和泉は申し訳なさそうに笑うと、ゆったりと立ち上がった。
「岡さんが病室に入った瞬間、出て行け、来るな、この子に触るなって聞こえた。明らかに悪意があったよ。あのまま居たら岡さんが危ないって思えるくらいには、怖かった」
談話スペースでお茶を買って、和泉がようやく語り出す。落ち込んでいるように顔を伏せていた。その様子からは、嘘を言っているようには到底思えない。
「……岡さんは何かを見たの?」
「何も見とらんよ。普通の個室やって、太郎くん? が寝よっただけやった。でも病室が開いた瞬間『綺麗や』って思った。普通の個室やのに一番に思ったのはそれやよ」
まったくおかしな話だ。言われている言葉は不穏だが、恵梨香が感じたのはそれとは逆のことである。
太郎に憑いているのが神様だから、一見しただけでは空気が澄んでいて「綺麗だ」と思ったのだろうか。
「……和泉が聞いた言葉は、岡さんに向けられたものだったの?」
「うん、間違いない。病室前に居た僕には、全然興味もなさそうだった」
「敵視したのは、岡さんだけ……」
「うち、なんか悪いことしたんかなぁ」
「ねえあんた、何か知ってるんじゃないの?」
はな子はふと、恵梨香の足元に座っている狐に問いかけた。狐は珍しく寛いでいるようでもない。主人ではない神様と対面したからか、スッと背を伸ばして緊張しているようにも見える。
「アレには近づけるなって」
和泉が代弁する。
「主人はまだその魂を望んでいない。因縁に巻き込むな。……ちょっと怒ってるのかな。ううん、厳しい感じがする」
「魂?」
思ってもみない単語が出てきて、はな子は恵梨香へと視線を投げる。
恵梨香は何も分かっていないのか、不思議そうにはな子を見ていた。
――狐の主人とはつまり、はな子や十蔵が思う「高位の神様」だ。その神様が恵梨香の魂を望んでいる、という旨の言葉を聞いてしまえば、引っかかるのも仕方がない。
(……そうだ、そもそもその神様は何で岡さんに憑いて……)
わざわざ神使をつけてまで気にかけているようだったから、よっぽど「好き」なのかと思っていたのだけど……魂を望んでいると言われては、そんなに単純な話でもないと分かる。
「神奈木さん」
すっかり考え込んでいたはな子に、和泉が声をかけた。
はな子の肩が跳ねる。ハッと目を見開くと、はな子はすぐに「なんでもない」と言葉を返した。
「つまり病室に居た神様は、岡さんの命を狙うくらいには『敵意』を持ってたってことだよね?」
和泉の問いかけに、はな子はコクリと頷く。
「理由はわからない。もしかしたら太郎が何かを知ってるのかもしれないけど……話を聞こうにも、私は入れないし、岡さんは危ないし……」
「そんなん、うち全然分からんし入れるよ! うちが太郎くんに話聞いてみる!」
「ダメ。岡さんが勝手なことして、岡さんに憑いてる神様が暴走でもしたら困る。神様同士の喧嘩なんか、人間との喧嘩よりよっぽど被害が大きいんだから」
「でも……」
「「あっ」」
声を出したのは、はな子と和泉だった。
はな子には恵梨香の元から狐が動いたのが見えた。和泉には狐の声が聞こえていた。互いがそれに同時に気付いたために、声が重なった。
「どうしたん?」
「ついてこいって言ってる。……神奈木さん、その狐さん、動いたの?」
「うん」
二人が動く後ろに、恵梨香もついて歩く。
恵梨香はこんなとき、すごくやるせない気持ちになる。
和泉はしっかりとはな子の役に立っている。はな子の足りない部分を補って、はな子にとって不可欠な存在とも言えるだろう。
けれど恵梨香はお荷物だ。和泉のようにはな子の欠点を補えるわけでもなければ、特別秀でているわけでもない。二人の後ろをついて歩くばかりで、足を引っ張ることしかできない。
今回だって、ようやく役に立てると思ったのに結局はな子に止められてしまった。言っていることはよく分からなかったけれど、はな子が「やめろ」と言うのであれば、恵梨香には強く反論することができるはずもない。
(うちやって……)
和泉のように、はな子の力になりたかった。対等な立場ではな子と一緒に居たかった。今のようなおんぶに抱っこな関係ではなく、むしろはな子を支えられるような存在でありたかった。
恵梨香が暗い顔をしているうちに、三人は太郎の病室へと戻ってきた。
狐は躊躇いもなく中に入る。はな子が足を止めたために、和泉と恵梨香もそれにならった。
「……中に入ったの?」
和泉の問いかけに、はな子が振り返る。
「何か言ってた?」
「ううん、何も」
「ここの戸は開けたほうが中の会話とか分かる?」
はな子が病室の扉を開くと、和泉の耳には言葉が届く。
女性の声と、中性的でハスキーな声が聞こえた。ハスキーなほうはこれまでに聞いていた狐の声だから、病室に居るのは女性のほうなのだろう。
「うん。聞こえる。……なんか、話をしてるみたい」
「話?」
「……うん。あんまり内容は分からないけど……とにかく相手に、こっちの無害さを伝えてる感じかな」
「へえ。あの狐、そんな理知的な行動がとれたんだ」
「失礼だよ……」
「本当のことじゃない。あっちこっちに牙剥いてるイメージしかないからね」
「まあまあ。結構真面目に話し合ってるみたいだし……あ、でもなんか、こっちの……」
和泉が何かを言いかけて、弾かれたように恵梨香を見た。
驚いた顔をしていた。今までには見たこともないような顔で、目を見開いたまま眉を寄せている。
そんな和泉に恵梨香も驚愕したようで、びくりと一度大きく震えて動きを止めた。
「……な、何? 和泉くん?」
「…………あ……えっと……」
言葉を濁して、和泉は俯いてしまった。少し震えているようにも見える。その横顔にはな子が声をかけるより早く、病室から狐が顔を出す。狐はじっと和泉を見ていた。何かを探るような目だ。しかしすぐにふいと顔を背けて、いつものように恵梨香の足元に戻った。
「……話は終わったみたいだよ。たぶん、岡さんが入っても大丈夫なんじゃないかな」
「……ほ、ほんまに?」
「うん。……狐さんが、説得してくれたみたい」
和泉はなぜか、恵梨香の目を見なかった。
けれど恵梨香は気にしなかったのか、言われるままに病室へと入っていく。そんな背中を見送って、はな子が静かに扉を閉める。
和泉の腕を引いた。やってきたのは、先ほど三人で話していた談話スペースだった。
「……なにを聞いた?」
単刀直入にはな子が問いかけた。しかし和泉は俯いて、苦しげに眉を寄せるばかりだった。
「……太郎に憑いてる神様と狐の会話を聞いたんでしょ。そこからあんた、ちょっとおかしくなった。……なにを聞いたの」
「……僕の口からは……言えない」
「はあ?」
怒ったようなはな子の声音に、和泉はとっさに「違うんだよ」と否定を返す。
「僕が勝手に神奈木さんに言うことで、岡さんの身に何かが起きるかもしれないのが嫌だ。……狐さんと話がしたい。このことを話していいのかを、確認させて欲しい」
そんなふうに慎重になるほどのこととは、いったい何なのか。
気になったけれどはな子には何も言えなくて、和泉に「分かったよ」としか言えなかった。




