74.戻れない変えられない過去
ギルドでの一件から数日が経ったある日の夜。
クリスと一緒にグレアムの家から自宅へと戻ってきたマルレーネは、風呂場で丹念に身体を洗いながら溜息を吐いていた。
(それにしてもラフィちゃん、大分私に慣れてきてくれたのは嬉しいんだけど、帰っちゃ嫌って言われてしまうと……)
グレアムたちと夕飯を過ごし、片付けなどをし終えてからクリスと一緒に帰ろうとすると、泊まっていってと駄々をこねるようになってしまった。
とても寂しそうな表情で甘え、訴えかけてくる。
なまじ母性本能が強いせいか、胸がぎゅっと苦しくなってしまい、後ろ髪惹かれる思いだった。
(泊まりたいのは山々だけど、さすがにいろいろまずいし)
そんなことを思いながら、彼女は風呂から出て自室へと向かった。途中クリスともすれ違い、彼女にも風呂を勧めておいた。
(明日も早いし、もう寝よ)
ランタンの明かりだけが光源となっている部屋の中は薄暗い。
彼女の記憶の中にある前世と違って、この世界には夜にできる娯楽などほとんどない。
チェスのようなゲームはあるが、暗がりでするようなものでもないし。
リビングのように夜間でも家族がくつろぐような場所だと、壁の燭台や暖炉の明かりなどで部屋の中が明るいから夜遅くまで起きていることはできるが、寝るためだけの場所ともなるとそうもいかない。
何より、ろうそくの無駄遣いだ。裕福ではない暮らしでは、やはり早寝早起きが基本となる。
(それに、朝早く起きてグレアムさんのところに行かないといけないしね)
マルレーネはベッドに入って目を瞑った。
決して嫌ではない、明日のことを思いながら。
愛らしい幼子と、どこか放っておけない男が見せる優しげな笑顔を思い浮かべながら。
◇
どこかで、誰かが自分の名前を呼んでいるような気がした。
無機質で誰もいない薄暗い通路を、彼女は一人歩いていた。
ところどころ、壁や天井に非常灯の明かりが灯っている。
出口と表示された電光掲示板や、トイレを現すマークが表示されているものもある。
そんな通路の向こう側に、明るい光が漏れている場所があった。ナースステーションである。
「ま――、お疲れ~」
深夜のナースステーションには彼女の他に、数名の看護師が詰めていた。ま――は通路まで出て待っていてくれた同僚に苦笑する。
「お疲れ様。ひととおり見回ってきたけれど、特に異常はなかったですね」
「そう。こっちも特にコールもないし、今日は平和な夜になりそうね」
「そうですね。是非そうなって欲しいものです」
二人はたわいない話をしながらナースステーションの中に入る。
そこにはもう一人、看護師姿の若い女性がいて、「おかえり」と声をかけてきた。
「ただいま」
返事をして椅子に座ると、待っていたかのように、ナースステーション内にいた女性が近寄ってきた。
「そういえば、ま――って、あの親父の担当だったわよね?」
「親父?」
「そそ。ほら、ま――が病室行くと必ずキザったらしい笑顔見せてくるおっさん」
そう苦笑しながら言う金髪の女性。
「あぁ、おじさんのことですか」
「そうそう、その人。なんだか知らないけど、あなたが食事で席外しているときに呼び出されたから、何かと思って見に行ってみたら、これを渡してくれって頼まれたのよ」
そう言って彼女は白い封筒を渡してきた。ご丁寧にも、蜜蝋で封がされている。
「何かしら、これ?」
「さぁ? だけど、そこに自分が死んだら開けてくれとか書いてあるから、遺書か何かじゃない?」
「え……?」
遺書と聞いて、ま――は胸が締め付けられる思いとなってしまった。彼女がおじさんと呼んでいるあの患者はいろいろ問題行動も多いが、どこか憎めない親しみのある男性だったからだ。
ま――は幼少期からずっと児童養護施設で生活してきたから、親の顔も知らなければ身内も誰もいなかった。
そんな彼女にとって、あのおじさんは異性であると同時に、なんだか世話の焼ける父親のような存在に思えてならなかったのだ。
だから、行くたびにおじさんが「飯がまずい」と、軽口叩いてきても、
「もう……そんなわがまま言ってはダメですよ? メっ」
そう軽くお茶を濁す程度にしか叱ることはなかった。本当に仕方のないお父さん。そんな感じだった。
「まぁ、とにかく。明日、会いに行ってみたら?」
金髪の看護師はそれだけ言うと、自分の席に戻っていった。
ま――は、おじさんのことを脳裏に思い浮かべながら、渡された封筒を見つつ、同僚に言われたとおり明日会いに行こうと思った。
しかし、彼女が再びおじさんと会って話をする機会は永遠に失われてしまった。
明け方、おじさんの容態が急変し、そのまま集中治療室に運ばれてしまったからだ。
彼女は天に祈るような思いで、危機を乗り越えてくれることを信じ続けた。しかし、彼女も看護師だ。意識不明に陥ってしまったおじさんが、もう長くないことを誰よりも知っていた。
おじさんは悪性脳腫瘍の末期癌だったからだ。
個人で受けた人間ドックで腫瘍が発見されたときには、既に手術もできない有様だったらしい。
もって三ヶ月。心臓もあまりよくないらしいので、一ヶ月以内に亡くなる可能性が高いとも言われていた。
そんな状態で選んだ終末医療だったが、結局、おじさんは入院してから丁度一ヶ月後、病状が急変して一週間以内で帰らぬ人となってしまった。
おじさんは妻も子もおらず、身内もいないとのことで無縁仏として処理された。
こうなることは最初からわかっていたことだったが、それでも、あれだけ仲良くしていた患者さんが突然いなくなってしまった現実を、素直に受け入れられなかった。
ま――は、おじさんが残した手紙を見ながら、生前、まだ入院したばかりの頃に聞かされた話を思い出していた。
『俺は結婚もしてないし、子供もいないからさ。こうなる前に一度でいいから家族作ってみたかったな。娘とかいたら丁度、嬢ちゃんと同じくらいの年齢だったのかもしれないな。きっと可愛かったんだろうな。毎日頭撫でてやっただろうに』
そう語っていた。
ま――は、何度も読み直して少しよれてしまっている例の遺書を大切に折り畳むと、コートのポケットにしまった。
おじさんが亡くなってからこの数日間、涙が枯れ果てるぐらい、たくさん泣いた。
何も手につかず無気力状態だったけど、それでも仕事は休まず毎日無心で働いた。
それしか彼女には思いつかなかったから。
仕事を終えたま――は、ふらつく足取りで職場をあとにした。
「ちょっと、やっぱりしばらく仕事休んだ方がいいんじゃない?」
「タクシー呼んであげるから、それ乗って帰りなさいよ」
そう心配する同僚二人に笑顔で大丈夫と答えて、二人と別れた。
夕方の空は、銅色に染まっていた。
「まるで血の色みたい……」
キレイな空が次第に朱く染まっていく姿を見て、彼女は薄く笑った。
意識を朦朧とさせながら、ひたすら大通りに面する歩道を歩き続けた。
どこかで誰かが叫んでいるような声が聞こえた。
怒号や悲鳴のような声も聞こえた。
何かがキキキ~っと甲高く響く音も聞こえた。そして、そう思った次の瞬間には、彼女は激しい衝撃とともに宙を舞っていた。
頭がぼぅ~っとしていたため、何が起こったのかわからなかった。
次第に喧噪が広がるその場には、一枚の白い紙切れだけが宙を舞っていた。
彼女のポケットから飛び出したそれには、こう書かれている。
『楽しかったよ、ありがとな嬢ちゃん。君は間違いなく、俺にとっては大事な一人娘だったよ』
地面に落ちたそれを視認した彼女は、薄らと笑みをこぼして、そのまま完全に意識をロストさせていった――
◇
彼女は目を開けたとき、自分が泣いていることに気が付いた。
この村の中で一番キレイだと自負する自分の部屋の天井が、やけに古ぼけて見える。
窓に取りつけたカーテンの隙間から差し込む朝日が異様に眩しい。
(ずっと……見てなかったのに、どうしてまたあの夢を……最悪……)
かつての記憶を呼び覚ますそれを見たあとは、毎回こうなってしまう。五年前、あの人が来てからは滅多に見なくなっていたはずなのに、本当に久しぶりに前世の夢を見た。
もう二度と戻れないし、変えることのできない過去の記憶。
具体的な夢の内容は、毎回、断片的にしか覚えていないけれど、いつも共通しているのは深い悲しみだった。
(もう……忘れたと思っていたのに、どうして今更……)
彼女は手の甲で涙を拭うと、上半身を起こした。
中央広場に設置されている鐘が、朝の六時を告げている。もう起床する時間だった。
(こんなもやもやした気分のまま、あの人のところになんかいけない。少し遅くなってしまうけど、お風呂入って気持ち切り替えないと)
彼女はいろんな欲求が渦巻く胸中を整理するために、深く深呼吸してから部屋を出ていった。




