ニオイが判る男≪能力発見編≫1
ニオイが判る男
≪能力発見編≫
【もくじ】
一.気付きはじめた能力
二.協力者の親友
三.楽しいバーベキューのはずが……
四.壮太の一大決心
五.友情とは
六.新たな職場
七.未熟さが生んだ悲劇
一.気付きはじめた能力
人とすれ違っただけでその人のことが判る、そんな男がこの世にいた。
この男、前から他の人よりも嗅覚が鋭いということは自覚していたのだが、こんな特殊な能力が有ることまでは理解してはいなかった。
その男の名前は 犬走 壮太。
この男、まだ自分の能力には気づいていなかった。
この世の中は色んなニオイで溢れてる。
香水、柔軟剤、加齢臭、ワキガのような誰でも分かるようなニオイから、その人の運命を感じるニオイまで存在している。
古代であってもニオイの合わない人とだけは、絶対に一緒にならないという話があるのだ。
ある意味、人間も動物と一緒であるのかも知れない。
動物には特殊な能力があると考える。
例としては家で飼っているペットが、何の変化もない天井をじっと見つめ吠えていたり、地震が来る数分前からそわそわしはじめたなど、そんな経験をしたという人はいるのではないでしょうか。
話は元に戻りますが、ニオイそれは時として人を和ませる効果があったり、逆に人を不快にさせるといったこともあるでしょう。
この男が一番嫌いなニオイは、鼻を突くような物が腐ったようなニオイ、それは死臭を想像させるようなニオイだ。
運が悪いとそのニオイを放つ人とすれ違うことがある。
今日はそんな人に出会ってしまったのだ……
『うっ、臭い! これは生ゴミ以上のニオイだ。一体誰なんだ、こんな臭いニオイを放つ奴は。 何日も風呂に入らず過ごしているのか? それにしても周りの人達は、よくもまぁ平気でいられるよな。みんな我慢しているのかな? それとも鈍感なだけなのかな?』
壮太は会社に向かうため電車に乗っていたのだが、その電車に鋭いニオイを放つ人が乗車していたのだ。
『ニオイを放っているのはあの男か?』
その男は四十代前半ぐらいだろうか、センス良くスーツを着こなし、それに綺麗な靴を履き、髪もしっかりとセットされていて見た目から不潔というようなイメージは全くない。
ならばこの人から放たれている悪臭、あれは一体何なのだろうか?
吐き気をもよおすくらい鋭い体臭……壮太はそのニオイに我慢ができなくなり、目的の駅より一つ手前になるのだが、次の駅で降りることにした。
昔は『我慢』と『根性』とよく言ったものだが、壮太は既にその限界を突破してしまった。
それでも何とか『我慢』と『根性』でこの場を凌いでいた。
『やっと駅に着いた。早く降りよう』
壮太は電車を降りるため、ドアに向かい歩き出した。
『げっ! こいつもここで降りるのか?』
ニオイを放つ男もドアに向かって歩き出していたのだ。
『密閉空間でなければ、こんなに苦しむことはないだろう』
そう自分に言い聞かせ、その男とは距離を取るように歩こうと考えていた。
その男よりも壮太の方が早く電車から降りることができたので、そこからは少し速歩きで男との距離を空けようとしたのだが、男も急いでいるのだろうか中々距離が広がらないでいた。
それどころか尾行でもしているかのように、ピタリと壮太の後を付いて来ていた。
その男とは単純に行き先が同じだけなのだろか、それとも壮太が毛嫌いしていたことに気付いて嫌がらせをしてきているかのどちらかだ。
壮太が渡ろうとしていた国道の大きな交差点だが直前で信号が赤に変わってしまい、そこで男に追いつかれてしまった。
どうやら壮太を追い回していた訳ではなく、偶然にも行き先が同じなだけだったようだ。
信号待ちの間は壮太の方を一度も見ることなく、むしろ壮太よりも一歩前に出て信号待ちしながら何度も腕時計を気にしていた。
その姿から察して、男が急いでいるということは誰の目からも分かった。
『でも、やっぱり臭い! このあと男の後ろを歩くことになれば、自分で距離を調整することができる。それに男と違うルートを選択することもできる。そうだ、俺はこの交差点を渡らず左手側の交差点を渡り、向こう側の歩道を歩いて行こう。もう少しの辛抱だ』
壮太は渡ろうとしていた交差点を渡らず、男とは違う進路を選択することにした。
壮太が選択した交差点の信号は再び赤へと変わり、もう一度信号待ちをすることになった。
後ろを歩いて来ていた男は、壮太が最初に予定していたルートで交差点を渡って行った。
男は交差点を小走りで渡りきり、そこから歩道を少し進んだ頃、壮太側の信号が青に変わった。
そのあと「暴走車だ!」という叫び声が聞こえてきた。
ドーーン! ギィーー! ガッシャーーン! 辺りには大きな音が響き渡り、その音の中心だった場所には人集りができはじめていた。
「誰か、早く救急車を呼んで!」
『なんだ? 何があった?』
壮太はやじ馬根性から再び進路を変えて、人集りの方を目指して歩いて行った。
その場所には車にはねられたあの男が横たわり、血だらけで無惨な姿はピクリとも動かなかった。
男を跳ねた車は、建物にめり込んだ形で停車していた。
その車の中では年配の男性が、運転席で放心状態となっていた。
どうやら宝くじ売り場の駐車場に車を停める際に、ブレーキとアクセルを踏み間違えてしまったようだ。
『あれ?』
壮太は気になることがあり横たわる男に少し近づいてみた。
『やっぱり! あのニオイが消えている!』
しばらくして救急車が到着したが、男性は心肺停止のまま病院に搬送されて行った。
そして二時間後のネットニュースで男性の死亡を知ることになった。
その男の年齢は四十三歳だった。
二.協力者の親友
壮太は三年前の出来事を思い出していた。
『たしか三年前にも、あのニオイを嗅いだことがある。ある用事で親戚の家に行ったとき、叔母からあのニオイが出ていて嫌なニオイだと思っていたら、その二日後に突然、脳梗塞で亡くなってしまった。もしかしたら、あの死臭にも似たニオイというのは、その人の死を意味するニオイなのだろうか? 俺は死を迎えようとする人のことが分かるということなのだろうか?』
そんなことって本当にあるのだろうか?
壮太はまだ信じられない気持ちでいっぱいだった。
しかし、それが現実であると確信するような出来事が起こりはじめる。
いつも通りの出勤風景、満員電車に揺られながら今日も会社を目指していた。
電車の中はいつものように色んなニオイで溢れていたのだが、人から出ている一つひとつのニオイから、その人の体調や今の気持ちまでが判るようになってきた。
『んっ、 人の体調や気持ちが判る? なんだそれ? 本当にそうなのか?』
壮太は手に取るように分かる気がした。
『あの女性、今日はデートなのかな? 甘く優しい花のような香りに、弾ける爽やかな香りが飛んでいる。あの男性は嫌なニオイ、重く胸が締め付けられるようなニオイ、今日は気が進まない会議でもあるのだろうか?』
壮太はそれを確かめたいと思うようになった。
しかし、あの人達を追い回す訳にはいかないし、調べる手段はないと諦めかけていたのだが、会社の人であれば追いかけ回さなくても、ニオイを感じ予想したことの結果が分かるかも知れないと考えていた。
『しばらくは会社の人を注意深く見ていくのも良いのかも知れない』
しかし社員に対してプライベートを聞くことや、それに近い発言をしただけで、セクハラやパワハラだと大騒ぎされてしまう厄介な時代である。
壮太は、セクハラやパワハラにならないように確かめるにはどうしたらよいのかと頭を悩ませていた。
そこで壮太は社内で仲良くしている、梶谷俊平に協力して貰おうと考えた。
壮太は建築資材を扱う会社で働いているのだが、梶谷は同じ営業部に所属している同僚だ。
普段は売上を争うライバルであるが、プライベートでは月一回は飲みに行っている親友でもある。
梶谷のニオイから未来を感じ取り、その後の結果と合わせていくことができれば、自分に能力が有るのか確かめることができると思った。
問題は梶谷が協力してくれるのだろうか? ということだった。
それに関しては、たぶん大丈夫というぐらいの自信しかなかった。
壮太はその日の仕事帰り、梶谷を飲みに誘ってみようと考えていた。
二人は同じ年齢の三十五歳、共に独身である。
ただ最近の梶谷からは、今日電車の中で会った女性と同じような甘いニオイを発している時があるのだ。
あいつもしかして、彼女でも出来たのか?
そういえば……先週の金曜日「今日、軽く飲んでかないか?」と誘ったとき「今日はやめておくよ。ちょっと用事があるので」って言っていたよな。
あの時おかしいと思ったんだよなぁ……あいつが用事だなんて、何の用事だよって。
あの時は彼女とデートだったのかも知れない。
夕方、会社で梶谷を探し、声を掛けた。
「梶谷、今日は少し付き合ってくれないか? 俺がおごるから」
「本当か? 今日はお供させてもらいますよ」
二人の仕事が終わるのは夜の九時頃になるが、そのあと飲みに行く約束をした。
仕事が終わりに向かった先は、二人の行きつけの居酒屋。
そこの店は料理が美味しく、お会計はリーズナブル、そんなことから暗黙の了解となっていた。
壮太はその居酒屋で梶谷に、あの話をしはじめた。
「なぁ梶谷、お願いがあるんだけどいいか?」
「おいおい、お願いだなんて、金ならないぞ」
「違うよ金なんかじゃない。協力してもらいたいことがあるんだ」
「協力って何だ?」
壮太は自分が他人よりもニオイに敏感なこと、そのニオイから人の気持ちや運命が判るのだが、それが本当の能力なのかを確かめるため梶谷のニオイを嗅いで判断し、整合性を確かめるため気持ちを聞いたり行動を確認させて欲しいとお願いしてみた。
梶谷は迷いながらも今日はおごってもらうのだからと、渋々ではあったが協力することには同意をした。
「ところで梶谷、おまえ彼女できたのか?」
「えっ! 何でだよ?」
「最近のおまえからは、甘い花のような香りと弾ける爽やかな香りがする時がある。先週の金曜日もそうだったが、もしかして彼女とデートだったのじゃないか?」
「げっ、何だよお前! マジでそんなこと判るのか? ……そうだよ、先週は彼女とデートだったよ」
彼女とは付き合って三ヶ月で、友達の奥さんからの紹介だったらしい。
彼女は六歳年下の二十九歳で家族と同居しているのだが、その実家にも何度かお邪魔していて両親とも仲が良く、次の日曜日に彼女の家でおこなわれるバーベキューにも誘われているようだ。
梶谷はそのバーベキューに、壮太も一緒に来ないかと言ってきた。
壮太が「悪いから」と断ると、梶谷は携帯を手にして彼女にラインをして、バーベキュー参加OKの返事をもらった。
こうなると断る理由などなく、壮太もバーベキューに参加することにした。
三.楽しいバーベキューのはずが
日曜日のバーベキューはお酒も飲むことから、梶谷と駅で待ち合わせをして彼女の実家を目指した。
壮太は二人のお邪魔にならないかと心配しながらも、梶谷の彼女を見ることができるワクワク感も当然あった。
駅からは徒歩だったが、彼女の家が近付いていると感じたのは炭の焼けるニオイがしてきたからだ。
彼女の家に着くと父親らしき人が、庭でバーベキューの準備をしていた。
「おう俊平君、いらっしゃい」
「こんにちは、今日はお世話になります。こちらが同僚の犬走です」
「今日はお世話になります」
「珍しい苗字だね! まあ遠慮しないで楽しんで下さい」
『お父さんから放たれるニオイは、炊きたてのご飯のような優しいニオイで、温かさを感じる良いニオイだった』
お父さんは大手ガス会社で働いていて、年齢は五十八歳。
名前は藤波 悟、その一人娘が梶谷の彼女で名前は沙羅という。
騒がしくている外の声が聞こえたのか、沙羅ちゃんが外に出て来た。
「しゅん君」
満面の笑みを浮かべ、手を振りながら梶谷の傍までやって来た。
『か、かわいい! 正直、梶谷なんかにはもったいない! と言うか……羨ましい。この雰囲気からして、とても仲が良いのだろうな』
「沙羅ちゃん紹介するね、同僚の犬走です」
「よろしくお願いします」
沙羅ちゃんに話し掛けられた壮太は、沙羅ちゃんが余りにも可愛いくて照れてしまい、彼女の目すら見ることができない状態になった。
梶谷の彼女はそれほど可愛いのだ。
お母さんが庭に出てきたところで、いよいよバーベキューの開始となった。
そこで壮太は異変を感じた……それはお母さんから放たれるニオイに対するものだった。
『あのニオイがする……あの嫌なニオイだ。今考えてみると、叔母から放たれたニオイと、電車で会った人のニオイとは微妙に違っていた気がする。このお母さんから放たれているニオイは、電車の中で会って、その後に車にひかれてしまった、あの男性に近いような気がする。ただ、あの男性よりはニオイが少し弱い気がするな……ニオイの強弱、これにも何か意味があるのかも知れない。でも、このお母さんのことなんて梶谷に伝えられないよ……こんなこと伝えたら梶谷は絶対に怒るだろうな。でも黙っている訳にもいかないと思うのだけど……』
壮太は悩んでいたが、今はバーベキューに集中して、この事はあとからじっくり考えてみようと思った。
お父さん仕切りのバーベキューは肉や海鮮を美味しく頂き、とても楽しいものとなった。
梶谷と沙羅ちゃんはバーベキューの最中も相変わらず仲良くしていた。
それを見せつけられた壮太は思わずムッとする場面もあった。
夕方になりバーベキューは終了、二人は藤波家をあとにして駅へと向かった。
「おまえの彼女、めちゃくちゃ可愛いな! 正直、羨ましいよ」
「おまえも早く見つけたらいいよ」
壮太は今日の雰囲気を壊したくないとの思いから、沙羅ちゃんのお母さんの事は明日会社で伝えることにした。
伝えるには少々覚悟が要る内容ではあるが……
四.壮太の一大決心
あのお母さんの事を、梶谷にどう伝えるのが一番良いのかと、壮太は一晩中寝ずに考え会社に出勤した。
壮太は昨日のお礼という名目で、梶谷をランチに誘い出した。
店に入り二人は日替り定食を注文、これを食べ終ったら話をしようと心に決めていた。
食後のアイスコーヒーを飲みながら壮太が切り出した。
「凄く言いにくい事なんだが、聞いてもらえるか?」
「なんだよ陰気くさい顔して、コーヒーが不味くなるわ」
「あのな、沙羅ちゃんのお母さんのことなんだが、実は嫌なニオイがしていたんだ。これまで同じニオイの人に二人会ったが、二人共すぐに亡くなってしまった。沙羅ちゃんのお母さんからは、同じニオイがしたんだよ」
「はぁ? ふざけるなよ! そんなことある訳ない! オカルトなおまえの話しに付き合ってはいたけど、そんないい加減なことを言うのならこれで終了だ!」
バン! と机を叩き、梶谷は店から出て行ってしまった。
それからは二人は会社でも口をきいていない。
『やっぱりそう成るよな』
それから二日後、会社で梶谷の個人携帯が鳴った、相手はどうやら沙羅ちゃんのようだ。
電話に出た梶谷だが、身体からどんどん力が抜けていくのが見て分かった。
梶谷は一言「なんでだ……」と発した。
梶谷は沙羅ちゃんのことが心配になったのだろう、その日は会社を早退していった。
夜のネットニュースで分かった事だが、沙羅ちゃんのお母さんは交通事故で亡くなってしまったようだ。
報じられている事故の内容を確認してみると、お母さんは自転車に乗り買い物に行く途中、歩道を歩く小学生と接触しそうになり急ハンドルで避けたところ、乗っていた自転車のバランスを崩し転倒、車道と歩道を分けているコンクリートのブロックに後頭部から落ちて出血し、その場で意識不明となったようだ。
病院に救急搬送されたお母さんだが、病院で死亡が確認されたという内容だった。
お母さんは五十五歳という若さでこの世を去ってしまった……旦那さんと可愛い一人娘の沙羅ちゃんを残して……さぞ無念であっただろう。
奇しくも壮太の予言が的中してしまう結果となった。
この件がきっかけで壮太は人の命を助けたい、自分なら助けることが出来るのではないか? と考えはじめた。
それを成し遂げる為には何をどうしたら良いのだろうか……壮太は悩み考えた。
ここから壮太の人生は大きく変化していくことになる。
壮太はアパートに帰宅してからスマホを利用して、求人募集の検索をはじめた。
壮太は転職することを決めたのだ。
気づいてしまったこの能力、これを活かして人命を救うことができる仕事があるのではないかと気持ちは焦っていた。
会社では同僚の梶谷と不仲になり、私が会社にいない方が良いのだろうかとも考えていた。
正直こんな能力さえなければ梶谷と不仲になることもなかった、彼女のお母さんの死を予言することも、気付くことすらなかったはずだ。
不幸にも壮太にはその能力があった。
今は不幸でしかない能力だが、この能力で人が幸せになるように活かしていきたいと思った。
その時ある求人が目に止まった。
「NPO法人 心の窓 これってなに?」
心の窓は県が支援している団体で、今の生活に悩んでいる人から心の声を聞き、主に自殺者の抑制を図るというのがこの会社の目的らしい。
決して給料は良くない仕事だが、今自分ができる社会貢献ができたらとの思いで、この求人『心の窓』に応募したのだった。
翌日、梶谷は会社を休んでいた。
梶谷は会社に事情を説明して五日間の有給休暇を取得したようだ。
壮太の携帯には、昨日の夜に応募した会社から面接の案内が来ていた。
それに対して返信をおこなった結果、壮太の面接日は二日後の土曜日に決まった。
今の壮太に迷いはなかった。
既に新たなステージに気持ちは向いていた。
五.友情とは
【面接当日】
面接に伺う会社は、壮太が現在働いている会社から近い場所にあった。
この会社が設立されたのは、約二ヶ月前という新しい会社である。
設立の目的は自殺者の抑制。
この県では昨年辺りから自殺者が急増していたことが根本にあった。
面接では自分の能力のことは、一切言わずにいようと壮太は決めていた。
それを言ったところで、頭がおかしい人が来たと思われるだけだろうと予想していたからだ。
何も分からない人から見たらそんなところだろう。
「本日、面接をお願いしています犬走壮太と申します」
「お待ちしておりました。こちらへどうぞ」
対応してくれたのは三十代くらいの女性だったが、もう一人奥に五十代くらいの女性も見えた。
部屋に案内された壮太は、面接官を待っていた。
部屋に入ってきたのは奥に居た五十代の女性だった。
名刺には相楽さゆり『代表』となっている。
相楽代表はとても話しやすく、この人とだったら何でも相談したくなるだろうなという印象だった。
この面接の結果は一週間以内に返事が伝えられる。
面接結果が良いものであった場合、いつから就業ができるかと聞かれた壮太は「来月の一日から就業可能です」と答えた。
その日と言うのは面接日から三週間後という、一ヶ月の猶予もない日取りを伝えた。
この段階では会社に退職する意思を伝えている訳でもなかったのだが、一刻も早く人を助けたいという想いからそう答えた。
その想いは面接官でもある相楽代表にも十分伝わっていた。
そして二日後、壮太の携帯に採用の連絡が届いた。
壮太は連絡の直後に上司へ退職願を提出し、最終出勤日などの希望を伝え承諾された。
【退職当日】
あの日以来、梶谷とは一切口を聞いていない。
退職の当日であっても、お互い挨拶することなく壮太は会社を退職した。
「きっと、これで良かったんだよ」
壮太は自分に言い聞かせるように呟いた。
とにかく今は前を向いていこう、梶谷みたいに悲しい想いをする人を少しでも減らせるように、精一杯の力を注ぐ決意だった。
明日からは心機一転『心の窓』へ出勤することになる。
相楽代表は県職員として相談窓口の担当で長い間働いてきた人物で、当面の間は壮太の指導をしてくれることになります。
壮太の胸の内は『相楽代表から相談技術を習得して、早く人助けがしたい』と考えていた。
退職した夜に壮太は、自分に対して御苦労さんという意味を込めて、お店で飲んで帰ろうと思っていた。
だが梶谷とよく飲んでいたお店は避け、街をフラッと歩き直感で一軒のやきとり屋を選び中に入った。
その店で生ビールを三杯とやきとりを十本ほど食べ満足し帰宅した。
しかし壮太が飲んでいた時間と同じ時間に、梶谷はいつもの居酒屋で一人飲んでいた。
いつもの居酒屋に梶谷がいたこと、何か目的があったのだろうか、それとも目的など何もなかったのだろうか、それは今となっては分からない……
もしかしたら梶谷は、壮太に謝るチャンスを探していたのかも知れない。
二人の関係はここで終わった。
なんとも皮肉なことだ。
六.新たな職場
翌日から壮太は、新しい職場へ出社した。
研修期間は一ヶ月の予定だが、壮太の中では何とか二週間以内で習得しようと集中して研修を受けた。
その甲斐があり試験も二週間で合格、晴れて窓口の相談業務をおこなうことが出来るようになった。
最初の相談者は七十代の男性で、妻に先立たれ大きな家で一人寂しく生活を送っているという。
子供はおらず相談相手も居ないということで『心の窓』を訪れていた。
この男性、若い頃は仕事に没頭していたらしく周り近所の人とは交流をしてこなかったので、会社以外の人とは全く付き合いがなく心を許せる人が周りにはいない。
お金に不自由はしている訳ではないが、できれば笑顔で話せる仲間が欲しいとのことだった。
『心の窓』には色んなサークルから案内がたくさん届いており、壮太はこの男性に合いそうなサークルをいくつかピックアップして紹介した。
男性が気に入った一つのサークルに壮太が電話をして、そのサークルへの入会が決まった。
『心の窓』に持ち込まれる相談は、このようにあまり重くない相談もあれば、お金が絡むようなドロドロとした話や学校や会社でのイジメなど様々で、色んな原因から精神不安定となる重い内容もある。
もうすぐ冬がやってくるという晩秋のこの時期、顔に血の気と表情が全くない中年の男性が『心の窓』に現れた。
『うっ! 臭い!』
壮太は一瞬、身体を仰け反らせてしまうくらいのニオイだった。
『間違い、あのニオイだ』
壮太はギアを一段切り替えるように、その男性と向き合った。
「どうかされましたか?」
「私は小さなバイク屋を経営していましたが、妻が作った借金で店が潰れてしまいました。きっかけとなった妻は男と家を出て行き、その後の行き先は分かりません。風のうわさですが、どうやら出ていったその男と暮らしているようです」
窓口を訪れた男性の名前は、馬場 典助五十三歳、馬場さんの話によると、店は親から譲り承けた土地に借金をして店を建てバイク屋を経営していたらしい。
妻はショッピングセンターのパートタイマーで働いていたこともあり、バイク屋は典助さんが一人で切り盛りしていたそうだ。
典助さんの家庭は贅沢とまでは言えないが、ごくごく普通の生活はできていた。
ある日突然、それは一変した……
今から三週間前、いつものように店でバイクを修理をしていた時、店の前に立つ人影に気付いた。
『いらっしゃいませ』と声を上げた典助さんだが、店の前に立つ人の姿が確認できた瞬間、身体が固まってしまった。
店の前に立っていたのは典助さんの妻で、その隣りには派手な服装をした若い男性も立っていた。
妻は多額の借金を作ってしまい、その返済のため、この店の土地と建物を不動産屋に売ってきたと言う。
妻は典助さんに対し「悪い事をした」と言って、離婚届を差し出してきた。
「これに貴方もサインをして。そして役所に出して下さい」と言って、男と二人でその場を去っていったそうだ。
典助さんの住まいは賃貸マンション、自宅は全ての電化製品が消えてガランとしていた。
もちろんバッグや宝石類は全てなかった。
典助さんは店が売られたということを信じる事ができず翌日も店に向かったのだが、昼過ぎには店を買い取ったという不動産屋がやって来て、早くこの店から立ち退くよう強い口調で言われた。
その二時間後には「返済額が二百万ほど足りない」と言って借金取りまでもが訪問して来たのだった。
典助さんはその借金取りに対し「私の妻は一体いくらの借金があったのですか?」と尋ねたところ、総額一千万円だと言われた。
一体そんな大金を何に使ったのか借金取りに尋ねたところ、半分はパチンコ等のギャンブル、半分は男に貢いでいたらしいと言った。
この店の買取価格は土地と建物を合わせて八百万で、全て返済に回されたそうだが、残金として二百万残ってしまい、借金取りはその返済を要求してきたのだった。
典助さんはどうしたら良いのか判断できないまま「とにかく一週間待って欲しい」と頼むのが精一杯だった。
典助さんは無一文となり、これからどうしていけば良いのかも分からず、このまま楽になりたいと自殺まで考えるようになってしまった。
このままではダメだ、何とかしなければとの思いで『心の窓』を訪れた。
『確かに臭う、これは死のニオイだ。しかし前に経験した三件のニオイとは少し違う気がするのは、自らで命を断とうとしているからなのだろうか? 死の内容でニオイが微妙に違うのかも知れない。そうだとしたら、これは間違いなく救える命だ』
先ずは典助さんの生活を助けるため役所に連絡を取り生活保護の受給申請をして、今後の生活のための準備をおこなった。
次は弁護士の紹介と相談がおこなわれた。
弁護士からは自己破産することが一番であるとの指導を受け、その手続きを弁護士の先生にお願いすることにした。
明日も心の窓に来る約束をして典助さんには帰宅してもらった。
典助さんに対応してる間に、一人の女性が神妙な面持ちで『心の窓』にやって来て、相談窓口が空くのをうなだれながら待っていた。
その女性も壮太が対応することになったのだが、この女性からも微かにあのニオイがしていた。
先ほどの男性と比べるとまだニオイは弱いが、この方は会社でイジメにあっていると言う。
名前は卯月 真実さん、二十四歳、見た目の印象は清楚なのだが、この女性にも死が近づいていると言うことなのだろうか。
イジメのきっかけは会社でのほんの些細なことからだった。
真実さんが働く会社は割に女性社員が多いことから、イケメンの男性社員なんかは取り合いになることもあるという。
その女性社員の中にはお局様といわれる人や怖い先輩なんかも居るので、気遣いなどが欠かせない職場である。
そんな職場で真実さんは、たまたまなのだが人気のある男性社員と給湯室で一緒になり、話しをしている所をリーダー格の女性社員に見られてしまった。
それが面白くなかったのだろう、それからイジメがはじまったのだが、そのイジメは日を追う毎にエスカレートしていった。
周囲の人から無視され、自分が座っている椅子は汚され、上司から頼まれた書類は破られたりすることまであった。
その中でも一番酷かったのは、会社で一番嫌われている太った四十代の男性社員の太田に、リーダー格の女が「卯月さんは、太田さんのことがとても気になっているんだって。太田さんは彼女とか居るのかな? とか、居ないなら私じゃダメかな? って言っていましたよ。私のことが嫌じゃなければ、お付き合いがしたいんだって。もし太田さんの返事がOKであれば、今日、ロイヤルホテルのラウンジで待っているから、会社が終わってから来て欲しいって。このこと太田さんに伝えて欲しいって卯月さんから頼まれたのですが、太田さん、どうしますか?」と嘘の話を持ち掛けていた。
太田は「えっ、そうなんだ! 俺、卯月さんの気持ちに全然気がつかなかったよ、悪いことしちゃったな。分かった、今日、仕事が終わったら大至急ロイヤルホテルに向かいます」と返答した。
そのあとリーダー格の女は卯月さんのところに行き「今日、仕事が終わってから女子会やるから、六時にロイヤルホテルのラウンジに集合ね。卯月にも参加して欲しいの……今日から仲直りがしたいのよ。今まで嫌なことをしてごめんなさい。待っているからね」と持ち掛けた。
この嘘の話を信じた真実さんは、六時にロイヤルホテルのラウンジで皆を待っていた。
当然だが時間が過ぎても誰も来なかった。
『みんな遅いな』
そんな純粋な気持ちで一人待っていると、突然背後から抱きつかれた。
その時はあまりの恐怖から声も出なかった。
完全に勘違いした太田が、卯月さんの背後から抱きついていたのだった。
「ごめんね、今まで卯月さんの気持ちに気づいてあげられなくて」
真実さんは何が起こっているのかさえ理解ができないまま、この恐怖とひたすら闘い怯えていた。
その時間は十分余りも続いた。
太田はこの日から真実さんのストーカーになり、どんな時でも太田から見られているという恐怖に怯えた。
会社ではイジメの他にストーカーまで加わり、プライベートも含め地獄のような日々となっていった。
壮太は卯月さんから三十分ほどの話を聞き、先ずはストーカー対策をしなければいけないと考え警察と連携することにした。
会社でのイジメの件は、会社の上層部に知られるともっと大変な事になるからと言われ、真実さんの希望で一旦保留となった。
卯月さんとは一週間に一回、心の窓を訪れるようにと約束した。
七.未熟さが生んだ悲劇
翌日、約束した通り典助さんが来店してきたが、あのニオイは少し薄くなっているような気がした。
あれから弁護士との話も進んでおり、気持ちが少しずつ楽になっていることが影響しているのかも知れない。
生活保護の申請手続きも、心の窓が間に入っていることから順調に進んでいた。
今後のことが見えてきたことで、典助さんは死を考えることがなくなったのだろう。
しかし、まだ気を抜くことはできない。
典助さんには全ての手続きが完了するまで、毎日心の窓に来るようにと伝えた。
【一週間後】
全ての手続きが終了し、住まいも県営住宅に入居することができた。
典助さんはこれから頑張らなければならないことは多いのだが、一先ず不安を取り除くことができたのだ。
「馬場さん、不安を感じるようなことがあれば、いつでも相談に来てくださいね。馬場さんの人生が良い方向にいくことを願っています」
「本当にありがとうございました。私は死から救われたような気持ちです。いつかこの恩返しが出来るよう、しっかり生きていきます」
典助さんから出ていたあのニオイは、完全に消えていた。
壮太は一人の大切な命を救えたことに安堵した。
典助さんからニオイが消え安堵したと同時に、ある不安がよぎっていた。
会社でイジメを受けていた卯月さんが来店してから一週間が経ち、約束の日になったのだが卯月さんはまだ心の窓に姿を見せていなかった。
『何かあったのかな。でもそれは考えにくい。確かにあのニオイはしたのだが、あれはまだニオイが薄かった。もうしばらく待ってみよう』
しかし夕方になっても卯月さんは来店しなかった。
壮太は心配になり、卯月さんの携帯電話に連絡をしてみることにした。
電話に出たのは卯月さんの声とは明らかに違う、年配女性の声だった。
「卯月さんの携帯でしょうか?」
「はい、そうです」
「こちらは真実さんの携帯で間違いはないでしょうか?」
「そうですが……真実は昨日、亡くなってしまいました。私は真実の母親です」
母親から出た言葉は、壮太が予想もしていなかった言葉だった。
壮太の体に鋭い電気が走った。
真実さんの母親としばらく話しをして、真実さんの死の内容が分かってきた。
真実さんはあの日以降も、イジメ絡みのトラブルがあったらしい。
会社で女性社員の財布がなくなったのだが、周りの社員は真実さんが犯人だと決めつけて一斉に責め立てたそうだ。
真実さんは涙を流しながら必死に無実を訴えたのだが、誰も彼女の味方する者はいなかった。
その二時間後、真実さんは変わり果てた姿で見つかった。
トイレのドアノブに紐をかけ、首を吊った状態で亡くなっていた。
そこには遺書が置いてあり、内容はこうだった。
『もうこれ以上、生きていくのは無理です。お母さんごめんなさい』
自殺だった。
壮太は電話を切ったあと、その場で泣き崩れた……号泣だ。
危険だと判っていながら、大切な命を救うことが出来なかったことが悔しかった。
どうしていたら良かったのか、ニオイの薄さに安心してしまったからなのか、もっと彼女のことを気にするべきだったと自分を責めた。
しかしどんなに悔やんでも、真実さんが生き還ることはない。
このとき壮太は、これから沢山の命を救っていくことを真実さんに誓った。
理不尽に失われていく命、壮太は一つでも多く救いたいと強く思った。
おわり